6 美濃部達吉 (1873~1948)




~議会重視の立場から国家と天皇を区別して軍部と闘った憲法学者~




 天皇機関説を主張した大正デモクラシーの代表的な理論家として知られていますね。


 大日本帝国憲法を、できるだけ国民の立場で解釈し、国民の意思が政治に反映するようにしようとした憲法学者です。




 反対者から脅迫され、暴力を受けて命をねらわれても、ひるまずに信念を貫き通しました。




 当時の天皇や多くの国民からも受け入れられ、日本のデモクラシー発達に貢献した人物として歴史上にその名を残すことになりました。



 達吉は兵庫県の漢方医の家に生まれました。

 幼少のころから優秀で神童と呼ばれていました。




 高校1年のときにチフスを患い、一年間まるごと休学になってしまいます。

 しかし、2年への編入試験に及第し、そのまま2年に進級することができました。



 
 東京帝国大学法学部を2番で卒業し、ヨーロッパに留学して憲法学者になった人物です。




 1912年、「天皇機関説」 を発表します。

 これは一言で言えば、統治権は天皇ではなく、「国家そのもの」 にあるんだという学説です。




 天皇をはじめ、内閣も国会も国民も、みんな国家の 「機関」 の一つであるとしました。




 天皇はこの中で最高機関ですが、内閣の意思を無視できず、内閣は国会の意思を無視できず、国会は国民の意思を無視できない拘束関係にあるものとしたのです。




 結局、天皇は国民の意思を無視できないということになりますね。




 最高機関ではあっても、天皇は絶対君主ではないという憲法解釈になるわけです。

 この学説は軍部を中心に猛反発を受けることになりました。




 天皇を 「機関」 と呼ぶことはけしからんということで強烈な攻撃の嵐になります。


 軍部にとっては、天皇が絶対無限の権限をもっていたほうが都合がよかったのです。




 なぜなら、天皇の名において自由に行動できる、国会を無力化できる、国民の権利をはく奪できる、という軍部によるファシズムが可能になるからです。




 この通りになったことは、その後の歴史が証明していますね。




 達吉は天皇に対する 「不敬罪」 で告訴され、著書は発禁処分、貴族院議員も辞職に追いこまれました。


 1935年、ついに 「美濃部達吉博士襲撃事件」 がおこります。




 達吉の自宅にはすでに脅迫状が多数届くようになっていましたが、二・二六事件の数日前、元右翼団体に所属していた人物に自宅を襲われました。




 彼が放ったピストルの弾丸は、達吉の右大腿部に命中し、重傷を負いました。




 まさに命がけです。




 それでも達吉は

 「私の学説をひるがえすとか、自己の著書の間違っていたことを認めたかという問題ではない」 




 という所信を新聞紙上で述べています。




 暴力という人権侵害に負けなかったのですね。




 ちなみに、当時の大正天皇は

 「天皇機関説を挙げた達吉の言うことは正しい」




 と受け入れています。




 昭和天皇も達吉を認め、議員の辞職や襲撃事件などの一連のできごとを 「学問の自由の侵害」 ととらえました。




 結局 「不敬罪」 は、疑いはあるが情状を酌量して 「起訴猶予」 という決定になりました。

 この天皇機関説からは、内閣と国会が重要になってきます。




 藩閥や軍閥ではなく、政党内閣が必要になります。

 そして国会が国民の正しい代表であるためには、普通選挙が必要になります。




 どちらも基本的人権の視点から、欠かせないものであることは明白ですね。




 命をねらわれ、身を危険にさらされても 「学問の自由」 を貫き通した憲法学者。




 美濃部達吉こそ国民の視点に立った勇気ある学者として、特筆するべき人物ではないでしょうか。
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