11 望月カズ (1926 ~1983)





~朝鮮戦争後133人を育てた38度線のマリア~





 僕が望月カズの生き方に共感できることは、行政という権力に屈せずに、自分の信念に基づく自由な生き方を貫いたということです。




 その一生は波瀾万丈の連続でした。

 そして自分自身が孤児です。




 差別に負けず、朝鮮人も差別をせず、生涯で133人もの孤児たちを育てました。

 身よりのない被差別の立場にある子どもたちと、共に生きる課題を共有しました。




 冷戦の代理戦争という歴史の動乱の中で、北緯38度線を越えて満州に渡ることができず、祖国日本への望郷の思いに駆られながら、ソウルで生き、ソウルに没しました。




 日本へ帰ったのは死後になってからです。

 朝鮮戦争の孤児とともに生きた孤児の母。





 彼女は「38度線のマリア」 とよばれ、韓国の人々から親しまれています。



 彼女はいったいどんな人物だったのでしょうか。




 東京の杉並で生まれたカズは、父の顔も知らないまま、4歳で母とともに満州へ渡りました。

 背景にはもちろん満州事変がありますね。




 しかしその2年後、母と死別しました。




 6歳という幼さで両親を失い、天涯孤独な孤児になってしまいました。

 農奴として転売されながら、満州を放浪することになります。




 金銭で売買される奴隷ですね。




 人権無視のきびしい状況の中で、かろうじて生き続けました。

 17歳のときです。




 幸運にも、偶然北朝鮮の城津という所で、ある日本人夫婦と知り合いになり、戸籍上のみの養子になったため、日本国籍を得ることができました。




 一時、永松カズと名のったのはこのためです。




 見習い看護婦をしながら第二次世界大戦の終戦をむかえ、1945年、日本に帰ることができました。




 しかし、彼女がそこで見たものは、廃墟と化した日本の悲惨な風景でした。

 身寄りもなく絶望したカズは、再び満州をめざしました。




 ところが、戦後南北に分断された朝鮮は、北緯38度を越えることができなくなり、やむをえずソウルに留まったのです。




 1950年、不幸にも朝鮮戦争が勃発しました。

 銃火の下を逃げまわるカズの目の前で、一人の韓国人女性が胸を撃たれ倒れました。




 その腕には、血まみれの男児がいました。

 カズはその男児を見捨てることができず、思わず抱きしめました。




 彼女の生涯の生き方が決定した瞬間ですね。



 「この子を見捨てられない」




 戦争の過酷な環境の中で、一時的な木造の仮の家屋であるバラックに住み、ほとんど孤立無援で肉体労働を重ねました。



 露天での理髪業や軍手製造、豆炭売り、時には体の血を売りながら次々と孤児たちを育てていったのです。




 その数は133人になりました。




 このような中で、彼女の孤児院を国の施設に移管するという話がもち上がりました。

 しかし、カズは断固としてこれを拒否しています。




 なぜでしょうか。




 行政がお金を出すということは、同時に口を出すということでもあります。

 これは言い方をかえれば、行政の支配下に入ることを意味します。




 「かわいそうだから助けてあげる」

 という「同情という名の差別」 をカズは見抜いたのだと思います。





 課題を共有して共に生きるのであれば受け入れられたのですが、上から目線で孤児を見下す姿勢に反発したのだと僕は考えています。





 楽してお金を得るよりも、苦労してでも自分の信念に沿って自由に生きることを選んだ生き方。




 望月カズは、もっと多くの日本人に知られるべき「38度線のマリア」 ではないでしょうか。
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