2 今村 均 (1886 ~1968)




~民族差別を乗り越えてインドネシア独立運動に貢献した日本の軍人~




 第二次世界大戦中の軍人というと、僕は正直言って、良いイメージを持てる人物があまり浮かびません。



 しかし、今村 均(いまむらひとし) は別です。




 いわゆる「戦争犯罪人」 でありながら、人権感覚豊かな人だったと思うのです。


 実力がありながら、常に被差別の人々の立場に立ち、ともに苦楽を享有できる人物でした。




 その証拠に、恨まれることが多い日本の軍人の中でも、彼は今でもインドネシアの人々から尊敬されているのです。




 均は宮城県仙台市で生まれています。

 9歳まで夜尿症を患っていました。




 そのせいか、青年期になっても夜に何度もトイレに立つことからくる睡眠不足に苦しんでいました。



 学校での授業中に睡魔が襲ってくるので、小刀で自分を突いたり、唐辛子をこっそり噛むなどしましていました。




 旧制の新発田中学校(現在の新潟県立新発田高校) を首席で卒業し、陸軍大学校も首席で卒業して、最終的には陸軍大将になった優秀な軍人です。




 日中戦争では中国大陸を転戦し、太平洋戦争ではインドネシアのジャワ攻略戦に臨みました。

 当時のインドネシアは、オランダの植民地支配を受けていたのです。




 帝国主義による民族差別に苦しめられていたことは明白ですね。




 後のインドネシア大統領スカルノも、オランダ軍に拘束されて、政治犯として監禁状態にありました。



 このとき均は、たった4万の兵で10万の連合軍を降伏に追い込み、ジャワ占領に成功したのです。




 均は直ちにスカルノをはじめとするインドネシア人の政治犯を釈放し、彼らの意思を尊重しながら統治にあたりました。




 「われわれ日本民族の祖先の中には、この国から船で渡ってきた人々もいるのです。

 あなたがたと日本人は兄弟です。




 われわれはあなたがたに自由を得させるために、オランダ軍と戦うのです」





 多くの日本軍人が高圧的な態度で、占領した地域の住民を押さえつけていましたが、均は住民を同胞としてわけ隔てのない政策を進めました。




 差別意識から解放された人でなければできることではありませんね。




 やがて均は、南太平洋のラバウルに転戦し、そこで終戦を迎えることになります。




 日本軍不利な状況の中で持久戦に持ち込み、ここで孤立していた日本兵を救い、7万人の人々を帰国させることができました。




 持久戦では自給自足のために、ジャングルや草原を耕し、均も一緒に開墾しました。

 大将が率先して労働し、将兵たちは一致団結してアメリカ軍の攻撃を防ぐことができました。




 常に部下とともにある陸軍大将だったのですね。




 日本の敗戦により、均はオーストラリア軍に捕えられ、ジャカルタの刑務所に収容されました。



 均はマッカーサーに手紙を書いています。




 「B、C戦犯となった私の元部下らは、巣鴨よりずっと環境の悪いパプアニューギニアのマヌス島の刑務所に入れられているのに、私一人がここでこんな待遇を受けることはできない。




 願わくば、部下たちと同じ刑務所に移送してくれないだろうか」




 この手紙にマッカーサーは脱帽し、即刻許可したのです。




 1954年、やっと釈放されました。

 しかし、その後も元部下たちの支援に尽力し続けました。




 戦争という逆境の中で、敵の連合軍からも現地の住民からも慕われた軍人。




 大本営をはじめ、日本軍幹部からの非難をはねつけ、




 「人間を人間として大切にする」




 このことを徹底して貫き通した生き方に共感できる人は僕だけではないと思います。




 今村均は、もっと日本や世界に広く知られてもよい人物なのではないでしょうか。
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