5 宮崎松記 (1900 ~1972)





~インドのハンセン病と闘った日本のシュバイツァー~





 インドに生き、インドで死んだ日本人医師です。


宮崎松記(まつき) はハンセン病の治療にその生涯をかけた数少ない人物の一人でした。




インドでは、今でも彼は次にように呼ばれ、尊敬されています。



 「ドクター・サァブ (大医者さま)」 



 「日本のシュバイツァー」





 長い間「不治の病」 として恐れられ、数々の誤解から病気差別の対象になっていたハンセン病。

 松記は治療可能な病であることを実証した人でもありました。




 そもそもハンセン病とはどんな病気なのでしょうか。




 古くは「癩病」(らいびょう) ともよばれた誤解を生みやすい病気です。



 その症状が顔に出たり、背中に潰瘍が出たり、掌がない、指がないなど、一目でただ事ではないと感じられる目立つ症状が特徴です。



 「絶対治らない」 「遺伝病」 「感染力が強い怖い病気」



 このような偏見を多くの人々にもたれたため、法律により強制隔離され、正面から取り組む医師も、決して多くはありませんでした。




 宮崎松記は熊本県八代市の井上家の3男として生まれました。

 その後、宮崎家に養子に出されています。




 高校時代に、学校の裏にあった回春病院で、ハンセン病患者の診療に献身的に働いていたハンナ・リンデル女史に出会いました。




 高校の英語教師でもあるリンデルが、「私の子どもたち」 と患者を慈しみ、献身的に看護しているその姿に感動したのです。




 この出会いが、松記をハンセン病に一生を捧げる決意をさせたのです。

 1941年、黒髪校事件が起こります。




 当時、回春病院である熊本県菊池恵楓園の園長だった松記は、粘り強い交渉の末、患者の子ども58名を一般の小中学校へ通学できるようにしました。




 ところが同校PTAの一部の者により入学が阻止されたのです。




 無知と偏見がなせる差別事件ですね。




 インドではもっと深刻な状況がありました。

 日本ではハンセン病患者が減り始め、1万人になりましたが、インドでは250万人もいたのです。




 1959年、松記はインド行きを決意しました。

 これには多くの寄付金が集まり、ネルー首相からも引き続きインドでの医療活動を要請されました。




 松記はついに定住します。

 病院だけでなく、車で移動しながら各地をまわる「移動診療」 も開始しました。





 診療一筋に生きた人なのですね。




 ある日の風景です。

 順番待ちの患者が、長い列をつくって十重二十重に取り囲んでいます。




 真ん中にはきちんと蝶ネクタイをつけた服装で、白髪をふり乱し、患者の体のあちこちに触れている宮崎松記の姿がありました。




 素手で潰瘍だらけの背中をおさえ、血膿を拭き取り、顔を寄せて診療に熱中していました。

 まわりでは掌がない、あるいは指がない患者たちが医師の姿を見上げて合掌しているのです。




 多い時は一日500人もの患者を診療しました。

 10年間で延べ80万人ものハンセン病患者と正面から向き合ったのです。




 差別意識から解放された人でなければ、とてもできることではありませんね。




 しかし1972年、不幸にも松記は日航機の飛行機事故により、デリーで突然その生涯を閉じることになったのでした。




 近年日本では、ハンセン病患者に対して、ホテルの宿泊を拒否する事件が起こっています。




 差別はまだなくなっていません。




 後世に生きる僕たちは、宮崎松記の解放された生き方に学ぶべきことがたくさんあるのではないでしょうか。
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