9 阪本清一郎 (1892~1987)




~部落差別を乗り越えて自ら立ち上がった全国水平社の命名者~




 今では中学校や高校の歴史の教科書でもおなじみになった、自由と平等のための組織の一つが 「全国水平社」 です。


 人間の平等を水の平らかさに例えて 「水平社」 と名付けた人物が阪本清一郎です。




 「あらゆる尺度というものは人間が作った。

 そしてその尺度によっていろいろな差が出てくる。




 絶対に差のできないものは水平である」




 大正デモクラシーの民衆運動の中から生まれた水平社宣言は 「日本で最初の人権宣言」 と呼ばれています。




 清一郎は、奈良県御所市の被差別部落で生まれました。


 彼が穢多(えた) という差別用語を知ったのは7~8歳のころでした。




 部落外の上級生や学校の教員からも嫌われたり、いじめられたりしました。




 なぜなのか母親に聞くと、自分たちの先祖が穢多だったからということを涙ながらに聞かされたのでした。




 すでに明治政府の 「解放令」 により、穢多、非人という江戸時代の呼び名は廃止されていましたが、具体的な部落解放政策は何も行われていませんでした。




 むしろ新たに 「新平民」 などと呼ばれ、差別は厳しくなっていたのです。


 家業は膠(にかわ) 製造業でした。




 膠というのは、獣の皮や骨、腱などから作る、一種の接着剤です。


 地元の商業学校卒業後、家業を継ぐために東京の工科学校で化学を学ぼうと上京しました。




 一時は中国を放浪したり、差別のない南洋のセレベス島への移住を計画したこともありました。



 しかし、これでは差別から逃げることになりますね。




 東京では、同郷の後輩である西光万吉 (さいこうまんきち) が病で倒れたので、これを機に万吉を連れて故郷に戻りました。



 1920年、清一郎は故郷で 「燕会」 を結成します。




 この中で部落問題研究部を発足させ、若者たちが社会科学の学習を積み重ねたり、討論をしたりしながら、懸命に部落解放の理論づけや方向性をさぐりました。




 こうしてメンバーは、差別からの解放は自分たちの生活態度の改善や一般の人々の同情に頼ったものではなく、被差別者自体が連帯して挑戦しなければならないという結論に達しました。




 ここがポイントですね。




 「同情という名の差別」 という言葉があります。


 かわいそうだけで終わり、「自分は彼らのようでなくてよかった」 と思うような同情は、相手を見下していますね。





 「融和運動」 では、差別の原因は部落の劣悪な環境や教育水準にあるとして、富裕層の力を借りて部落の経済的向上を目指しました。




 僕も長い間このような考え方をしていましたが、近年は考えが変わりました。




 これでは差別の原因が部落の人々にあると言っていることになりますね。


 差別の原因はあくまで 「する側」 にあるのです。




 そして、「する側」 によく見られる言い分は、「差別の正当化」 です。


 「される側にも責任がある」 と問題をすり替える例は後を絶ちません。





 僕もそうでした。





 女性差別が多くの場合、男性の問題であるのと同じように、部落差別は根本において 「部落外の人」 の問題なのです。





 だから近年は、学区内に被差別部落が存在しない小・中・高等学校でも、人権教育・同和教育が重視されるようになりました。





 1922年、京都の岡崎公会堂に全国から約3,000人の被差別部落の人々が集まりました。


 ついに 「全国水平社」 が立ち上がったのです。





 清一郎はその中心メンバーの一人でした。


 宣言の最後は 




 「人の世に熱あれ、人間に光あれ」 




 という言葉でしめくくられています。




 僕はこの水平社宣言にとても共感しています。


 一人一人の人間が尊敬されれば、差別は少しずつ解消されていきます。




 この意味で、阪本清一郎の生き方は、後世に生きる僕たちに大切なことを教えているのではないでしょうか。




 いじめを含めてあらゆる差別問題は、すべて他人事ではなく、自分自身の問題としてとらえることが欠かせないと思います。
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