10 市川房枝 (1893~1981)




~治安警察法と闘い女性の解放をめざした熱き婦人運動家~




 その飾らない人柄。

 素朴で化粧は一切しない。



 口に出したことは必ず実行する。

 できなければ責任をとる。




 女性の解放に生涯をかけた、まっすぐな熱き情熱に、時代を超えて多くの人々から共感されています。




 叙勲を固辞したことでも有名ですね。




 婦人参政権は現在では当たり前になりましたが、その獲得になくてはならない人物が市川房枝です。


 差別を乗り越えて、自由と平等のために闘った、本物の数少ない女性運動家だと思います。




 愛知県一宮市の農家で生まれました。

 「もう女はたくさん、生まれてこなくてもよかったのに」




 とよく言われたことを本人が語っています。




 6人の子どもの中で4番目。

 姉も二人いました。




 父親は気が短くかんしゃく持ちで、母親を握りこぶしや薪の棒で、たびたび殴りつけました。

 泣きながら母親をかばうことになるのです。




 母親の言葉です。




「今までに何度里へ帰ろうと思ったかしれないが、おまえたち子どもがかわいいから耐えているのだ。

 女に生まれたのが因果だから」




 ここに市川房枝の解放運動の出発点があります。




 「なぜ女に生まれたのが因果なのか、なぜ女は我慢しなければならないのか」

 という疑問です。




 1912年、房枝は名古屋に新設された愛知県女子師範学校(現在の愛知教育大学) に入学しました。



 新校長が力を入れようとしたのは 「良妻賢母教育」 でした。



 ところが彼女は反発します。


 同級生28名とストライキを起こし、授業には出るが無言で答弁しない、試験があったら白紙で出す。




校長には28箇条の要求書を提出しました。




 すごい行動力ですね。




 校長も要求のいくつかを取り上げて、改善せざるをえませんでした。



 卒業後は小学校教員や新聞記者などをしましたが、上京して1919年、平塚雷鳥らと新婦人協会を設立しました。




 女性の集会結社の自由を禁止していた、治安警察法第5条の改正を求める運動を展開したのでした。




 しかし、第二次世界大戦中は国民精神総動員のもと、大日本報国言論会などの活動に従事して、戦争に協力する側に立っていました。



 このことが、終戦後GHQにとがめられることになります。




 戦争に協力したということで、3年と7か月の公職追放に処せられました。

1947年から50年にかけてのことです。




 講演や執筆を禁じられ、わずかな収入を断たれます。

 家のまわりを耕して野菜をつくり、自給自足の生活を余儀なくされました。




 内職をしたり、豆炭やあめを売ったり、台所のゴミだけで飼えるからと、アヒルも飼いました。


 極貧に近い生活の中で、一時は死さえも考えました。




 でも、共に闘ってきた女性たちの厚い信頼で、この逆境を耐え抜くことができたのです。

 追放解除の署名は17万人にも達し、中にはアメリカやカナダの女性の名もあったほどです。




 追放前の1945年から、すでに婦人参政権を要求する活動を展開し、売春防止法の成立にも活躍していました。




 これらはご存知の通り後に成立し、女性解放に大きく貢献していますね。

 参議院議員として5期25年勤めています。




 国際連合の 「女子差別撤廃条約」 の批准については先頭に立って活動しました。




 この成果は、彼女の死後、「男女雇用機会均等法」 や 「家庭科の男女共修」、「男女共同参画社会基本法」 となって現れています。




 これらの法律は、中学校の社会科公民の教科書では当然のように書かれています。


 しかし、その土台を、自らの生涯をかけて築きあげた人がいることを忘れないようにしたいですね。




 戦時中の活動は、人権侵害につながったという意味で大きな問題があったと考えられます。



 戦前や戦後の市川房枝の信念をもった生き方には、とても学ぶことが多いのではないでしょうか。
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