3 龐 涓 (ほうけん) ( ? ~前341年)





~友人を罠にかけ敗れて自殺に追い込まれた中国戦国時代の秀才~





 中国の「戦国時代」 は紀元前の時代でした。

 日本でいうと、縄文時代の末期から弥生時代の初めにあたります。




 中国では七つの強国が「戦国七雄」 とよばれ、互いにしのぎを削っていた時代でした。

 兵法家は、戦いの作戦を立てるという役目を担うわけですから、とりわけ重要な立場です。




 龐涓(ほうけん) は、この七雄の中の一つである「魏」(ぎ) の国の優秀な兵法家であり、将軍でもありました。




 その彼が最終的に自殺に追い込まれたのはなぜなのでしょうか。




 龐涓は少年時代に兵法を学んでいました。

 机を並べて一緒に、同じ師匠から学んでいた人物に孫臏(そんぴん) がいます。




 孫子の兵法で有名な孫武(そんぶ) 五世の孫にあたる人です。


 ともに立派な兵法家になろうと努力を続けました。




 二人は互いに優れた才能を発揮しながら学び、親友でもありました。

 学を修めた後、孫臏は故郷の斉(せい) の国に帰りました。




 一方、龐涓は魏の国に仕え、その優秀さからまたたく間に将軍に登りつめたのでした。

 早々と先に出世した龐涓は得意顔で、親友の孫臏と再会することになります。




 手紙を書いて「僕の仕事を手伝ってほしい」 と、魏の国に呼び寄せたという説と、孫臏が自ら龐涓の出世の祝いに出向いたという説もあります。




 いずれにせよ孫臏は、最初は大歓迎を受けるのですが、後に龐涓の態度は急変します。




 何と、孫臏を罠にかけ、両足を切断する臏刑(ひんけい) に処し、額に罪人の印の刺青(いれずみ) を施し、奴隷部屋に監禁したのです。





 なぜでしょうか。





龐涓は孫臏の優れた才能を見抜いていたので、このままではいずれ取って代わられるのではないか、と恐れたのです。





 将軍、兵法家という自分が手にした地位を守るためには、親友でも邪魔な存在になったのでした。





 この背景には、権力と差別心が見え隠れしていますね。


 自分は親友よりも偉いのだから、上でなければならない。





 せっかく手にした権力を、脅かされてはならない。

 孫臏を車いすにして動けないようにすれば、自分は「安泰」 ですね。





 しかし、孫臏は両足を失いながらも、ある出会いによって運命が大きく変わります。


 彼が惚れ込んだ、名も知れぬ女奴隷です。





 彼女は孫臏を、魏の国に使いとしてやって来た斉(せい) の国の使者に引き合わせたのです。

 この使者は田忌(でんき) という人物で、たちまち孫臏の賢才に惚れ込みました。





 田忌は秘かに自分の馬車に孫臏を隠して、斉の国に連れ帰ったのです。


 後に斉の威王(いおう) は、田忌を将軍に、孫臏を兵法家として軍師に任命したのでした。





 紀元前341年、ついに魏と斉は激突します。

 兵法家としては、かつての親友である龐涓と孫臏が戦うことになったのです。





 この戦いは歴史上「馬陵(ばりょう)の戦い」 と呼ばれています。

 ここで孫臏が、見事な頭脳戦を展開しました。





 戦うと見せかけた斉軍は、魏の領内に入ると撤退を開始します。




 退却に際し孫臏は、初日は露営地に十万人分の竃(かま) を作らせ、翌日は五万人分の竃を、次の日には二万人分の竃を作るように命じたのです。




 日ごとに数が減っていますね。




 龐涓はこの事実を「臆病な斉軍は脱走兵が続出している」 と読み、魏軍の兵の装備を軽くし、昼夜兼行で斉軍を追わせたのです。




 しかし、日没後に馬陵に到達した龐涓は、脇街道の大樹に思いもよらぬ文字を発見します。


 「龐涓この木の下に死せん」




 待ち伏せですね。





 松明(たいまつ) をもっていた龐涓に、無数の斉軍の弓が射かけられました。

 暗闇の中で、龐涓の最期の瞬間が、突然訪れることになったのです。





 「小僧に名を成させてしまったか」

 プライドが許さなかったのでしょう。

 



 最後にこの言葉を発し、彼は持っていた刀で自害しました。





 親友を大切にし、差別意識から解放されていれば、魏の国と将軍龐涓の運命はこうはならなかったでしょう。




 この戦いを境に魏は衰退し、最終的には始皇帝で有名な秦(しん) に滅ぼされたのでした。
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