11 森 律子 (1890 ~1961)





~職業差別を乗り越えて自らの意志を全うした女優~





 「家名を汚したらこれで死ね」


 森律子は、父親からこう言われて短刀を渡されました。




 娘の命よりも家名のほうが大切なのですね。

 それこそ彼女が女優になったのは命がけだったのです。




 大胆で愛嬌のある演技で、多くの観客を魅了した帝国劇場のスター女優です。

 律子の名前は 「帝劇全盛時代」 を築いた人として、同劇場の歴史にしっかりと刻み込まれました。




 それなのに、父親のこの仕打ちは大きな疑問です。




 いったいなぜなのでしょうか。




 1890年、律子は弁護士であり、代議士でもあった森肇 (はじめ) の二女として東京で生まれました。

 父親は松山から上京して、苦学の末に弁護士試験に合格し、その後代議士にもなりました。




 法曹界の名物男で、長髪がトレードマークの熱血漢。

 癇癪 (かんしゃく) を起こすと、自宅で銃や日本刀を振り回すこともありました。




 何とかならなかったのでしょうか。




 これはちょっとあぶなくて恐ろしいですね。

 当たったら大変です。




 律子は、当時格式の高い良家のお嬢様が多く集まる跡見学園女学校 (後の跡見学園女子大学) を卒業し、その後女子語学校専科で英語を学んでいました。




 ところが、彼女が 「女優になりたい」 と言い出すと、父親を始めとして家族から猛反対されました。


 今でこそ 「女優」 という職業は華やかな印象を持たれていますが、このころはまだ社会的地位が低かったのです。




 つまり職業差別で被差別の状態にあったわけです。

 だから、冒頭の父親の 「死ね」 という言葉が出できたわけですね。




 プライドが許さなかったのでしょうか。




 彼女の弟は第一高等学校 (後の東京大学教養学部) に通っていました。

 「姉が女優になるのが耐えられない」




 弟の言葉です。

 自殺してしまいました。




 これも 「差別はする側が不幸になる」 典型的な事例と考えられますね。

 息子を自殺で亡くした父親もまた不幸だといえるでしょう。




 差別意識から解放されなかった人々の悲劇がここにもあります。


 しかし、律子は差別に負けませんでした。




 自分の意志を貫き通して、1908年、「帝国女優養成所」 に第1期生として入所し、3年後には卒業しました。




 1911年、帝国劇場で 「頼朝」 に浦代姫役としてデビューです。

 「女優・森律子」 誕生の瞬間ですね。




 父親は意外な行動に出ます。

 自分の 「断髪式」 をやりました。




 息子の死をきっかけに改心したのか、ますます癇癪をおこしたのかは本人にしかわかりません。




 後に律子は、自らの著書で次のように述べています。

 「父は自分の愛する髪の毛まで犠牲にして、私に成功を祈ってくれたのです」




 母校の跡見学園女学校はどう出たのでしょうか。

 律子の女優デビューを祝福してくれたと思いますか? 




 とんでもない。




 答えはノーです。

 一難去ってまた一難です。




 彼女の母校は、

 「河原乞食なんぞもってのほか」




 と、卒業した学校の同窓会名簿から、森律子の名前を除籍してしまいました。


 そこまでする必要があったのでしょうか。




 これでは

 「私たちは職業差別をやる差別者です」




 こんなふうに、全国に公言しているのと同じですね。


 ここでもまた、排除の差別を受けていたのです。




 彼女のまわりは差別者だらけです。


 その後も、さまざまな誹謗・中傷を受けましたが、律子はあくまでも女優として活躍し続けたのです。




 とても自由で、意志の強い人ですね。




 彼女の生き方には学ぶところが多く、とても共感できます。




 芸能界の歴史において、森律子はなくてはならない人だったと考えるのは僕だけでしょうか。
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