7 鈴木文治 (1885~1946)




~働く人々の自由と平等にかけた日本労働運動の父~




 「どうせやるなら、納得のいくいい仕事をしたい」

 「自分の持っている良さを生かして、社会に貢献し、社会から必要とされる人になりたい」



 僕自身を含め、世界中の多くの労働者の願いではないでしょうか。



 こうなるためには、一人一人が労働者として大切にされていること、ある程度の働くにふさわしい環境が整えられていることが必要です。



 資本家も労働者も同じ人間です。

 このために、労働者の立場に立って人間を大切にした人が鈴木文治 (ぶんじ) です。



 1885年、文治は宮城県北部の栗原市で生まれました。



 中学時代は同県の古川で過ごし、上京して東京帝国大学を卒業後、秀英社、東京朝日新聞社の記者になりました。



 クリスチャンとして、キリスト教の伝道も行っています。

 当時は明治の終わりから大正時代にあたり、労働者の地位は低いものでした。



 新聞記者として、数々の労働者の貧しくすたれた生活に接することになりました。

 このころの労働者は、まるでいやしい者のような目で見られていたのです。



 資本家が労働者を支配する形がほとんどで、休む暇もなく残業させられたり、物価に見合った賃金も支給されず、



 「ただただ、働け!」 

 の一点張りの企業が多かったのです。




 21世紀の現代でも 「ブラック企業」 が社会問題化していますね。




 労働者をことごとくこき使い、残業手当も支給せず、休ませないで若い労働者をつぶして使い捨てにするというような報告が後を絶ちません。




 僕の知り合いでは、60歳前の現役で亡くなった人が4人います。




 確実な証拠はありませんが、過労死が関係していたかもしれないといわれれば、否定することもできません。




 「何とかしなければ」

 文治はこう考えて行動をおこします。




 「労資協調」 という考え方です。




 まず、労働者が一層の努力をし、技術を向上させるなどしながら、資本家と共に協力して労働者の地位向上を目指したのです。


 こうして生まれたのが 「友愛会」 です。




 最初はたったの15人でしたが、1918年には、会員数が30,000人にふくれあがりました。


 しかし、これでは資本家と労働者が対等ではなく、いざとなればやはり支配に屈してしまうことになります。




 文治の考えが変わったのは、アメリカに渡ってからです。

 労働組合というものが存在し、資本家と労働者が対等に交渉し、話し合うことができるのです。




 いざとなれば、ストライキをすることもできました。

 友愛会はその後何度も変化し、1946年には 「日本労働組合総同盟」 に発展しました。




 その間、数々の労働争議に駆けつけ、調停も行っています。

 日本の歴史上でいう 「大正デモクラシー」 の中の大きな一つの運動になったのです。




 僕も労働組合に入っています。




 仕事柄、労働組合法ではなく他の法律が適用されるため、さまざまな制限を受けていますが、本当に組合に入っていて良かったなと思うことがあります。




 過去に何度か上司のパワーハラスメントを受けました。

 そのうちの1回は人権侵害と判断し、行動を起こしました。




 パワハラとして、新潟県教職員組合と新潟県人権同和センターに訴えたのです。

 内容の詳細については個人が特定されてしまうので、記述は控えさせてください。




 両組織とも共感的に理解してくれ、教育委員会に訴えました。

 さらに組合は、直接僕の上司と面会して交渉し、パワハラを撤回させてくれました。




 課題を共有したこの行動がなければ、僕は病気になっていたかもしれません。


 これは、鈴木文治の友愛会から始まる労働運動の延長線上にあるできごとです。




 だから、文治にはとても感謝しています。




 基本的人権尊重のために差別を乗り越え、時には仲間とともに闘い生きることが健康の秘訣であることを痛感しています。
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