10 神谷美恵子 (1914 ~1979)





~ハンセン病患者の心に寄り添い共に生きた精神科医~





 医師、教師、政治家などの職業に携わる人々は、対人関係において注意しなければならないことが一つあります。




 それは、人からごく普通に「先生」 などと呼ばれるために、偉くなったような錯覚に陥り、人を見下してしまいやすい危険があるのです。




 僕もこのような勘違いに気づいていない時期がありました。

 でも、神谷美恵子はちがいます。




 医師、作家、大学教授でもあり、人より恵まれた家庭の経済環境、優れた才能、容姿の持ち主でありながら、おごったところが全くありません。




 いったいどんな人だったのでしょうか。




 岡山で生まれた美恵子は、いわゆる上流階級とよばれる豊かな環境の中で少女時代を過ごします。



 しかし、貧しい者への後ろめたさを感じながら、満たされないものがありました。




 通った小学校はこのような環境の令嬢が多く集まる学校でした。

 でも厳格な規律や「あそばせ言葉」 を使うお上品な貴族趣味にはうんざりしていました。




 父の仕事のため、スイスのジュネーブで3年半過ごしています。




 快適な生活に見えますが、彼女にとっては召使いや運転手つきの生活、豪華な邸宅も居心地の良いものではありませんでした。




 19歳の大学生の時です。




 美恵子は叔父からハンセン病患者の療養所である東京の多摩全生園で、賛美歌を歌う患者たちのオルガン伴奏を頼まれました。




 そこで彼女が見たものは、見る影もなく病みくずれていた患者たちの姿でした。

 鼻のない人、下唇が下へ垂れ下がったままの人、まぶたが閉まらない人、四肢のない人。




 「こんな病気があるものか。

 なぜ私たちでなく、あなた方が。




 あなた方は身代わりになってくれたのだ」

 この人たちのためにどうしても看護師か医者になりたい、と思うようになりました。




 しかし、両親は猛反対です。




 27歳になって、やっと父の許可がおりました。

 ただし、条件付きです。




 「ハンセン病をやることだけは許さない」




 この言葉の裏には、いったい何があるのでしょうか。




 美恵子は努力の末、30歳のときに精神科医になることができました。




 43歳のときになって、岡山県の離島にあるハンセン病療養所「長島愛生園」 の精神科非常勤医師として勤務することになったのです。




 「別に理屈ではない。

 ただ、あまりに無残な姿に接するとき、心のどこかで切なさと申し訳なさでいっぱいになる」




 この考え方は美恵子の生涯を貫いています。




 医師というより、むしろ看護、あるいは介護という立場でともに寄り添って行動しました。

 患者たちは声高らかに賛美歌を歌い、信仰の喜びを口々に語るのです。




 確かに批判もあります。




 死ぬまで患者を強制隔離するための法律「らい予防法」 は偏見と差別のもとになり、1996年に廃止されるまで続いていました。




 美恵子はこの法律の範囲内での行動ではないか、という批判です。




 しかし、批判の批判があることも事実です。




 そもそも美恵子はハンセン病治療の専門医ではありません。

 精神科医です。




 僕が重視したいのは、患者の心に寄り添って、生きる課題を共有して純粋にまっすぐ生きたために、差別を乗り越え、生きる喜びを共につかむことができたということです。




 だから、たくさんの患者から慕われたのではないでしょうか。




 批判は否定できませんが、僕はこの「批判の批判」 に賛成です。




 僕自身の反省も含めて、人を見下し、上から目線で命令口調で接する「先生たち」 はたくさんいます。




 しかし彼女は、差別意識から解放されたからこそ、親からの「差別命令」 を乗り越え、自分も患者も大切に生きることができる人になれたのです。




 その人柄、まっすぐな生き方に共感できるのは、僕だけではないと思います。




 人間として対等に生きるという意味で、学ぶべき人物ではないでしょうか。
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