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8 藤原不比等 (659~720)






~落ちぶれたお家再興の志半ばで倒れた陰の実力者~






 大化の改新で有名な、中臣鎌足の次男です。




 不比等(ふひと) は平城京遷都、日本書紀の編纂、大宝律令、養老律令などに大きな役割を果たし、その功績が歴史上さまざまな方々から評価されています。




 飛鳥時代から奈良時代の初期を生き抜き、後の藤原氏繁栄の基礎を築きました。

 歴代の天皇からの信頼も厚い人物でした。




 しかし、彼は律令政治の最高の位である太政大臣への就任を固辞してしまいました。





 なぜでしょうか。





 父親の鎌足は天智天皇からの信頼が厚く、内臣(うちつおみ) という秘書の役目に就いて権限を振いました。





 天皇の側近ですので、大きな発言力をもっていたわけです。





 ところが息子の不比等は少年時代に大きな苦難に遭遇します。

 父親の死と壬申の乱(じんしんのらん) です。





 鎌足が死んだとき、不比等はわずか11歳でした。

 政治的な活動をするには、あまりにも幼すぎますね。




 次に13歳のときの壬申の乱。




 不比等は天智天皇の直接の子孫である近江朝に近い立場にありましたが、敗れてしまいました。

 勝者の天武天皇から、命を奪われても不思議はありません。




 とても怖かったことでしょう。




 しかし、13歳という戦いに関与できない若年のおかげで生きのびることができました。

 もちろん家は落ちぶれました。




 藤原氏は朝廷の中枢から一掃され、有力な後ろ盾をもたない不比等は、下級役人にならざるをえませんでした。




 屈辱ですね。




 このような苦難と心労の連続の中で、野心家の不比等は権力へのきっかけを次々につかんでいきます。



 最初は橘三千代という女性でした。




 文武天皇の乳母をしていました。

 彼女に巧みに接近して、結婚にこぎつけました。




 これはすなわち、皇族に接近したということでもあるのです。




 次に、娘の宮子を文武天皇の夫人にし、さらに娘の光明子を首皇子(おびとのおうじ) の夫人にしました。




 首皇子の両親は文武天皇と宮子。

 つまり不比等の孫であると同時に、娘の夫でもあるのです。




 あとは、首皇子が天皇として即位すれば、不比等は安泰ということですね。



 ここで邪魔が入ります。





 文武天皇の次の天皇はその母親で、次の次はその娘に回ってきました。

 それぞれ、元明天皇、元正天皇といいます。




 ついに不比等の生存中に、首皇子が天皇として即位することはありませんでした。



 このあたりの譲位の裏事情は本人たちにしかわかりませんが、僕は不比等の発言権を抑えるための策略があったのではないかと考えています。




 藤原氏を差別的に扱い、不比等もまた、差別的な野心をもって出世しようとしていたのだと思います。



 だから不比等は積極的に政治に参加しました。




 でも、平城京遷都、日本書紀の編纂、大宝律令、養老律令などには共通点があるのではないでしょうか。



 これらはすべて、天皇を頂点とする朝廷、すなわち支配者のためのものですね。




 「ごますり」 という側面も感じられます。

 一般民衆のためのものではありません。




 民衆の目線から見れば、迷惑そのものです。

 新しい都の造営という重労働はいったい誰がするのでしょうか。




 多くの犠牲者が出たことでしょう。




 不比等は、持統天皇を始めとする当時の皇女たちの恐ろしさを知っていたのでしょう。



 「へたに出すぎると自分の命が危ない」




 だから太政大臣を引き受けなかったのだと思います。

 その点「内臣」 なら目立ちません。




 気の毒なほど神経を使い、晩年にはもうくたくたになっていたと考えられます。

 直接の死因はわかっていません。




 ちなみに、不比等の死後になって孫の首皇子は聖武天皇として即位し、娘の光明子は光明皇后として即位します。




 不比等はこの事実を全く知らずに亡くなっていたのでした。
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7 草壁皇子 (662~689)






~母親の権力欲の犠牲になって若死にした悲劇の皇太子~






 母親とは、万葉集や百人一首で有名な持統天皇です。

 父親は天武天皇、母親は持統天皇、妻は天智天皇の娘で、後に元明天皇になる女性です。




 さらに子どもたちも、それぞれ文武天皇、元正天皇として即位しています。

 周りはみんな天皇になった、文句なしの皇族一家の一員ですね。




 それなのに、草壁皇子は天皇になることなく、皇太子のまま28歳という若さで謎の死を遂げています。




 史書にも、あまり多くのことは語られていません。




 なぜでしょうか。




 662年、草壁皇子は大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇) と鸕野皇女(うののひめみこ、後の持統天皇) の子として生まれました。




 幼いころから病弱で、母親の溺愛の下に育ちました。

 671年、早くも事件が起きます。




 父親の大海人皇子が、突然出家しました。




 「天智天皇が大海人皇子の命をねらっている」

  このように察知したので、急いで大津京を離れ、吉野にこもったのです。




 母の鸕野皇女と草壁皇子、他の皇子たちもやむを得ず吉野へ行きました。

 672年、歴史上有名な壬申の乱(じんしんのらん) が勃発します。




 負ければ死ぬことは確実ですね。

 居ても立ってもいられなかったことでしょう。




 この戦乱で、他の皇子たちの活躍は記録にあっても、草壁皇子のことはほとんど書かれていません。



 翌年、幸いにも勝つことができ、父は飛鳥浄御原で天武天皇として即位することができました。




 天武天皇は後継者として、大津皇子を考えていました。

 文武両道で身体容姿も優れ、誰が見てもふさわしい人物でした。




 ここで横槍が入ります。




 鸕野皇女が夫に強く迫り、あえて虚弱で凡庸な草壁皇子を皇太子に立てさせたのです。

 理由は単純明解ですね。




 草壁皇子は自分が産んだ子、大津皇子は自分の姉が産んだ子。

 これだけです。





 679年、「吉野の盟約」 を6人の皇子たちに誓わせます。

 簡単に言えば、次のような事実上の命令です。





 「皇太子は草壁皇子に決まった。

  他の5人はみんな言うことを聞きなさい」



 



 当の草壁皇子の心境はどうだったでしょうか。





 朝廷にも民衆にも実力を認められ、人気があったのは大津皇子です。

 安心感と同時に、後ろめたさと不安、心労にさいなまれることになったのではないでしょうか。




 実際、母親の鸕野皇女も彼の人望のなさと実力はよく知っていました。

 立太子はさせたけれど、将来天皇としてやっていけるのかという不安はぬぐえませんでした。




 朝廷の臣下や民衆も、この人事には疑問を抱く人が多かったことでしょう。

 686年、天武天皇が崩御すると、すかさず鸕野皇女は暴挙に出ます。




 大津皇子に謀反の罪をなすりつけ、捕えた翌日に処刑したのです。

 あっという間の出来事です。




 天武天皇の死後、わずか23日のことでした。




 大津皇子の妻、山辺皇女(やまべのひめみこ) は狂乱して髪を振り乱し、裸足で駆けつけるや、自分の喉を剣で突いて夫の身体の上に倒れて殉死しました。




 この悲劇を見た人々は、みんな嘆き悲しんだと日本書紀は伝えています。

 この声が草壁皇子の耳に届かないはずはありませんね。




 想像を絶する心労に悩まされたことは容易に考えられます。

 これで邪魔者を消したと思ったのは鸕野皇女でしょう。




 しかし、草壁皇子はなかなか天皇に即位しませんでした。

 ならなかったのか、なれなかったのかはっきりしません。




 それから3年後、今度は草壁皇子が皇太子のままで亡くなります。

 病死とも自殺とも他殺とも考えられます。




 どの死因でも、度重なる心労が大きく関係していたことは否定できません。




 もっと血なまぐさい権力から解放された、別の生き方があったのではないでしょうか。
6 天智天皇 (626~671)






~権力を握っても心労と不安におびえ続けた近江の天皇~






 滋賀県の大津に都があったことをご存知でしょうか。

 飛鳥時代の中のわずか数年間でしたが、大津京という都が実在しました。





 遷都者は天智天皇です。





 即位前の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ) という名でも広く知られる、古代の有名人の一人です。




 さまざまなライバルたちとの競争に打ち勝ち、天皇という最高の地位をものにした彼は、ある意味では時代の勝利者です。




 しかし同時に、生涯にわたって何かにおびえ続けた憶病者だったとも考えられます。





 なぜでしょうか。





 626年、中大兄皇子は舒明天皇の皇子として生まれました。

 母親も後に天皇になり、皇極天皇(こうぎょくてんのう) と呼ばれています。





 他の天皇候補者も何人かいましたが、皇位を継承するのに十分な血筋です。

 しかし、当時は有力豪族である蘇我氏の黄金時代で、天皇の地位も左右されるほどでした。





 すでに崇峻天皇(すしゅんてんのう) などは、蘇我馬子によって暗殺されていました。





 こんな中で645年、聖徳太子の皇子、山背大兄王(やましろのおおうのおう) が蘇我入鹿によって自殺に追い込まれるという事件が発生したのでした。





 中大兄は、自分の命も危ないと感じ恐れたことでしょう。

 このとき彼の力量を見抜いた中臣鎌足(なかとみのかまたり) が近づいてきました。





 蘇我を滅ぼすということで意見が一致した二人は、協力して蘇我氏を滅ぼしました。





 同じ年、ライバルになる古人大兄皇子(ふるひとのおおうのおうじ) に謀反の疑いをかけて殺害しています。




 658年にはやはり、有間皇子にも謀反の疑いをかけて殺害しました。





 これらの行動の背景には、自分もいつ殺されるかわからないという恐怖が横たわっているのは明白ですね。





 対外的にも、恐怖と不安がありました。





 仏教伝来以来、日本と関係深い朝鮮半島の百済(くだら) の国が、唐と新羅(しらぎ) の連合軍により攻められたのです。




 この連合軍という作戦を立てた人は、中国史上唯一の女帝として知られる唐の則天武后です。




 661年、中大兄皇子は百済再興軍を率いて九州まで行きますが、そこで母親の皇極天皇が病死します。



 さらに663年、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗してしまいました。



 そして百済は滅亡です。





 「次は日本が危ない」





 これが相当な不安だったのでしょう。

 まず、九州に防衛基地として大宰府をつくりました。





 次に、九州から飛鳥までの間に、いくつもの城を築かせました。

 「まだ安心できぬな」





 それでも不安は払拭できません。





 667年、ついに都そのものを、中国・朝鮮半島から見てさらに奥地になるところへ移しました。




 こうして選ばれた土地が、近江の国大津京です。

 つまり大津京は、中大兄皇子が対外戦争の不安から遷都した都だったのです。





 668年、彼はこの大津京で正式に即位しました。

 これが天智天皇です。





 大化の改新から23年。

 亡くなったのは671年ですから、天皇としての在位はわずか3年ほどですね。





 生涯のうちでは皇子の時代が大半だったということになります。

 しかし、即位してもまだ別の不安が残っていました。





 次の皇位継承です。





 息子の大友皇子に継がせたいというのが本音ですが、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ) が次の天皇であることは、朝廷の誰もが認めるところでした。





 大海人皇子は賢く、身の危険を感じるとさっさと出家し、吉野へこもりました。

 あれほど殺人を繰り返してきた兄など、信用できるはずがないですね。





 大海人皇子は、後に天武天皇として即位したことは広く知られています。


 天智天皇は病死なのか他殺なのか、詳細ははっきりしません。





 ただ、最期まで心労と不安におびえ、恐怖から解放されなかったことは事実でしょう。





 殺人以外の方法で、この恐怖と不安から解放されることはできなかったのでしょうか。
5 孝徳天皇 (596~654)






~甥に利用され妻にも見放されて孤独死した難波の天皇~






甥(おい) とは中大兄皇子で、妻とは中大兄の妹、間人皇女(はしひとのひめみこ) です。

つまり、孝徳天皇の姪にあたる人物でした。




大化の改新の諸改革が行われたときに、天皇として君臨していました。




朝鮮半島からもしばしば使者が訪れ、遣唐使も派遣したので、国の内外にわたって朝廷の権威が確立しはじめている時期でした。




しかし孝徳天皇の最期は、現在の大阪で孤独死という結果で終わっているのです。




なぜでしょうか。




596年、彼は敏達天皇の孫として生まれています。

母親も舒明天皇の孫です。




 温和な性格で、少年時代は軽皇子(かるのおうじ) と呼ばれていました。

 蘇我氏との姻戚関係がないため、皇室の主流から外れていたのです。




 本来なら天皇になれない立場の人で、ほかの候補者が何人もいました。




 ところが645年、乙巳の変(いっしのへん) が突然おきて蘇我氏がほろんだため、軽皇子に天皇の地位が転がり込んできたのです。




 当時の皇極天皇(こうぎょくてんのう) は、目の前で蘇我入鹿が殺されるのを見てショックを受け、退位を決意します。




 皇極天皇は、中大兄皇子の母親に当たる人物です。



 息子に皇位を譲ろうとしましたが、そうはいきませんでした。




 事件は起きたばかりで、まだ蘇我氏寄りの勢力や中大兄に対する敵対勢力もあり、朝鮮半島の情勢も不安定なものがあったからでしょう。




 そこで傀儡(かいらい) として担ぎ出されたのが軽皇子です。

 中大兄皇子は皇太子として、自由に動ける立場を選択したのです。




 孝徳天皇の名のもとに諸改革が実行され、唐の律令政治を手本にした政治で、朝廷の権威が次第にゆるぎないものになっていったのでした。




 都も難波京に移し、その間に中大兄の敵対勢力も次々に滅ぼされていきました。




 あまり目立ちませんが、僕は年長で策略的な中臣鎌足が、裏で中心的な働きをしていたのではないかと考えています。




 でも、どうでしょうか。




 大化の改新は朝廷にとって、都合のよい政治になっていないでしょうか。

 厳しい税制や労働の強制は、一般民衆にとって過酷だったのではないかと思います。




 人権が尊重されていたとは、とうてい考えられません。

 この疑問は、次の奈良時代になってはっきりと表面化してきます。




 孝徳天皇は、リーダーとしても男性としても、あまり信頼されていなかったようです。

 皇后の間人皇女は、兄の中大兄皇子と人の道ならぬ近親相姦の関係にありました。




 653年、中大兄は都を飛鳥に戻すように天皇に進言しました。

 天皇はこれを拒否しています。




 この遷都は天皇を無視して、強引に実行されました。

 皇族たちやほとんどの臣下たちも、中大兄に従って飛鳥へ戻りました。




 孝徳天皇にとっては頼みの皇后、間人皇女までが飛鳥へ行ったので難波に置き去りにされたようなものですね。




 言葉に尽くせない耐え難い心労だったことでしょう。




 「名前だけ」 の孤独な天皇の姿が浮き彫りになってしまいました。

 やがて孝徳天皇は病気になり、難波に残されたままこの地で亡くなりました。




 これでは、死ぬために天皇になったようなものですね。

 もともと天皇の器ではなかったとも考えられます。




 こうなることを予想して、天皇になることそのものを辞退することはできなかったのでしょうか。




 地位と権力に目がくらみ、その背景に差別心があれば、最高の位を辞退することはできませんね。




 この孝徳天皇の生き方からも、後世に生きる僕たちはとても大切なことを学べるのではないでしょうか。





 根本的に差別心から解放され、自分の力量に適した生き方をすれば、もっと実りある人生を送れたのではないかと思います。
4 蘇我蝦夷 (586~645)






~強力な権力が反感を買い自殺に追い込まれた飛鳥の大臣~






 それにしても差別的なあだ名をつけられたものです。

 蝦夷(えみし) というのは本名ではありません。




 異端児、異民族、野蛮人などの意味をもつ、人を見下した言葉です。

 彼の父は蘇我馬子、息子は蘇我入鹿といいます。




 馬子と入鹿で馬鹿とも読めますね。

 歴史は勝者によって作られます。




 だから滅ぼされた敗者を必要以上におとしめ、勝者の正当性を強調しようとすることがよくあるので注意が必要です。




 蘇我氏=悪人というイメージは勝者によって作られたものでしょう。




 勝者とは大王(おおきみ) と中臣氏、つまり後の藤原氏です。

 大王に寄り添って権力を発揮した蘇我氏に代わって、藤原氏が栄えます。




 後の藤原氏の栄華を正当化するためには、先祖である中臣鎌足(藤原鎌足) が偉人であることが大切になるわけです。




 権力の交代劇と見ることもできます。




 残念なことに、一般民衆の声はほとんど聞こえてきません。




 いずれにせよ、どちらが勝っても民衆のためになる人と政治が、広く民衆から望まれたのではないでしょうか。




 この後の「大化の改新」 の政治内容が問われるわけですね。

 586年、蘇我蝦夷は馬子の子として生まれます。




 父親の強権を引き継ぎ、蝦夷も大臣(おおおみ) として権勢を振るいました。

 皇位の継承も事実上、蝦夷が決めています。




 舒明天皇は彼が即位させました。




 天皇になれる他の候補者もいましたが、その候補者を推薦した自分の叔父を殺害してしまいました。




 ちなみに候補者の名は、山背大兄王(やましろのおおうのおう) といいます。

 有名な聖徳太子の子どもですね。




 644年、蝦夷は甘橿丘(あまかしのおか) に邸宅を構えます。

 飛鳥全体を見下ろし、天皇の住居までも眼下に見下ろせる丘の上です。




 家の周囲には柵をめぐらし、常時護衛が警護していたので、まるで要塞のようですね。




 この屋敷は宮上の門(みかど) と呼ばせ、息子の入鹿には、冠位十二階の最高位である紫の冠を与えました。




 これらのことから、蘇我蝦夷も父と同様に、天皇をしのぐ実質上の最高権力者であったと考えられます。




 ところが645年、息子の入鹿が早まった行動に出ます。




 次の皇位継承候補者の皇子たちはたくさんいましたが、蘇我氏にとっては古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ) が最もやりやすく即位を望んでいました。




 対立候補の中でも、特に山背大兄王は人望があり優秀だったのでしょうか。

 入鹿は危機感を感じていました。




 父の蝦夷を無視して兵を動かし、山背大兄王の館を襲いました。

 家族もろとも集団自殺という悲劇に終わったのでした。




 この事件を受けて、今度は中臣鎌足と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ) が蘇我入鹿を殺害します。



 心労に心労を重ねた父の蝦夷は、蘇我氏の邸宅に火を放ち、自殺に追い込まれたのでした。




 この事件を歴史上、乙巳の変(いっしのへん) と呼び、これ以後の新しい政治改革を大化の改新といいます。




 ここに飛鳥時代の有力豪族、蘇我氏が滅亡したのでした。




 確かに息子の入鹿は殺人者ですが、実際の入鹿は非常な秀才だったという意見もあります。




 ちなみに、中大兄皇子は後に天智天皇として即位する有名人ですが、教科書には書かれていないことがあります。




 彼は、乙巳の変の後、古人大兄皇子や有間皇子などの皇子たちをはじめ、自分の即位に邪魔になる人物を次々に殺害しているのです。





 血なまぐさい殺人が、また殺人を呼ぶ結果になりました。





 権力にこだわりすぎた人々の血の応酬です。





 差別心から一人でも多く解放されていれば、人生半ばで殺される人をもっと少なくできたのではないでしょうか。