3 張 角(ちょうかく) ( ? ~184年) 




~平等な中国をめざして立ち上がった農民の指導者~




 日本では弥生時代の後半にあたるころ、中国では後漢という王朝が栄えていました。

 この後漢の末期に黄巾の乱 (こうきんのらん) とよばれる内乱がおこりました。



 この黄巾の乱の指導者が張角 (ちょうかく) です。



 歴史の専門家の方々の中には、張角をあやしげな宗教の指導者で、国を乱した者というふうに捕える方もいらっしゃいます。



 でも僕は、当時の中国の多くの国民の立場に立つと、


 「平等な中国をめざして立ち上がった農民の指導者である」


 という考え方があってもよいのではないかと思います。



 高校の世界史の教科書では、 「黄巾の乱」 と書かれていますが、これは支配者に都合のよい言葉で、僕は大多数の国民の立場から 「黄巾の解放運動」 とよびたいのですがいかがでしょうか。



 このころの後漢の朝廷内では、去勢された男性で皇帝のそばに仕えた宦官 (かんがん) や、皇帝の母方の親戚である外戚 (がいせき) が権力争いをくりかえし、自分たちに都合のよい政治を行おうとしていました。



 国民のことを考えていたのでしょうか。



 皇帝は無力で、幼い皇帝が連続的に即位していました。



 大多数の国民である農民はというと、洪水や日照りの害が次々に起こり、飢え死にする人々が道ばたにあふれているというありさまでした。



 このような中で184年、張角は農民とともに立ち上がったのです。



 彼は 「太平道」 という宗教の首領でもありました。



 太平道は道家の思想をもとに、いろいろな民間信仰を取り入れた、当時の新しい宗教でした。



 彼は黄天の神 (公平な神) を信仰していました。

 この黄天の神に自分の罪を告白することで誰もが救われると説いたのです。



 また、病気の人には無料で治療をほどこしたため、貧しい農民などの信者が増えました。



 張角の言葉には説得力があります。



 「われらがめざすのは、すべての人々が互いに助け合って生きる平等な社会を実現させることだ。」



 農民たちは、多くの自然災害と、後漢末期の政治のもとで苦しんでいたので、太平道教団にはたくさんの人々が参加しました。



 人数は数十万人にも達したといわれています。



 黄巾というのは黄色い頭巾のことで、彼らが立ち上がるとき、仲間の目印としてつけていたのでした。

 頭巾の黄色は太平道の神、すなわち黄帝 (こうてい) を表しています。




 ここで注目するべきことは、この戦いには 


 「信者でない者も加わっていた」


  ということです。




 なぜでしょうか。




 このことは少なくとも、一部の宗教者だけのできごとではないことを意味していると考えられます。




 このできごとは結局、後漢王朝が滅亡するきっかけになったことは歴史上の事実です。



 最終的には次の三国時代の英傑の一人である曹操 (そうそう) の息子に帝位がゆずられて魏王朝 (ぎおうちょう) がおこります。



 三国時代は劉備 (りゅうび) や孫権 (そんけん) 諸葛孔明 (しょかつこうめい) など、さまざまな英雄たちの物語があり、おもしろいですね。



 しかし、権力者が交代して次の権力を奪い合って、またしても戦乱をくり返したという見方もできます。



 人間としての基本的人権の視点からこの時代の中国史を見て、一般庶民の立場に立てば、本当の英雄はいったいだれなのでしょうか。



 張角は大多数の国民である農民の立場に立って、平等を求めて権力者たちに立ち向かいました。



 ただ惜しまれることは、正面からの武力という、あまりにもストレートな戦いだっただけに、訓練された権力者たちの武力にはかなわず、戦死していまいました。



 しかし、彼の太平道は後の道教のもとになりました。



 その後道教は発展し、現在にいたるまで、中国に大きな影響をおよぼし続けているのはなぜなのでしょうか。
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