1 武 王 (前1087?~前1043)





~父親が持っていた野心の犠牲になった古代中国の王~





 古代中国の殷(いん) 王朝を滅ぼして周(しゅう) 王朝を建国した王として知られている人物ですね。




 殷は紀元前17世紀頃から約600年続いた、中国最古の王朝とされてきました。

 今から3,000年以上も前の話で、日本では縄文時代です。




 周も紀元前1046年から数百年にわたって長く栄えた、歴史に残る王朝です。

 その周王朝初代の王である武王は、即位後わずか2年であっけなく死んでいるのです。




 なぜなのでしょうか。




 彼の父親は西伯(せいはく) といい、殷の西方に存在する周辺諸侯の一人でした。

 弱小でしたが野心家で、いつか殷を倒し、天下を統一しようと狙っていたのです。




 殷の最後の王は、暴君として有名な紂王(ちゅうおう) です。




 燃え盛る火の海の中に、受刑者が容赦なく転落する「炮烙の刑」(ほうらくのけい)、酒の池と木に吊るした肉とともに裸の男女を豪遊させた「酒池肉林」 などで知られる「悪王」です。




 この殷の紂王にとって代わろうとしたのが周の西伯です。

 しかし、西伯は志半ばで病に倒れます。




 彼には才能に優れた長男がいたのですが、この長男も早々と病死していました。

 だから、次男の発(後の武王) に父の後継者の役目が回ってきたわけですね。




 人徳があり人はいいが、決断力と気迫には欠ける性格だったと言われています。




 幸いにも優れた家臣の太公望が健在で、発の弟の周公旦(しゅうこうたん) も才能豊かな弟でした。




 発は殷に決戦を挑みます。

 牧野(ぼくや) の戦いです。




 周軍は諸侯の連合軍で、5万人でした。

 対する殷軍は70万人の大軍でした。




 ところが、殷軍の大半は奴隷で構成されており、戦いが始まると周軍に寝返るものが続出したのです。




 この戦いは周が圧勝し、殷の紂王は宮殿で焼身自殺をします。

 ここに殷は滅び、発は武王として即位して周王朝が誕生したのでした。




 僕が不思議なのは、このとき武王は、紂王の焼けただれた死体に3本の矢を打ち込み、首を黄金の鉞(まさかり) で落とし、旗の先に掲げたのでした。




 相手は焼死体です。




 国王交代の宣言のための儀式という意見もありますが、小心者がこれでもか、これでもかと、しつこく不必要な攻撃を加えているようにも見えますね。




 歴史は勝者によって作られます。




 このことから、殷の紂王は必要以上の悪王に仕立てられた可能性も考えられるのです。


 天子となった武王は、すでに亡くなっていた父の西伯に「文王」 という名を追号しました。




 その後、功臣たちの論功行賞を行いました。




 その結果、太公望は斉(せい) の王に、周公旦は魯(ろ) の王になりました。

 これが周の封建制の始まりです。




 しかし、天下がまだ安定しなかったので、周公旦は魯(ろ) の国に行かず、中央で兄の武王の補佐をしていました。




 武王は熱心すぎるくらいに、早朝から夜遅くまで政務に励みました。



 見かねた家臣から言われました。

 「少しお休みになってはいかがですか。




 お体にさわります」




 「いや、周王朝の基礎をしっかりさせるまでは休めん」

 このようにはねつけて、頑張り続けました。




 ついに武王は病に倒れます。

 病名はわかりませんが、次のように言い残しています。




 「わしはもう疲れた・・・。

 弟よ、後はたのむぞ・・・。




 幼い王子を助けてやってくれ」


 周の王としての即位から、わずか2年後のことでした。




 過労からくる心労が、大きく関係している可能性が大ですね。

 もしかしたら過労死かもしれません。




 いずれにせよ、武王が権力や差別意識から解放された生き方をしていれば、もっと健康で、楽しく長生きできる方法が見つけ出せたのではないでしょうか。




 周の武王は、早死にするために王になったのでしょうか。
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