7 白洲次郎(しらすじろう) (1902 ~1985)





~占領下の敗戦国でGHQと対等に闘った昭和の快男子~





 戦争に負けてしまえば、戦勝国に対して卑屈になり、ペコペコする。

 戦勝国は敗戦国の国民を見下し、差別的な態度で上から目線で接する。




 戦争を体験したことのない僕たちにも、容易に想像できることですね。




 そんな中でも人間の尊重を見失わず、日本占領下のアメリカを中心とするGHQ (連合国軍総司令部) に対して、対等に渡りあった快男子がいました。




 白洲次郎です。




 「クールジャパニーズ」

 「従順ならざる唯一の日本人」




 「マッカーサーと闘った男」

 などと、さまざまな形容詞で呼ばれた、さっそうとした国際人でした。




 兵庫県芦屋市の貿易商の御曹司として生まれた次郎は、野生児で不良だったといわれています。




 身長180センチメートルの長身で、10年間のイギリス留学時代は高級車2台を乗り回していました。




 しかし、このときに英国紳士のマナーや生活スタイルを身につけ、1928年、父が経営する白洲商店倒産とともに帰国し、英字新聞の会社に勤めました。




 太平洋戦争前年、日米開戦の不可避とその敗北を予測した次郎は、サッサと会社を辞めてしまったのです。



 「戦争になれば必ず日本は敗れ、空襲で東京も焼け野原になる。




 食料がなくなるから、田舎で農業をやる」

 こう言って、現在の町田市にあたる郊外の村に、わらぶき農家を購入して引っ越したのでした。





 彼の予想は見事に的中していますね。

 無謀な戦争に走り、日本史上最大の痛い目にあったことは皆さんご存じのとおりです。





 敗戦とともにすべてが終わったかのように思えますが、実は勝負はここからだったという考え方もあると思います。





 戦後、旧知の吉田茂外相から頼まれて、終戦連絡事務局参与という役目に就きました。

 GHQによる占領政策の中での対等の勝負が始まったのです。





 最高司令官マッカーサーの参謀で、GHQナンバー2であったホイットニー民生局長との初対面では、こんな話があります。





 彼が次郎を見下したような態度で言いました。

 「大変うまい英語ですね」





  次郎は即座に切り返しました。


  「あなたも、もう少し英語を勉強すればうまくなりますよ」

 



 1951年、次郎は歴史上有名なサンフランシスコ講和会議に、特別顧問として日本全権吉田茂の一行に加わって渡米することになりました。





 飛行機の中では全員スーツ姿でしたが、ただ一人次郎だけはTシャツ、ジーパンでした。




 「アメリカはたかだかTシャツ、ジーパンの国。

 たいしたことないよ」




  と言って笑っていたそうです。




 講和会議では、首相になっていた吉田茂が英語で受諾スピーチをする予定でした。




 しかし、次郎は


 「講和条約は対等の関係だ。





 日本語で演説をするべきだ」




 こう主張して、随員を市内の中華街に走らせ、筆と巻紙を買いました。

 そして日本語に書き直させたのです。




 1959年、白洲次郎は57歳になり、政財界の第一線から潔く退きました。

 いつまでも第一線にしがみつかない生き方を選んだのです。



 
 その後は「カントリー・ジェントルマン」 にもどって、農業をやりながら趣味に没頭しました。

 悠々自適の生活をして自由に生き、80年を超える、当時としては長い人生を全うしたのです。




 彼の遺言は一言でした。




 「葬式無用、戒名不要」




 徹底して解放された人だったのですね。





 差別意識から解放されていたからこそ、世間体や窮屈な常識にとらわれない、自由な生き方を貫き通すことができたのだと思います。




 敗戦・占領下という困難な時代にあっても、戦勝国からの差別に負けないで、自分という人間の意思を大切にした白洲次郎。





 痛快な生き方として共感できると思いませんか。
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