2 アレクサンドル1世 (1777年 ~ 1825年)






~望まぬ地位と重圧に押しつぶされたロシア皇帝~






 ナポレオンを敗走させたときのツァーリ(皇帝) として知られる人物です。




 モスクワに攻め込もうとしているナポレオンのフランス軍に対し町を焼き払い、市民と食料もあらかじめ移動させておいたので、この町は空っぽの状態でした。





 飢えとロシアの厳しい寒さで撤退するフランス軍に一撃をくらわせ、ナポレオン没落の第一歩を作ったのです。




 この焦土作戦はアレクサンドルの部下がやっとことですが、「冬将軍」 という言葉はここから生まれました。




 1777年、アレクサンドルはサンクトペテルブルクで生まれています。

 有名な女帝、エカチェリーナ2世の孫です。




 しかし、父親のパーヴェル1世は暗殺で亡くなり、祖父のピョートル3世の不審な死も、暗殺説が根強く残っています。




 この状態で皇帝に即位して、自分の将来に不安を感じない人間はめったにいないでしょう。




 部下や国民に信頼されなければ、「自分の命がどうなるか知れたものではない」 と思うのはごく自然なことと考えられますね。




 事実、彼はすでに少年時代に、友人コチュベーイに告白しています。




 「私は皇帝にふさわしい人間ではない。

  帝位を放棄してライン河畔に移り住み、一私人として平和に暮らしたい」




 また、48歳のときには、弟ニコライの義兄であるヴィルヘルム公に、次のように話しました。




 「私は自分自身を知りすぎている。

  50歳になったら帝位を捨てる。




 2年後にこの広大なロシア帝国を治めるだけの精神的、肉体的活力が残っているとは、とうてい思えない」




 実際には50歳どころか、この年48歳で原因不明の病で死んでいます。

 彼は皇帝として、対外的にはかなりの権力を発揮しています。




 ナポレオンの支配を退けただけでなく、ポーランドを支配し、フィンランドやアラスカも領土として獲得しています。




 1914年のウィーン会議では、愛嬌と社交性のある華麗な立ち居振る舞いがひときわ目立ち、中心的な存在として注目されました。




 あくる年の1915年には、アレクサンドル1世の提唱で「神聖同盟」 が成立しました。




 ロシアのほかに、プロイセンやオーストリアが参加し、その後ヨーロッパの君主国が次々に加盟していきました。




 国王や皇帝の権力を強める、反動的な同盟です。

 国民の側から見れば、あまりありがたい同盟ではないですね。




 しかし、アレクサンドルは皇帝の地位を強く望んでいたものでないことは明らかです。




 むしろ、不安と心労が常につきまとい、権力の裏でいつもびくびくしていたのではないでしょうか。




 裏表が相当違っていたのかも知れません。




 ロシアには頑固な貴族も多くいました。

 フランスの皇帝になったあのナポレオンは、アレクサンドル1世のことを、こう評価しました。




 「彼は魅力的だが、信頼できない。

  真心がない。抜け目なく、偽善的で狡猾(こうかつ) である」




 1825年、高熱と吐き気に悩まされ、健康状態が悪化してきた彼は、逃げるように休養の地として選んだ南方にある別荘に行きました。




 場所はアゾフ海に面したタガンロクで、黒海や地中海につながる、ロシア帝国では最も南に位置するところです。




 ところが別荘に着くなり、床について起き上がれなくなったのです。




 医師は一応マラリアと診断し

 「回復の見込みなし」




 皇后エリザベータに、こう伝えました。




 たとえそうであったとしても、長年のストレスと心労が大きく関与していることは否定できないでしょう。




 同年12月、ついにアレクサンドルの意識は回復しないまま、この世を去りました。

 アレクサンドルは、死ぬために皇帝になったのでしょうか。





 もっと早く退位して、解放された生活を送っていればどうだったでしょうか。





 ロシアにとって、歴史に残る功績はありました。





 しかし本人としては、権力よりももっと 「自分らしく生きたかった」 というのが本音だと考えるのは僕だけでしょうか。
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1 ナポレオン (1769年 ~ 1821年)






~コンプレックスと権力の狭間で揺れたヨーロッパの帝王~






 「わが辞書に不可能の文字はない」 と言ったとか、言わないとか。

 世界史上、燦然(さんぜん) と輝く英雄の代表のような人気者です。





 白馬にまたがり、右手を高く掲げて、雪のアルプスをまっしぐらに越え、イタリアに攻め込んだ勇敢なナポレオンの姿は、世界中で知られていますね。





 しかし、実際にはロバに乗っていたそうですが。

 彼自身はこう発言しています。





 「後世私が評価されるとしたら、多くの戦勝ではなく、この法典によるのだろう」

 この法典とは、「ナポレオン法典」 のことです。





 「万人の法の前の平等」

 「国家の世俗性」




 「信教の自由」

 「経済活動の自由」




 など近代的な基本的人権が取り入れられており、日本の民法の編纂の参考にもされました。




 僕もナポレオンの最大の功績は、フランス革命の成果である基本的人権の価値観を、ヨーロッパじゅうに広げたことにあるのではないかと考えています。




 立場にもよりけりですが、彼の生き方には、功罪両面からの意見が多数あるのも事実です。

 ナポレオンはフランス人だと思われている方が多いでしょうが、正確には少し違います。




 彼は、地中海に浮かぶコルシカ島の生まれです。

 日本でいえば、広島県と同じくらいの面積をもつ島で生まれました。




 イタリア語に近いコルシカ語を話し、意外にも最初はフランス語が話せませんでした。

 ジェノバに400年も支配され、コルシカは独立戦争を何回もやっています。




 「俺たちを奴隷のように扱いやがって・・・」

 コルシカ人は、自主独立の気運が高く、ナポレオンの夢は、「独立」 でした。




 ナポレオンが生まれた時は、何とジェノバが勝手にコルシカ島をフランスに売り渡していたのです。



 だから島全体が、彼が生まれた時から、すでに被差別の立場にありました。




 少年時代から、自立へのハングリー精神が旺盛だったと考えられます。




 1778年、彼が9歳のとき、フランスのブリエンヌ陸軍幼年学校、15歳でパリの陸軍士官学校に入学しました。




 何とかフランス語は覚えましたが、コルシカなまりがぬけなかったために、クラスメートから「いじめ」 に遭っています。




 差別的な扱いをされましたが、たくましく乗り越えて実力をつけていきました。



 ところが、思わぬことが起こります。




 フランスと協力して、コルシカの自治的な独立を目指すナポレオンの考えは、故郷コルシカの人々に受け入られませんでした。




 何と家族もろとも、愛するコルシカ島を追い出されてしまったのです。




 しかし1795年、26歳のときに、フランスの国内最高司令官になり、30歳でクーデタを起こして権力をものにしたのです。




 その後の軍事的活躍はめざましいものがあり、フランス革命後の諸外国との戦いで連戦連勝し、一時はイギリスを除くヨーロッパ全体をほぼ支配下におさめる絶頂期を迎えました。




 ついに1804年、皇帝に就任したのです。




 まさに、ヨーロッパの帝王ですね。




 ところが、40歳のときに、子どもが生まれない妻ジョゼフィーネと離婚し、翌年に再婚しています。




 お相手はオーストリア皇女、マリー・ルイーズです。

 この再婚は、家柄にコンプレックスをもつナポレオンの下心が見え見えですね。




 僕は、ナポレオンは自由を求めた人であると同時に、差別者でもあったと思います。

 結局、2年後のロシア遠征失敗を機に、一気に没落していきます。




 最後は大西洋の孤島、セントヘレナに流され、そこで亡くなりました。




 妹の度重なる非行もあり、形と見栄えを重視するナポレオンの心労は相当なものだったことでしょう。




 よく右手を服の中にねじ込んでいましたが、これは痛む胃を撫ででいたと言われています。



 最後の島流しまでついて行った肉親は、その非行で知られる妹一人だけだったのです。




 これはいったい、何を物語っているのでしょうか。
12 ジョージ3世 (1738年 ~ 1820年)





~多難な政局と私生活に発狂して廃人になったイギリス国王~






 イギリスをこよなく愛し、自ら「愛国王」 と呼び、王権の強化を図った国王です。

 ハノーバー朝第3代目の国王で、有名なヴィクトリア女王の祖父にあたる人物でもありました。




 アメリカ大陸でのフランスとの植民地争いに勝利し、広大な土地を支配下に収めています。




 学問の振興に力を尽くし、芸術にも理解が深く、ダンディの始祖といわれるブランメルを認めて、一種の芸術サロンも開きました。




 しかし、このジョージ3世は最終的には発狂して、生涯回復することはありませんでした。

 いったい、彼の身の何が起こったのでしょうか。




 基本的には、幼少のときからの社会経験不足があったのではないかと思います。

 母親は、彼を俗事一切から隔絶した教育を施していました。




 身内には強いが外には弱い、いわゆる内弁慶ですね。




 生来、神経過敏な性格をもっており、22歳で国王として即位したときには、「人を動かす力」が欠如していたと考えられます。




 当時のイギリスにはピットをはじめ、優れた政治家がたくさんいて、国王の意思はなかなか思うようにならなかったのです。




 このような中で、イギリスにとっては大事件が起こります。


 「アメリカ独立戦争」 ですね。




 1773年のボストン茶会事件を皮切りに、植民地アメリカとの戦争が始まったのです。

 「ボストンでは、イギリスの許可なく集会や選挙をやらせるな」




 ジョージ3世が、アメリカを見下しているのがよくわかる言葉ですね。

 明らかな差別者の発言です。




 あくまでも植民地として、アメリカを支配し続けようとしていたのです。

 しかし、イギリス軍は予想外にも敗れてしまいました。




 「うそだ、そんなばかな。

  世界がひっくりかえらない限り、世界最強のイギリス軍が負けるなどあるわけがない」




 信じられない敗戦に、激しい動揺を隠すことができませんでした。


 誇り高きプライドをズタズタにされ、ジョージ3世の心労は極度に達したことでしょう。




 1776年、植民地は高らかに独立宣言をかかげ、本国イギリスから自立しました。


 「アメリカ合衆国」 の誕生です。





 初代大統領は、かの有名なジョージ・ワシントンですね。


 政治の難局は、次々に訪れます。





 1789年、フランス革命が勃発しました。





 この大革命のさなか、フランスの国王ルイ16世がギロチンで処刑されるという大事件が起こったのです。




 隣国の同じ立場である国王としては、この事態を黙って見ているわけにはいかないという気持ちはわかるような気がします。





 またしても戦争です。





 そしてその後は、ナポレオンとの全面戦争に発展します。

 イギリス国王としては、気が休まる暇もないですね。





 同じころ1788年、放蕩な皇太子(後のジョージ4世) の相次ぐスキャンダルに心を痛めていたジョージ3世は、精神に錯乱をきたして倒れていたのです。





 皇太子の借金は、どうしようもない膨大なものになっていました。

 1810年には、不幸にも最愛の娘を失いました。





 ここに及んで、ついにジョージ3世は発狂してしまいました。

 この事態にイギリス議会は翌年、次のような判断を下します。





 「陛下の病に回復の見込みなし」

  皇太子を摂政に据えました。





 その後10年間、ついに最後までジョージ3世の精神はよみがえることがありませんでした。

 88歳という長寿でしたが、幸福に生きた国王と考えるには無理がありそうですね。





 性格と実力に不相応な重責と、権力・心労に振り回された一生だったのではないでしょうか。





 人間を大切にする人権感覚と、差別意識からの解放がもう少しあれば、発狂した廃人になるのを防ぐことができたかもしれない、と考えるのは僕だけでしょうか。