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4 北条時宗 (1251 ~ 1284)






~元寇の犠牲になり過労死した鎌倉幕府の執権~






 鎌倉時代に、日本が外国の植民地にされそうになったことがありました。

 歴史上、元寇(げんこう) と呼ばれている大事件です。




 大陸から元軍が攻めてきました。




 この戦いに負ければ、少なくとも当時の中国の王朝である元の属国にされて朝貢させられるか、場合によっては植民地化されてもおかしくなかったのです。




 これをはねつけて、日本の独立を守った人が北条時宗です。

 しかし、彼はそれから3年後、わずか33歳の若さで亡くなります。




 なぜでしょうか。




 この時代に日本を支配下に置こうとしていた人物は、モンゴルの第5代皇帝、世祖フビライ=ハンでした。




 有名なチンギス=ハンの孫ですね。


 彼らは世界を支配するという野望をもっていました。




 すでにロシアからヨーロッパの一部も支配下にあり、当時の朝鮮半島にあった高麗(こうらい) やベトナムなども支配していました。




 アジアからヨーロッパにまたがる、空前絶後の広大な世界帝国が出来上がりつつありました。

 日本攻略は、その一環にすぎなかったのです。




 中国も完全にモンゴルの支配に服し、民族差別を受けていました。




 王朝名は中国風の「元」 という名を使用しましたが、「蒙古人第一主義」 をとって、何段階もの身分差別が横行していました。




 彼らの支配下に入れば、自由が大幅に制限され、差別にさらされることは目に見えていますね。

 それでもフビライは、最初は紳士的に手紙を書いて、使者を日本へ派遣しました。




 その後も何回も使者を派遣しています。

 国際的には普通の手順といえますね。




 このとき執権に就任したのが北条時宗です。

 18歳という血気にはやる年齢ですね。




 若さゆえの強がりと国際常識の欠如があったのでしょうか。

 「国書は無視する。兵を用いてくるならば戦うだけじゃ」




 その後も何度か元の国書が届きましたが、すべて無視する態度をとりました。

 この強気は、いったいどこからくるのでしょうか。




 勝算があってのことではなく、御家人たちに執権の権威を示すために発した「やぶれかぶれ」 の発言とも考えられます。




 ついに戦争です。




 元寇は1274年と1281年に2回ありました。

 前者を文永の役、後者を弘安の役と呼んでいます。




 途中でやってきた元の使者も、犯罪者のように切り捨てました。




 僕たちの日本にとって幸運だったのは、2回とも暴風雨がきて、船で攻めてきた元軍が、壊滅的な打撃をこうむって退却していったことです。




 これをきっかけに「神風」 信仰が生まれました。

 しかし、これは迷信でしょう。




 後の歴史である太平洋戦争が証明していますね。

 世界最大のモンゴル帝国が、鎌倉時代の小さな日本に勝てなかったのはなぜなのでしょうか。




 もちろん御家人たちの奮戦は大きいです。

 最大の理由は、寄せ集めの元軍の士気にあったのではないでしょうか。




 兵士の多くは漢民族や朝鮮民族の人々です。

 フビライに支配され、差別されて苦しんでいた人々です。




 どうして彼らがモンゴルのために命をかけて戦おうとするでしょうか。

 「危なくなったらさっさと逃げたい」




 これが本音でしょう。

 しかし、問題はその後の鎌倉幕府です。




 御家人たちに恩賞を与えなければなりません。

 攻めてきた外国を追い出しただけなので、恩賞として与える土地などあるはずがありません。




 幕府内の内部抗争もおこり、陰謀や人殺しもおこりました。

 執権北条時宗は、心労に心労を重ねることになったのです。




 病床に伏した時宗は衰弱し、1284年ついに若き命を落としました。




 過労死です。




 これでは元寇で死ぬために執権になったようなものですね。




 国際理解とまではいかなくても、もう少し解放された、別の外交というやり方があっても良かったのではないでしょうか。
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3 後鳥羽上皇 (1180 ~ 1239)






~武士を見下し院政の権力にこだわって自滅した上皇~






 鎌倉幕府をつぶそうとした強力な上皇です。

 武芸にすぐれ、盗賊を捕えるために自ら指揮をとりました。




 けまりや囲碁、流鏑馬(やぶさめ)、和歌なども相当な腕前をもつ文武両道で精力的に活動した人です。




 弓道や相撲、水泳もでき、管弦、書画など多芸・多才の持ち主でした。


 勅撰和歌集である「新古今和歌集」 を編纂させ、上皇自身もすぐれた歌人であったのです。





 しかし、最後は現在の島根県の隠岐に島流しにされ、都に戻ることなくそこで一生を終えました。




 この悲劇の背景には、いったい何があるのでしょうか。





 1180年、後鳥羽は高倉天皇の第4皇子として生まれました。

 その3年後、平清盛が安徳天皇を連れて京の都から去ったため、天皇の位が回ってきたのです。




 当時はまだ幼かったため、後白河法皇が院政を行っていました。

 後鳥羽が上皇として院政を開始するのは、後白河法皇の死後、1202年からです。




 すでに鎌倉時代に入っており、3代将軍源実朝の妻は後鳥羽上皇の従妹でした。

 実朝は後に、右大臣という官職を与えられています。




 この時期は、幕府とのつながりもそれなりにあったと考えられますね。

 ところが大事件が起きます。




 1219年、源実朝が鎌倉の鶴岡八幡宮で甥の公暁(くぎょう) に暗殺され、その公暁も何者かに暗殺されたのです。




 源氏が滅んだ一瞬ですね。

 幕府は大いにうろたえます。




 ここで後鳥羽上皇は、この機に乗じて一気に鎌倉幕府をたたき、政権を院政に取り戻そうと決意します。




 しかし、これは大きな見当違いでしょう。

 そもそも院政とは、藤原氏の摂関政治を防ぐために作られた制度です。




 その役目はすでに終わっています。

 時代は武士の世になって、政権の主役は武士たちなのです。




 後鳥羽上皇は、相変わらず武士を見下して差別的に見ていました。




 白河法皇の北面の武士をまねたのでしょうか、西面の武士という、院を警護する武士たちを雇っています。



 
 白河法皇や後白河法皇のように「治天の君」 になって全国の頂点に立とうとしました。

 自分が命令を出せば、全国の武士たちは命令に従って動くと読んでいたのです。




 だから、ついに1221年、命令が下りました。

 「北条義時を討て」




 このようにして起きたのが承久の乱です。

 鎌倉幕府では源氏が滅んだ後も将軍はいました。




 しかし、彼らは京都から連れてこられた、実権のない飾り物でした。

 実質上の権力者は将軍の補佐役である執権(しっけん) です。




 この役に就いていたのが義時だったのです。

 北条政子の弟ですね。




 だから、後鳥羽上皇は義時の首をねらったわけです。

 ここで政子の有名な演説が登場したのでした。




 「頼朝公の御恩は山よりも高く、海よりも深い」

 勝負あった瞬間ですね。




 幕府軍の大軍はたちまち京都に攻め込みます。

 わずか一か月で朝廷の軍は敗北してしまいました。




 後鳥羽上皇は、この乱の責任を側近たちに押しつけて、自分は少しでも責任を軽くしようと画策しています。




 これはちょっと格好良くないですね。




 側近たちはやりきれない思いだったでしょう。

 上皇自身は都を追われ、失意の中で隠岐へ島流しにされました。




 20年近い配流生活の後、後鳥羽上皇はこの島で60年の生涯を終えています。

 ただ、一つ救われることは、彼は島民から慕われたことです。




 隠岐の住民からは、今でも敬愛されています。

 つまり、島流しとはいっても、結構一般民衆と交わることができたことが考えられます。




 文武にすぐれ多芸多才だったので、思いのほか楽しめることも多かったのではないでしょうか。




 本人が決めることですが、都で権力のためにカリカリしているのと、はたしてどちらがよかったでしょうか。
2 大 姫 (1178 ~ 1197)






~権力の犠牲になって若い命を失った将軍の娘~






 父親は源頼朝で、母親は北条政子。

 どちらも歴史上の有名人ですね。




 流人の身だった頼朝が、後に源平の合戦を制し、奥州藤原氏も滅ぼして、征夷大将軍として鎌倉幕府を開いたことは周知の事実です。




 天下を取った権力者頼朝を父に持つ大姫は、さぞかし豊かな生活をしたかと思いきや、現実はその逆でした。




 父親に反抗し続け、わずか20歳の若さにして、衰弱しきってその一生を終えました。

 彼女の身に、いったい何があったのでしょうか。




 1178年、大姫が生まれた時、父親の頼朝はまだ流人の身で、平氏の命により北条時政が監視していました。




 不安定な身分だったのですね。




 その監視役の娘である政子が、敵で流人の頼朝と恋仲になり、未婚のまま出産したのです。

 事は穏やかなはずがありません。




 激怒した時政に、大姫の命は狙われてもおかしくない状況でした。




 しかし、断固として自分の意志を貫き通した政子の駆け落ちにより、この結婚が認められたのです。




 当時としては強い母親ですね。




 源平の戦いが始まると、父頼朝は源氏の棟梁としてリーダーシップを発揮し、次々に平氏を追い詰めていくことになります。




 そのような中で、大姫が6歳のときです。

 頼朝は同じ源氏の木曽義仲と対立しました。




 和睦のために義仲の嫡男、11歳の義高が人質として鎌倉に送られてきたのです。

 そして大姫との婚約が成立しました。




 今でいえば小学生ですね。

 政略結婚とはいえ、この2人はとても仲が良かったのです。





 大姫は義高を兄のように慕っていました。

 しかし、外から突然破局が訪れます。




 1184年、義仲は頼朝が送った軍によって都の郊外で敗死したのです。

 頼朝は将来の禍根を断つべく義高の命を狙う決心をすることになります。




 知らせを聞いた大姫は、明け方に義高を女房姿にさせ、侍女たちが囲んで邸内から出し、ひずめに綿を巻いた馬を用意して鎌倉を脱出させました。




 義高の身代わりまで用意して脱出の事実を隠そうとしましたが、夜になって露見してしまいました。




 激怒した頼朝は、40名ほどの追手を派遣し、5日後についに現在の埼玉県の入間川で追いつきました。




 義高は捕えられて河畔で惨殺され、12歳の幼い命を落としました。

 これを知った大姫は半狂乱になりました。




 食事ものどを通らず、ついに病床に伏してしまいました。




 あわてた両親は、義高のための追善供養や読経、各寺院への祈祷などあらゆる手を尽くしましたが、大姫の傷ついた心が解放されることはありませんでした。




 次に頼朝が打った手は、公家の一条高能(たかよし)との縁談です。

 しかし、これには大姫が激しく抵抗しました。




 「高能と結婚するくらいなら、海に身を投げて死にます」

 この一言に両親ともに大いに驚き、高能との結婚は白紙撤回になりました。




 その後、さらなる手が打たれます。

 大姫を後鳥羽天皇の妃にすべく、入内の準備のための上洛が行われました。




 見え見えですね。




 大姫の結婚話は本人のためではなく、頼朝の権力のためであるということです。

 入内を激しく拒否し続け、大姫の病気はますます重くなっていきました。




 望まない縁談の心労が繰り返されたのです。

 1197年、ついに大姫は度重なる心労による衰弱で息を引き取りました。




 すでに鎌倉幕府は成立していましたが、その権力強化のために犠牲になったのが娘の大姫だったのです。



 母親の政子は慕った相手が生きていたので、駆け落ちで意志を貫き通しました。




 娘の大姫は相手が殺されてしまっていたので、駆け落ちをすることもできなかったのです。




 娘を20歳の若さで死に至らしめたのは、他ならぬ両親だったのではないでしょうか。
1 北条政子 (1157 ~ 1225)






~権力を獲得して身内がことごとく犠牲になった尼将軍~






 有名な源頼朝の正妻です。

 意志の強い女性で、夫とも対等以上に渡り合いました。




 夫と共に新しい武士の時代を切り開き、頼朝亡きあとは、事実上の鎌倉幕府の将軍ともいえる権力をもちました。




 草創期の幕府がピンチに陥ったときも、強いリーダーシップでこれを乗り越え、幕府の安定した権力の確立に貢献しています。




 そんな政子の晩年の発言です。

 「どこかの川に身を投げて死んでしまいたい」




 これはいったいなぜなのでしょうか。




 1157年、政子は北条時政の長女として伊豆で生まれました。

 北条氏はもともと平氏の一族で、分家にあたります。




 平治の乱で敗れ、一命を取り留めて伊豆へ流罪になった源頼朝の監視役を命じられていたのでした。



 時政にとって頼朝は敵であり、邪魔者ですね。

 頼朝は流人として伊豆で20年間過ごしますが、女性に手を出すのはとても早かったのです。




 伊東祐親(すけちか) の娘である八重姫(やえひめ) に早々と手を出し、子どもまで生まれましたが、激怒した父親によって仲を引き裂かれ、子どもは滝に投げ込まれて殺されました。




 時政が京都の警備で長期出張中のことです。

 こともあろうに、娘の政子と頼朝が恋仲になり、未婚のまま女児を出産してしまいました。




 これが後の大姫です。

 時政は激怒します。




 「これは大変、平氏に知られたら・・・」

 二人の結婚は断じて認めません。




 政子を伊豆目代の山木兼隆と結婚させようとしました。

 何と婚礼の日、政子は屋敷を飛び出したのでした。




 山を越え、風雨をついて暗夜をさまよい、頼朝のもとへ走ったのです。

 さすがの父親も「参った」 ですね。




 ここまでして情熱的な恋愛で結ばれた夫婦です。

 さぞ幸福な結婚生活かと思いきや、現実はそうでもありませんでした。




 最大の理由は頼朝の浮気癖です。

 何度も何度もありました。




 一例として、政子が妊娠中に頼朝は亀の前という女性を寵愛し、近くに呼び寄せて通うようになりました。




 不倫ですね。




 頭にきた政子は、部下に命じてその女性が住んでいた邸を破壊させたのです。

 これはちょっと怖いですね。




 強烈な嫉妬です。

 1199年、源頼朝が死亡します。




 不思議なことに、正確な死因は現在までわかっていません。

 落馬が原因で病死したということになっていますが、これは不自然です。




 鎌倉幕府の正史である「吾妻鏡」 も肝心な部分がないのです。

 というより、知られないようにされたのでしょう。




 だから当初から暗殺説がささやかれてきました。

 権力を奪うための毒殺のほうが説得力があります。




 その黒幕にはさまざまな人物の名が上がっていますが、政子の名もあります。




 尼将軍として大きな発言権を得た政子は、2代将軍頼家、3代将軍実朝の生母として、幕府の政治的中枢を担いました。





 後には父親の時政を追放しています。

 1221年には承久の乱がおこり、幕府はピンチにさらされました。




 このときに御家人たちの前で力強く演説し、武士の力を結集して朝廷に負けなかったのも、政子の力があったからですね。




 しかし、「承久記」 に残された政子の言葉はこうです。

 「私は周囲から日本で一番幸福な女といわれますが、それはちがいます。




 結婚に反対されて親から恨まれ、夫が平氏と戦っている6年間は不安な毎日を過ごし、平氏が滅んだら今度は娘の大姫が病で死んでしまいました。




 二女の乙姫にも先立たれました。

 そして不倫だらけの夫に先立たれたと思ったら、将軍になった息子たちも次々に殺されました。




 こんなつらい運命だと知っていたら、もっと早くあの世へ行くべきでした」




 「権力は獲得しても、家庭的には決して幸福ではなかった」




 これは本人自身の言葉です。