9 田内千鶴子 (1912 ~1968)





~3,000人の孤児とともに韓国で生きぬいた日本人女性~





 死後40年以上たった今でも、韓国の人々から 「オモニ(お母さん)」 と呼ばれている日本人女性がいたことをご存知でしょうか。




 名前を田内千鶴子(たうちちずこ) といいます。



 彼女は第二次世界大戦や朝鮮戦争による戦争孤児たちを、日本人、韓国人の分け隔てなく引き取って育てあげた人物です。




 その数3,000人。



 民族差別を乗り越えて、必死になって生きぬいた姿は、とても共感できる生き方だったのではないでしょうか。





 千鶴子は1912年、高知県で生まれました。


 7歳の時に、母親とともに朝鮮半島の南西部に位置する木浦(もっぽ) に移り住むことになりました。




 父親が朝鮮総督府の木浦府庁に勤務していたため、呼び寄せられたのです。


 朝鮮総督府とは、1910年の韓国併合のときにできた、日本が朝鮮を支配するための役所ですね。




 つまり、千鶴子が移住した時、朝鮮半島はすでに日本の植民地になっていたのです。


 朝鮮の人々からは歓迎されなかったであろうということは、容易に想像がつきますね。





 母親の影響で、敬虔なキリスト教徒になっていた千鶴子は、運命の出会いをします。

 韓国人伝道師の尹到浩(ユンチホ) です。




 彼は身よりのない子どもたちのための施設建設に、奔走していたのです。



 到浩から請われる形で、千鶴子は施設で日本語と音楽の指導を始めたのでした。





 彼女が日本人だというだけで反発する子どももいましたが、たとえ問題を起こした子どもでも、手をあげて叱ることをせず、強く抱きしめて愛情を注ぎました。





 1938年、周囲の反対を押し切って、千鶴子は尹到浩と結婚しました。


 1945年、第二次世界大戦が終結すると、韓国は日本から独立します。





 こうなると、日本人である千鶴子に身の危険が及びます。





 一時、息子とともに日本に帰国しましたが、父親を忘れられない息子の様子を見て、再び韓国に渡りました。





 ところが、不幸にも尹到浩はすでに別の韓国人女性と再婚していたのです。


 言葉に代え難いショックを受けたことでしょう。





 ここで彼女は韓国に骨をうずめる覚悟で、施設「木浦共生園」 に命を捧げる道を選択したのです。




 1950年、朝鮮戦争が勃発します。

 冷戦の米ソ代理戦争ですが、不幸にも朝鮮民族どうしの戦いになってしまいました。




 木浦にも北朝鮮軍が迫りました。



 このとき尹到浩は北朝鮮軍に味方したと疑われ、韓国軍に拘束されてしまいます。




 3ヵ月後に戻りますが、当時300人いた子どもたちの食料を調達しに出かけて行方不明になりました。



 千鶴子は嫁入り道具を売り払い、近所の家々にリヤカーを引いて訪ねて歩いては、食料の寄付をお願いして回りました。




 施設に戻ってからは食事の支度はもちろん、子どもたちの世話まで、寝る間を惜しんで働き続けました。



 木浦の人々から見れば、千鶴子は外国人女性であり、かつての敵国出身者です。




 しかし、そのひたむきな姿に次第に共感者が現れはじめ、中には協力を申し出る人も出るようになりました。



 そして苦節30年、木浦共生園からは3,000人を超える子どもたちが社会に旅立ち、施設は現在も受け継がれています。





 千鶴子が亡くなったのは1968年。

 葬儀では、3万人の人々が彼女を見送りました。





 戦争孤児たちは被差別の立場にあります。

 彼らとともに生きる課題を共有して、生涯をかけてともに闘った田内千鶴子。





 日本では、まだあまり知られていませんが、僕はもっと多くの人々に知ってほしい、熱き生涯をおくった女性だと思います。
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