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10 淀 殿 (1569 ~ 1615)3uwl1b






~高いプライドの故に自殺に追い込まれた関白の妻~






 有名な豊臣秀吉の側室です。

 その美貌からでしょうか、秀吉は彼女にぞっこんだったといわれています。




 織田信長の姪という、戦国時代では誇り高き血筋でもありました。

 天下統一を果たした秀吉とともに、大坂城で強大な権力を握っています。




 秀吉の後継者も産み、物質的には華やかな生活を送っていました。

 ところが、淀は生涯で3度の落城を経験し、最後は息子とともに自殺で命を落としました。




 これはいったいなぜなのでしょうか。




 1569年、彼女は北近江(滋賀県北部) の戦国大名、浅井長政の長女として生まれました。

 母親は、お市の方です。




 戦国一の美貌と噂される女性で、織田信長の妹でした。

 少女時代は茶々といい、彼女から見れば、信長は伯父にあたりました。




 だから、小さい時からかなりのプライドの持ち主だったと考えられます。




 兄もいて妹も二人生まれ、本拠地の小谷城で姫君として、それなりの恵まれた生活をしていたのではないでしょうか。




 茶々が4歳のときです。

 不幸が突然訪れました。




 天下布武をねらう信長は、浅井長政と敵対し、小谷城が落城したのです。

 母と三人の娘たちの命は助けられましたが、父長政は自害。




 兄の嫡男万福丸は、串刺しで殺されました。

 燃え続ける居城の姿を見て、言葉に尽くせない悲しみを早くも体験することになりました。




 母のお市の方は、その後信長の重臣、柴田勝家と再婚して、娘たちとともに越前北の庄城に落ち着いたかに見えました。




 しかし、ここも落城です。




 羽柴秀吉ですね。

 信長亡き後の天下統一への主導権をめぐって、秀吉に攻められました。




 お市の方は絶望し、夫の勝家と心中しました。




 母を失った茶々は、泣いても泣ききれないこの悔しさを、生涯忘れることはなかったことでしょう。




 このとき、17歳の多感な少女です。

 父も母も失い、秀吉のもとに保護されることになりました。




 敵のはずの秀吉は、この美しい茶々を見そめました。

 猛烈にアタックしたのです。




 普通に考えれば、両親の死に直接かかわった男など、憎いだけでしょう。

 ましてや、低い身分からのし上がった秀吉など、上から目線で見下していたと思います。




 ところが、結局茶々は、秀吉の側室になることを受け入れたのです。

 権力ではないでしょうか。




 秀吉が天下人にならなければ、この結婚はあったでしょうか。

 疑問です。




 彼女には子どもを産み育てる城が与えられました。

 淀城といいます。




 だから、淀殿とか淀の方とか呼ばれるようになりました。

 1589年、淀は23歳で鶴松を出産しますが、3歳で病死してしまいました。




 その2年後に、待望の男子が再び生まれます。

 この子が、有名な豊臣秀頼ですね。




 ただし、この出産には古くから疑問が持たれていることをご存知でしょうか。

 「秀頼は秀吉の子ではない」 という説です。




 正室の北の政所だけでなく、秀吉には側室が16人もいました。

 ところが、淀以外は誰も子どもに恵まれなかったのです。




 好色な秀吉と、若くて健康なたくさんの女性たち。

 ほかに誰も妊娠しないはずがない、というのです。




 父親は側近の大野治長ではないか、という意見も多くあります。

 真相は本人にしかわかりませんが、プライドの高い淀のことです。




 絶対にない、とは言い切れないでしょう。

 秀吉亡きあとは、一時的に実質上の最高権力者になりました。




 しかし、ここまで。

 実力をつけた徳川家康に、頭を下げられなかったのですね。




 3回目の落城です。

 淀の夢は、燃え盛る大坂城の炎とともに消えました。




 生涯高いプライドから解放されなかった、誇り高き女性の悲しい末路です。




 一般民衆の視点から見れば、大阪の町の人々にとっても大迷惑だったことでしょう。




 庶民とともに、楽しく有意義に生きる道はなかったのでしょうか。
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9 織田秀信 (1580 ~ 1605)





~祖父の功罪に翻弄され居場所を失って若死にした武将~





 祖父とは、かの有名な織田信長です。

 秀信は信長の孫です。




 信長の嫡子である織田信忠の長男なので嫡孫にあたり、織田家の正式な後継者の立場にありました。



 本能寺の変の後も生きのびて、部下の豊臣秀吉からはある程度の待遇を受けました。




 岐阜13万石の城主に任命されたり、朝廷からは官位も授けられたりしました。

 ところが、彼の生涯はわずか26年。




 この早すぎる死の背景には、いったい何があったのでしょうか。




 幼名は三法師といいます。

 あの大事件さえなければ、安土城で恵まれた生活を送ることができたのでしょう。




 大事件とは「本能寺の変」 ですね。

 三法師が2歳のとき、突然起こりました。




 家臣の明智光秀の謀反により、祖父信長と父信忠が命を落としてしまいました。

 幼児の三法師にはどうすることもできません。




 すかさず出てきたのが、羽柴秀吉です。

 秀吉は織田家の嫡孫、三法師を巧みに利用して天下取りを進めていきました。




 1582年、「清州会議」 という信長の家臣たちの会議が開かれました。

 秀吉はここで三法師を織田家の当主と定め、自分は後見人になったのです。




 しかし、これは見え見えですね。

 自分が天下統一を果たすために、幼い三法師を利用したに過ぎません。




 1588年、9歳になった彼は無事に元服して「織田秀信」 と名のりますが、すでに秀吉は関白になっていました。




 ほとんど、天下統一は完成です。




 もはや秀信の出る幕ではなくなっていました。




 1592年、それでも秀信は秀吉から岐阜13万石を与えられ、「岐阜中納言」 とまで呼ばれるようになりました。




 しかし、これも秀吉の作戦でしょう。




 家臣の中には信長を慕う人もおり、彼らの反発をかわすには、ある程度の待遇をして、またしても利用したのだと思います。




 自分はかつての主君であった「信長の後継者」 を、こんなに大切に扱っているのだ、というところを見せたのです。




 ちなみに岐阜城は、かつて信長が住んでいたことのある城ですね。




 僕も何回か行きましたが、とても眺めの良い山城で、ここに登ると、天下をとったような気分になれます。




 問題は、秀吉の死後です。




 1600年、天下分け目の合戦と呼ばれる「関ヶ原の戦い」 がおこりました。

 おこったというより、徳川家康が巧みにそうさせたのです。




 この戦いで秀信は西軍につきました。

 つまり、石田三成に味方したということです。




 戦いは家康の東軍が勝ったことは、周知の通りですね。

 秀信は敗れたのだから、死罪になってもおかしくありません。




 しかし、東軍の福島正則の助命嘆願により、命だけは助けられました。

 結局高野山に追放され、謹慎の身になったのです。




 ここでまた問題が発生します。

 高野山は当初なかなか秀信を受け入れようとしませんでした。




 祖父の信長が、高野山と敵対していたからです。




 やっとのことで入ることはできたものの、信長への恨みから、さまざまないじめにあったのではないでしょうか。




 2年後に、秀信は高野山からも追放されてしまいました。

 ついに居場所を失い、自殺未遂をおこしました。




 福島正則が、やっとのことで止めています。

 しかし、ほどなく秀信は26歳の若さで亡くなりました。




 病死か自殺か、正確なところはわかっていません。

 いずれにしても強烈な心労により、心身を冒されていたことは容易に想像できますね。




 最後まで、信長の影響から解放されることがなかった故の末路でしょう。




 「自分は自分」 というという信念をもって、織田家という高いところからの「上から目線」 を意識改革することができれば、どうだったでしょう。





 少なくとも、自殺未遂だけは防げたのではないでしょうか。
8 小早川秀秋 (1582 ~ 1602)3uwl1b






~利用されてノイローゼの末に病死した若き大名~






 関ヶ原の戦いで、鍵を握った人物です。

 彼の決断一つで、徳川家康の天下が決定しました。




 乱後も、石田三成の近江佐和山城を落城させる手柄を立てました。




 家康からは合戦での活躍を大いに認められ、現在の岡山県である備前・美作(みまさか) 52万石を与えられています。




 大大名ですね。

 しかし、それからわずか2年、秀秋はわずか21歳の若さであっけなく病死してしまいました。





 いったいこれは、なぜなのでしょうか。





 彼は小早川という名字を名のっていますが、これは2回目の養子先のものです。

 本来は、木下でした。




 豊臣秀吉の正室、北政所の兄、木下家定の子です。

 生まれて間もなく、1583年に秀吉の養子になり、羽柴秀俊と名のりました。




 秀吉から見れば、義理の兄貴の子ということになりますね。




 子どもがいなかった秀吉からたいそうかわいがられ、一時は秀吉の後継者候補の一人としても数えられました。




 しかし、実子の秀頼が生まれると、とたんに邪魔者になります。

 1593年、秀秋は小早川隆景の養子に出されました。




 隆景は中国地方随一の戦国大名として有名な毛利元就の三男で、戦国屈指の智将としても知られた人物です。



 わずか11歳にして、筑前・筑後52万石の殿様です。




 すごいことのように見えますが、これは秀吉の作戦です。

 九州という遠いところへ左遷して、中央の政治には口出ししにくくしたまでです。




 跡取りの秀頼の邪魔になりそうな人物は、容赦しませんでした。

 甥の羽柴秀次などは、一旦関白に任命しながら、謀反の疑いをかけて切腹に追い込んでいます。




 一族、数十人も殺しました。

 これは残酷ですね。




 1597年、2回目の朝鮮侵略である慶長の役が起こりました。

 秀秋は秀吉から総大将を命じられ、朝鮮へ出陣しています。




 この中のウルサンの戦いでは、自ら出陣して13人を斬りまくる勇敢さを見せます。

 当時15歳だった秀秋は、この活躍を秀吉に認めてもらいたくて手紙で知らせました。




 ところが、秀吉の返答は、次のような叱責でした。




 「総大将は陣地に座って、がっちり戦況を見よ」




 直ちに帰還命令を出し、責任をとらせて、領地も越前12万石に左遷してしまいました。




 その直後、秀吉は病死します。




 ここで、傷心に落ち込んでいる秀秋を、越前からもとの筑前・筑後52万石にもどした人物がいます。




 徳川家康です。

 この時点で、秀秋の立場に立てば、豊臣と徳川、どちらが好きになるでしょうか。




 答えはここに書くまでもありませんね。

 場合によっては、このときすでに関ヶ原の戦いの勝敗は決していた、と考えることもできます。




 1600年、家康の立てた作戦により、秀秋は西軍を裏切り、徳川方が勝利したのでした。




 勝利に決定的に大きく貢献した大名として岡山城主になりましたが、18歳の秀秋には荷が重かったのでしょうか。




 ほどなく乱行で、心身ともにボロボロに乱れることになりました。

 日夜酒に溺れ、諫言した老臣も殺してしまいました。




 関ヶ原での「裏切り者の汚名」 に悩む日々が続きました。

 陰に陽に、秀秋への批判と恨みが襲います。




 敵将で、まともに被害を受けた大谷吉継の亡霊にも悩まされたといいます。

 これはノイローゼの症状ですね。




 1602年、秀秋はあっけ亡くなりました。

 江戸幕府が開かれる前年のことです。




 正確な死因はわかっていません。

 急性アルコール中毒とも、肝硬変だったともいわれています。




 狂死や自殺説もあります。

 いじめを苦にした自殺も、ないとはいえません。




 いずれにしても、強烈な心労がからんでいることは確実と考えられます。




 それにしても、心のもち方一つで、彼は何倍も長生きすることが可能だったのではないかと考えるのは、僕だけでしょうか。
7 石田三成 (1560 ~ 1600)3uwl1b






~秀吉とともに栄え秀吉とともに権力を失った側近~






 優秀な行政手腕をもつ武将です。

 まじめで緻密に動き、主君豊臣秀吉のために誠心誠意働きました。




 まだ羽柴秀吉と呼ばれていた時代から数々の戦場で、地味な補給と輸送を担当して、天下統一にはなくてはならない役目を果たした逸材です。




 主君から絶大なる信頼を勝ち取っていました。




 ところが天下分け目の関ヶ原の戦いで敗れて、処刑されるという悲しい結末を迎えたことは広く知られている事実です。




 この背景にはいったい何があるのでしょうか。




 1560年、三成は現在の滋賀県長浜市で、石田正継の次男として生まれました。

 父親は土豪だったといわれています。




 14歳のときに、羽柴秀吉と運命の出会いをします。




 秀吉はちょうどこのころ、織田信長から近江の浅井氏の旧領を与えられ、長浜城主になっていたのです。




 鷹狩りの途中で汗だくになった秀吉は、観音寺という寺に立ち寄りました。

 ここで寺小姓をしていた三成に出会ったのです。




 この出会いには、お茶に関する有名な逸話があります。

 三成は秀吉に、1杯目はぬるいお茶をたっぷり入れて出しました。




 2杯目は、少し熱いお茶を半分入れて出しました。

 3杯目は、熱いお茶を小さな茶碗に入れて出したのです。




 最初から熱いお茶を出すと一気に飲もうとして火傷するので、ぬるいものから出したということです。



 すごい気配りですね。




 秀吉は大いに感心し、三成を家臣にして小姓として雇ったというものです。

 これは「三献茶」 の話と呼ばれていますが、史実かどうかは諸説があります。




 それにしても、三成の性格が見事に凝縮されている逸話ですね。

 その後は数々の戦いに従軍し、秀吉の側近としての地位を獲得していきます。




 現代風にいえば、「内閣官房長官」 であり、「秘書室長」 に近い存在だったといえばわかりやすいでしょうか。



 特に秀吉が天下人となってからは、三成を通さなければ物事が進まないという状態になっていました。



 ただ、同時に敵も多く作りました。




 上司である秀吉には忠誠で、心配りも万全でしたが、他の多くの武将たちには「上から目線」 で威張っていると映りました。




 こんな感じの人、現在でも至る所にたくさんいますね。

 上には弱いが、下には強いという人です。




 その背景には、権力への執着と差別心があることは明白です。

 これでは、人望が伴わない権力者になってしまいます。




 秀吉の権力によって立っていた三成は、秀吉の病死とともに、徐々に権力を失うことになりました。



 後継ぎの豊臣秀頼では、誰が見ても力不足は歴然としています。




 三成はそれでも、秀頼のもとで権力を振るおうとしたのでしょうか。

 基本的に人望がなく、たくさんの武将たちから恨まれていました。




 一時は福島正則ら7将から襲撃され、命からがら逃げ出す場面もありました。

 徳川家康によって命だけは救われましたが、近江佐和山城に引退を余儀なくさせられました。




 当時の一般庶民は、このできごとをどのように見たでしょうか。

 すでに、勝負ありました。




 いくら形だけ兵を増やしても、家康と戦って勝てる状態ではないし、天下に号令を下す器ではないことも濃厚です。




 1600年、関ヶ原の戦いがおこりました。




 これは家康の罠でしょう。

 豊臣のプライドと権力にしがみつく実力不足を、家康から見抜かれていたのです。




 家康から見れば、予定された戦いであり、予定された勝利です。

 関ヶ原に住む人々には、田畑が荒らされて大迷惑ですが。




 三成が差別心からもう少し解放されていれば、少なくともここで死ぬことはなかったでしょう。




 行政手腕を武器に、別の生きる道を拓いていくことも可能だったと考えるのは僕だけでしょうか。
6 足利義昭 (1537 ~ 1597)3uwl1b





~地位にこだわり大名に利用された飾り物の将軍~





 「お手紙将軍」 と呼ばれるほど、たくさんの手紙を書きました。
 
 その成果があったのでしょうか。




 義昭は室町幕府の第15代将軍に就任して、歴史にその名を残すことになりました。




 形ではありましたが、一時は全国の戦国大名たちに頭を下げさせる権威をもつほどになったのです。



 しかし、彼を最後に室町幕府は滅亡し、放浪の末、将軍の権力を取り戻せないまま一大名に転落して出家しました。




 この背景には、いったい何があるのでしょうか。




 1537年、義昭は12代将軍足利義晴の子として生まれました。

 父親が将軍だったので、血筋は名門です。




 足利氏は先祖が源義家ですので、そのまた先祖になると、平安時代の清和天皇までさかのぼります。



 この誇りが、いつまでも「地位」 というものにこだわり続けた原因の一つと考えられます。




 しかし、時は戦国時代の真っただ中。

 幕府は応仁の乱以来、形骸化していました。




 さらに、同母兄に義輝がいました。

 義昭は、家督相続以外の男子として仏門に入ります。




 1542年、幼くして奈良の興福寺に入り、僧になりました。




 覚慶(かくけい) と名のり、20年以上にわたる長い僧侶の生活をします。

 普通ならば、この立場で一生を全うするはずでした。




 しかし、事件は突然起こります。




 1565年、兄の13代将軍足利義輝が、家臣の三好長慶(みよしながよし) と松永久秀(まつながひさひで) に暗殺されてしまったのです。




 これは、すでに「将軍の権威は地に落ちている」 ことを改めて示すできごとですね。




 翌年、寺を抜け出した義昭は、越前の戦国大名、朝倉義景に身を寄せて次の将軍の座をねらいます。



 しかし、なかなか事はうまく運ばず、従弟の足利義栄(よしひで) に先を越されてしまいました。




 相当な心労だったことでしょう。




 自分は父も兄も将軍だったのです。

 次の将軍は自分が最もふさわしいと考え、プライドが許さなかったと思います。




 ようやく2年後になって、夢が実現しました。




 明智光秀によって織田信長に会うことができ、信長によって晴れて15代将軍に就任することができたのでした。




 しかし、熾烈な権力争いはここが始まりだったのです。

 義昭は、この時代においても将軍というものがよほど偉いと思っていたのでしょう。




 信長に管領になれとか、副将軍になれとか言っています。

 これは「正式な部下になれ」 と言っているのと同じですね。




 天下布武をめざす信長は、当然そんな誘いには乗りません。

 どちらも断り、代わりに堺や大津を直轄地にすることを認めさせたのです。




 やがて、信長は義昭に敵対します。

 それでもまだ義昭は、「将軍の方が上だ」 「将軍に従え」 という思いは捨てきれません。




 武田信玄をはじめ、浅井、朝倉、毛利などの大名に次々に手紙を書き、信長と戦おうとしました。



 1573年、ついに義昭は京都を追放され、事実上、室町幕府は滅びています。




 それでもまだ将軍を辞めようとせず、毛利を頼って逃げ延びました。

 謀略を尽くして、足利再興をねらったのです。




 わずか5年ほどですが、天下人になったことの味が忘れられないのでしょうか。

 執拗に権力奪取をめざします。




 本能寺の変で、信長が倒れたのはこのころでした。

 広く知られている通り、信長の部下だった豊臣秀吉が天下人になります。




 秀吉は、義昭を山城の国の槇島というところに、一万石の大名として取りたてました。

 しかし、これは秀吉の作戦でしょう。




 結局、朝鮮侵略として有名な文禄の役に出陣させられ、その後再び出家して病死しました。

 またしても、利用されたのですね。




 信長の部下だった男に仕えるということも、義昭にとっては大きな心労だったことでしょう。




 何とか、度重なる心労から、自分自身の力で解放される手だてはなかったのでしょうか。