13 緒方貞子 (1927 ~ )





~世界の難民に寄り添い活動した国際連合の改革者~





 「世界の平和は受け身で行動しているだけでは得られません。

 汗を流して構築すべきものです」




 自らの身の危険も顧みず、銃弾飛び交う危険地帯に命がけで飛び込んでいった「小さな巨人」 緒方貞子さんの言葉です。




 僕が彼女の生き方に注目していることは、被差別の立場にある世界のたくさんの難民とともに歩いたことです。





 当時官僚的、天下り的存在だったUNHCR(国連難民高等弁務官事務所) を、自らの勇気と行動力で変えました。




 人権感覚が豊かで、差別意識から解放された人でなければ、なかなかできることではないと思います。





 緒方さんは1927年、東京都港区で生まれました。

 父親が外交官だったため、幼少期はアメリカや中国などで過ごしています。





 小学校5年のときに日本に戻り、大学卒業後はアメリカの大学院に留学しました。





 国際政治学者で、大学教授でもありますが、特筆すべきことは1991年、スイスのジュネーブに本部を置くUNHCRの弁務官に選出されてからの活動です。





 すでに、世界中に2,000万人もの難民がいたのです。





 湾岸戦争では従来の国連の慣例を破って、見捨てられそうになったクルド人難民の支援のために、イランとトルコの国境地帯を12時間も歩きまわりました。





 アメリカのブッシュ大統領にも謁見して、難民の人々のために「多国籍軍をそんなに早く撤退させないでくれ」 と積極的に頼み込んでいます。




 UNHCRと多国籍軍の協力により、20万人の難民がキャンプに収容され、罪のない人々の命が救われました。




 国外流出だけでなく「国内難民」 の支援も彼女の発案です。





 また1992年、旧ユーゴスラビア内戦のとき、緒方さんは防弾チョッキ一つでサラエボの空港に降り立ちました。





 40万人が連日の砲撃にさらされ、道路が封鎖されていたのです。

 空輸によって援助物資を届ける、という作戦に出ました。





 UNHCRにとって、国連保護軍との共同の空輸作戦は史上初めてのことでした。

 過去の憎しみを乗り越えて、住民たちの生活を再建するプロジェクトも立ち上げています。





 例えば、内戦で夫を亡くしたムスリム人、セルビア人の未亡人たちが力を合わせて、人形作りをする事業の支援です。





 民族を越えて共生の世界を作っていかなければ、真の平和と安定にはつながらない、という考えからのプロジェクトです。




 緒方さんは、海外での、日本の難民支援=お金 というイメージを一掃しています。




 
 さらに1994年、アフリカでは100万人のルワンダ難民が出ました。

 このときも緒方さんは現地へ乗り込んでいます。





 この難民の中には、集団虐殺に関与した武装兵士や民兵が紛れこんでいました。

 難民とどのように区別するかが大きな問題になったのですね。





 国連軍も派遣されませんでしたが、UNHCRは女性、子どもが多数の難民キャンプでも旧戦闘員を区別することなく、食糧等を援助しました。





 同義的な問題を理由に、有力なNGOも撤退する中、緒方さんは現場の援助を続けました。


 これらの紛争に共通していることは、背景に民族差別が存在しているということです。





 緒方さんが率いた3期10年の間に、UNHCRは予算、職員数共に倍増し、国連の中心的な組織として生まれ変わりました。





 「地球に共に生きる人間として、支え合おうとする連帯感が必要です」





 現在、および将来の国際社会の在り方を考えるとき、民族差別を乗り越え、言葉や文化が違っても 「共に生きる」 ということが不可欠だと考えるのは僕だけでしょうか。
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