1 犬養 毅 (1855 ~1932)





~憲政擁護会を組織し閥族からの差別と闘った首相~





 歴史上有名な、「五・一五事件」 で暗殺された総理大臣ですね。


 「問答無用」 の一言で、拳銃を撃たれたと伝えられています。





 犬養 毅(いぬかいつよし) は、満州事変に対して明確な反対の姿勢を示した首相です。





 この姿勢が正しかったことは、その後の歴史が証明していますね。




 この事件以来、軍部主導の政治が強化され、「15年にわたる戦争」 を経て、日本は二度とくり返されてはならない破滅のどん底を味わう結果となってしまいました。





 毅は岡山県の大庄屋の次男として生まれました。


 16歳のとき、倉敷にあった藩校・明倫館に入学し、その後、西洋の先進的で合理的な学問に興味を抱くようになりました。




 21歳で上京して「郵便報知新聞」 に寄稿し、その原稿料で慶応義塾に学ぶことができました。




 あの有名な福沢諭吉の教えを受けたわけですね。


 犬養毅の人権感覚はこのときに養われたのではないかと僕は考えています。




 1882年、大隈重信の立憲改進党の創立に参加し、87年には、後藤象二郎の大同団結運動に参加しています。



 つまり、国民の立場に立って、自由民権運動に参加していたのですね。





 衆議院議員に当選すると、藩閥政府攻撃の一勢力として議会で活躍し、雄弁家として知られるようになりました。



 1912年の第一次護憲運動では先頭に立って活動し、尾崎行雄とともに「憲政の神様」 とまで呼ばれるようになりました。





 1924年の第二次護憲運動では、普通選挙の実施と政党内閣制の一般化を求めて活動し、大正デモクラシーをけん引しました。




 尾崎行雄とともに結成した「憲政擁護会」 は議会主導の民主政治を主張するものでした。





 これだけでも、犬養毅が国民の自由と平等のために闘った人物であることが容易に理解できます。



 基本的人権の視点から見て、日本史上なくてはならない政治家だったのではないでしょうか。




 1931年、ついに内閣総理大臣になって犬養内閣を発足させました。

 しかし同年、満州事変が勃発するのです。




 この事件は、関東軍による中国侵略であり、人権侵害です。


 中国が黙って見ているはずはありません。




 戦争になることは目に見えていました。

 毅は戦争をしてはいけない理由として、次のように明確に述べています。




 「徴兵で国民の自由を拘束し、秘密政治で国民の知る権利を奪うからである」




 さらに、主張しています。

「民主主義政治は、言論の自由と議会政治を通して初めて実現できる」




 1932年5月15日夕刻、海軍急進派の青年将校たちが首相官邸に乱入します。


 この突然の暴挙に首相は落ち着いて対応したといわれています。




 「まあ、せくな。撃つのはいつでも撃てる。

 あっちへ行こう。まあ、靴ぐらいぬいだらどうか・・・。



 話を聞こう」




 しかし、青年将校たちの返答は無情の一言 「問答無用」 でした。


 これでは話になりませんね。




 犬養毅は首相官邸で、無念の死を遂げることになったのです。




 僕が気になっていることは、歴史の教科書の記述です。




 この重大なできごとを、




 「軍部が台頭し、ファシズムが進行する中で、首相があっという間に暗殺された」


 という事実を淡々と述べている記述が多いことです。





 これではたまたま殺された悲運の首相という印象だけが残ってしまいますね。





 相手の立場に立って考えられる犬養毅は、人権感覚豊かな首相だったのではないでしょうか。




 彼から学ぶことはたくさんあると僕は考えています。
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