FC2ブログ
8 本寿院 (1665 ~ 1739)3uwl1b





~権力を伴った過度な好色で幽閉された尾張藩主の妻~





 尾張藩は徳川御三家の名門です。

 金の鯱鉾(しゃちほこ)で有名な 名古屋城ですね。



 僕にとってはなじみが深く、少年時代から遠足やフィールドワークで何回も行きました。

 徳川家康が、9男の徳川義直に尾張藩主を命じたのが始まりです。




 名古屋は交通の要地でもあり、西国の外様大名に対してにらみをきかせるにも好都合の場所でした。



 その第3代藩主徳川綱誠(つななり) の側室として君臨した人物が本寿院です。

 親藩の50万石を誇る大大名の妻です。



 ところが、最後は30年以上の長きにわたって自由を奪われ、孤独な一生を終えました。

 本寿院の身にいったい何があったのでしょうか。



 本寿院の少女時代の名はお福といいます。

 1665年、尾張藩の同心の娘として生まれました。



 4代将軍徳川家綱の時代にあたります。

 尾張藩主に側室として嫁ぎ、江戸の藩邸に住みました。



 男子も産んでいます。

 この男子は、後の尾張4代藩主、徳川吉通(よしみち) になる人物です。



 ところが1699年、夫の綱誠に先立たれてしまいました。

 子の吉通が藩主になり、お福は本寿院と名のったものの、彼女はまだ35歳。



 女ざかりの若い女性ですね。



 藩主の生母になったということは、同時に大きな権力が転がり込んできたということでもあります。



 この権力をかさにきて、本寿院は次々に男あさりを始めます。

 芝居見物に行くと、気に入ったイケメンの役者を屋敷に呼び出して、情交にふけりました。



 役者以外にも、町人、相撲取りなど誰彼かまわず屋敷に引き込みました。

 これはちょっと過激ですね。

 

 スキャンダルはどんどん広がっていったのではないでしょうか。

 こんなこともありました。



 尾張から新しく江戸詰めになった藩士を湯殿に連れて行き、素っ裸にして一物の値踏みをして、気に入れば情交の相手をさせたのです。



 医師にも手を出そうとしました。

 恋文を送りつけています。



 この医師は藩に仕えていた典医で、それまでに何度も本寿院の堕胎手術をさせられていました。

 この恋文に身の危険を感じたのでしょう。



 相手は藩主の母という権力者です。

 お相手を強制される前に、出仕を断り身を引きました。



 こうたびたびスキャンダルが発覚しては、江戸幕府も黙ってはいませんね。

 家康の直系の血をひく親藩、名門の大大名の母親です。



 これでは幕府の威信さえも危うくなります。

 権威に傷がつきかねないと判断し、本寿院の処分に踏み切りました。



 江戸から尾張に帰し、蟄居を申しつけたのです。

 具体的には尾張徳川家の御下(おした) 屋敷に幽閉したのでした。



 このとき、本寿院は41歳です。

 約6年間の好色人生に終止符がうたれた格好になりました。




 以後74歳で死ぬまで、延々と34年間の幽閉生活が始まりました。

 これは長いですね。




 人生の半分近くが幽閉になってしまったのです。

 独り身の寂しさからでしょうか。



 髪を振り乱して、屋敷の大木によじ登っていたという話まで伝わっています。



 好き放題やっていた江戸での華やかな生活からからは、あまりにも程遠い不自由な暮らしを余儀なくされたのでした。



 そのギャップに、彼女の心労は計り知れないものがあったことでしょう。

 突然転がり込んできた権力を、自分の欲望のために使いすぎた女性の悲しき末路ですね。



 背景には人を見下す差別心が見えます。

 大なれ小なれ、権力は人を強制する力です。




本寿院の権力は、尾張の民衆のために行使されるべきだったでしょう。




反面教師として、21世紀の現代に生きる僕たちにも学ぶことができる人物ではないでしょうか。
スポンサーサイト
7 牧野成貞 (1634 ~ 1712)






~出世と引きかえに主君に妻子を奪われた側用人~






 主君とは5代将軍徳川綱吉です。  

 側用人(そばようにん) というのは、将軍と老中を取り次ぐ役目です。




 綱吉が成貞のために作った役職ともいえます。

 歴史上では柳沢吉保が有名ですが、牧野成貞の方が先に就任しています。




 事実上、老中たちより権力をもつことができる幕府の重要な役職です。

 大出世ですね。




 しかし、最後は家庭崩壊を招き、将軍からの支援にも鼻を曲げたのでしょうか。

 あっさり断って辞退しています。




 彼に身に、いったい何があったのでしょうか。




 綱吉がまだ将軍ではなく、館林藩主をしていたころから、成貞の父は藩主としての綱吉に仕えていました。




 この縁で、成貞も仕えるようになったのです。




 長い付き合いで寵臣として信頼を得ていました。




 幸運にも自分の主君が5代将軍に就任したので、成貞も綱吉のおかげで次々に加増されて出世をしていきました。




 ところが1684年、将軍にとっては不幸な事件が発生しました。

 老中堀田正俊が、若年寄の稲葉正休に江戸城内で刺し殺されたのです。




 この事件に綱吉はビビリます。

 老中も若年寄も信用できない。




 明日は我が身か、ということですね。

 さっそく幕閣が仕事をする御用部屋が、将軍の部屋から遠ざけられました。




 そして将軍と老中の連絡は側用人が行ったのです。

 だから、成貞の権勢は将軍に次ぐ極めて高いものになったのです。




 また、綱吉は信頼できる寵臣でもある成貞の屋敷によくおもむきました。

 ただ、これにはとんでもない別の理由もあったようです。




 成貞の妻、阿久里(あぐり) です。

 32歳の評判の美人で、夫とは仲むつまじい女性でした。




 細かいところまでよく気がつく良妻です。

 ところが、綱吉はこの阿久里に欲情してしまったのです。




 別室で、無理やり力ずくで犯しました。

 その後、大奥に入れて側室にしてしまったのです。




 家臣の妻を強引に奪ったわけですね。

 相手は将軍です。




 彼女も夫成貞も、拒絶することができませんでした。

 これは許されない犯罪ですね。




 さらに、悲劇はこれで終わりませんでした。

 成貞と阿久里の間には、母の美貌を受け継いだ3人の娘たちがいました。




 それぞれ松子、安子、亀といいます。




 息子がおらず、長女の松子が若くして亡くなっていたので、成貞は二女安子に婿養子をとって牧野家の跡取りとしていました。




 婿は牧野成時と名のり、美濃守の官職を授けられていたのです。

 将軍の寵臣の養子になれたことに満足し、美しい妻を大切にしていました。




 結婚5年目のときです。

 こともあろうに、綱吉はこの安子にも目をつけたのでした。




 安子を大奥に強引に召し、またしても力ずくで犯したのでした。

 招きに応じなければ、お家とりつぶしになるのです。




 これはひどいですね。




 夫であった成時は、安子が大奥におもむいた夜に、切腹して果てました。

 安子も夫の後を追うように、まもなく病気にかかり、命を落とすことになりました。




 それでも、表立った非難はできません。

 将軍に対する無言の抗議ですね。




 将軍という権力は誰のためにあるのでしょうか。

 国民のためにあるのではないでしょうか。




 さすがに綱吉も、後ろめたさを感じていたのでしょう。




 最初は2,000石の家臣だった成貞を、1688年には7万3,000石の大名に取りたてました。




 しかし、こうまでされては、成貞の忠誠心も限界になったのではないでしょうか。




 後継者のいなくなった牧野家に、綱吉は何度か養子の話をもちかけましたが、成貞は首を横に振っています。




 何もかも嫌になったのでしょう。

 酒びたりになって過ごしました。




 大きな差別心のツケは、あまりにも大きな心労でした。




 もっと賢く、もっと上手に愛する妻子と娘婿を守る方法は考えられなかったのでしょうか。
6 桂昌院 (けいしょういん) (1627 ~ 1705)3uwl1b






~権力にこだわって民衆を苦しめた江戸時代のシンデレラ~






 八百屋の娘が将軍の生母に。

 そして将軍がマザコンであれば、実質上の最高権力者ですね。




 この娘とは桂昌院のことで、将軍とは5代将軍徳川綱吉です。

 桂昌院は一般民衆の出身ですから、そのことは自らの体験により、よくわかっているはずです。




 それなのに、権力は手にしても結局は民衆に大きな迷惑をかけ、自分自身も長く悩ましい生涯を送ることになりました。




 これはいったいなぜなのでしょうか。




 彼女の少女時代の名前は、お玉といいます。

 1627年、京都堀川の八百屋の娘として生まれました。




 不幸にも、彼女の父は早く亡くなってしまいました。




 しかたなく、母子で二条家の家政をつかさどる職員のもとへ、女中奉公に出ることになりました。




 そこで母は妾に、お玉は養女になったのです。

 これが運命の分かれ道でした。




 二条家は、3代将軍徳川家光の側室お万の方の実家である六条家と親しく付き合っていたのでした。



 お万の方が家光の側室になるのに伴って、お玉も女中として江戸城の大奥に入ることになったのです。



 大奥には「お褥さがり」(おしとねさがり) という風習がありました。

 30歳になると、正妻でも側室でも、将軍の夜のお相手を自ら辞退するのです。




 そのかわり、自分の召使の中から若い女性を差し出すのです。




 もうおわかりですね。




 お万の方のお褥さがりによって、かわりに将軍家光に差し出された女性がお玉だったのです。

 彼女は晴れて側室となり、男子も生まれました。




 この男子が、後の徳川綱吉ですね。

 1651年、家光が亡くなったとき、お玉はまだ20代半ばの若さでした。




 綱吉にいたっては6歳です。

 仏門に入って尼になり、桂昌院と名のりました。




 ところが1680年、子どもがいなかった4代将軍徳川家綱が死去すると、綱吉に5代将軍がまわってきたのです。




 このことにより、桂昌院は将軍の生母として、再び大奥に復帰したのです。




 綱吉は学問は優秀でしたが、マザコン男性の典型だったといわれています。

 つまり、将軍以上の権力を彼女が振るったのです。




 そんな彼女にも、なかなかうまくいかない悩みがありました。

 将軍のお世継ぎにあたる、孫に恵まれなかったことです。




 徳松という待望の男児が生まれましたが、幼少のうちに亡くなってしまったのです。

 家光の正妻だった信子が差し出した女性との大奥内での権力争いもあり、桂昌院は焦ります。




 そこで彼女が相談した人物が、隆光(りゅうこう) という僧侶です。




 「綱吉公は戌(いぬ) どしの生まれであらせられる。

 生き物、特に犬を大切になされば、必ずや立派なお世継ぎに恵まれましょう」




 天下の悪法「生類憐みの令」 誕生の瞬間ですね。

 「ふざけるな」 という庶民の怒りの声が聞こえてきそうですね。




 犬だけでなく、鳥や牛馬、蚊などの虫に至るまで、すべて殺生はだめというものです。

 この生類憐みの令は、桂昌院が自分の権力維持をねらって、将軍綱吉に出させたものです。




 しかし、ここまでしても世継ぎの誕生はありませんでした。

 最後の望みは、一人娘である鶴姫です。




 いざという時に将軍になる資格がある、御三家・紀伊家へ嫁がせました。

 これもまた失敗です。




 鶴姫は、28歳の若さで病死しました。

 万事休すです。




 このころから、わずか二人の孫に先立たれた桂昌院は、めっきり老けこみました。

 長い権力争いと、心労がたまっていたのでしょう。




 それにしても、権力はだれのためにあるのでしょうか。




 改めて問われる、民衆の気持ちを忘れたシンデレラの悲しき末路ですね。
5 後水尾天皇(ごみずのおてんのう) (1596 ~ 1680)3uwl1b






~侮辱されて心労に悩まされながらも長寿を全うした天皇~






 中学校の歴史教科書には、江戸時代の天皇が一人も出てこないという事実をご存知でしょうか。

 それほど、政治に関しては影が薄かったということでしょう。




 まるでこの時代には、天皇が存在しなかったと誤解されそうですね。

 しかし、強権を誇る江戸幕府に向かって、苦しみながらも抵抗した人物が後水尾天皇です。




 不思議なことに、彼は85年の長寿を全うしています。

 昭和天皇に次ぐ、歴代2位の長さです。




 この背景には、いったい何があるのでしょうか。

 1596年、後水尾天皇は後陽成天皇の第三皇子として生まれました。




 まだ豊臣秀吉が生きていて、関ヶ原の戦いの4年前にあたります。

 父親は、別の皇子に天皇の位を譲るつもりでした。




 しかし、ここで横槍が入ります。

 徳川家康です。




 別の皇子は、秀吉の息がかかっているということで反対しました。

 だから、後水尾天皇の即位は家康が決めたようなものです。




 1611年、16歳のときに正式に天皇として即位しました。

 江戸時代初期にあたりますね。




 1613年、天皇を中心とする朝廷にとっては、前代未聞の法律が発布されます。

 禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと) です。




 天皇家の法律を、武家が勝手に決めたわけです。




 政治だけでなく、元号の制定をはじめとする朝廷のこと、宮中のこと、何をするにも幕府の許可がいるというものです。




 朝廷は幕府の支配下、管理下に置かれることになったのです。

 天皇にとっては大きな侮辱ですね。




 すんなりと認めるわけにはいかないでしょう。

 1627年、紫衣事件(しえじけん) がおこります。




 後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えました。




 これに対して3代将軍徳川家光は、勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるように命じたのです。




 これで天皇のプライドは、ズタズタにされたと考えられますね。

 さらに、反対してきた高僧たちは、流罪にされてしまいました。




 幕府の法度は、天皇の勅許よりも優先することが示されたのです。

 後水尾天皇にとっては、計り知れない心労に悩まされたことでしょう。




 1629年、将軍家光の乳母である春日局は、無位無冠で天皇に拝謁しました。

 このことにも、後水尾天皇は激怒しています。




 とうとう、後水尾天皇は譲位を決意します。

 妻の一人は、家光の末の妹である和子です。




 その和子が産んだ娘、7歳の女一宮に幕府の機先を制して、電撃的に天皇の位を譲ったのです。

 彼女は、明正天皇として即位しました。




 奈良時代以来の、久々の女帝が誕生しました。

 860年ぶりになります。




 そして自分は退位して、院政を行いました。

 この譲位劇には裏があります。




 なぜなら、女性の天皇は子どもを産んではいけなかったからです。

 つまり、その次の天皇は血縁が別の人が継ぐことになります。




 徳川氏との関係は、一代限りで終わりということですね。

 巧みに、幕府との縁を切ったことになるのです。




 将来的にも、天皇の外祖父を続けていこうとねらっていた徳川将軍家にとっては、大きな打撃になったのです。



 その後の後水尾天皇は、どのような意識をもって江戸時代を生き抜いていったのでしょうか。




 詳細は本人にしかわからないと思います。




 だだ、事実としてはっきりしていることは、彼は権力者である将軍家光よりも早く生まれながら、30年ほども長生きしているのです。




 この時代の85歳は、現在の100歳以上にも相当する長寿ではないでしょうか。




 幕府に権力は奪われましたが、もしかしたらそれと引き換えに意識改革が行われ、精神的に解放されていったのかもしれません。




 健康であったからこそ長生きをすることができた、と僕は考えています。