6 杉原千畝(ちうね) (1900 ~1986)





~ユダヤ民族差別を乗り越えて6,000人の命を救った外交官~





 「上司の一つの職務命令」  と 「罪もない6,000人の命」  どちらが大切でしょうか。




 命令に背いて自分はクビになっても、6,000人の命を救った外交官がいます。

 第二次世界大戦の混乱の中、この勇気ある決断をした人が杉原千畝です。




 彼の行動は政府や外務省から否定され、長い間あまり知られていませんでした。

 しかし、死後になってその名を広く知られるようになりました。




 近年、歴史の教科書や資料集でも取り上げられるようになった杉原千畝とは、いったいどんな人物だったのでしょうか。




 1900年、彼は岐阜県で生まれています。

 父親は「医者になれ」 と命じますが、千畝は英語が得意で、英語教師を志していました。




 命に背いたため父親を怒らせ、大学時代は上京しますが苦学せざるをえませんでした。



 この父親は職業差別をしていたと考えられますね。




 そんなとき、外務省の官費留学制度があることを知り、応募して合格しました。

 1924年、外務省の書記生として、ハルビンの日本領事館の満州外交部に派遣されました。




 しかし35年、彼の率直な感想は、以下の通りです。

 「軍人たちの狭い了見による判断を目の当たりにして、嫌気がさした」




 昇進の可能性も棒にふって、あっさりと本国の外務省に復帰してしまいました。



 父親といい軍人といい、彼は権威をふりかざす人間に対して反発し、自分の信念をもって生きる人だったのですね。




 現在の官僚には「多くないタイプ」 だと思います。



 第二次世界大戦が始まると、ヒトラー率いるドイツのナチスはユダヤ人の迫害をはじめます。




 「ユダヤ民族である」

 ただそれだけの理由で、次々に捕えては強制収容所に送り、毒ガスで容赦なく殺しました。




 恐るべき民族差別です。




 1940年、当時千畝がいたリトアニアの日本領事館に、たくさんのユダヤ人たちが押しかけました。




 日本を通って「ユダヤ人迫害のない国へ逃れるためのビザの発行」 を求めて殺到したのです。


 領事代理だった千畝は、日本の外務省にビザ発行の許可を求めました。




 答えは「NO」 です。




 同盟国のドイツに気を使っていたのですね。




 「外務省の命令に背いてもビザを出す」



 これが千畝の結論でした。




 朝早くから夜遅くまで昼食もとらず、万年筆が折れても必死でビザを書き続けました。


 署名で手が疲れるとゴム印をつくり、ユダヤ人の代表者にも書類作りを手伝ってもらいました。




 こうして、領事館の閉館時間を延長して作業をしました。


 1941年8月3日、新しくできたリトアニアのソビエト政権は、領事館を即刻閉鎖するよう千畝に厳命しました。





 家族とともにカウナス駅を離れる千畝は、一人でも多くの人にビザを発給しようと、汽車の窓からビザ発行の書類を渡そうとしました。




 すごい信念ですね。




 この風景が目に浮かんでくるようです。




 できることなら、僕もその場に行ってお手伝いをしたかったです。


 しかし、当然のことながら千畝は外務省をクビになりました。




 戦後、百貨店やNHK、貿易会社など他の職業を転々としています。


 最終的に一家は鎌倉に定住しました。




 そのころから恩を忘れないユダヤ人たちが、次々に千畝を訪ねています。




 イスラエル政府は彼をたたえ「諸国民の中の正義の人」 という賞を贈り、記念切手に千畝の顔を載せました。





 2000年10月、当時の河野洋平外務大臣は、「人道的で勇気ある判断だ」 と言い、千畝の行為を正式に認め、外務省の対応を謝罪したのでした。





 彼の死後14年たっていました。




 「もっと早く認められていたら」





  こみ上げるような無念の思いに駆られます。




  このように思うのは、僕だけでしょうか。
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