6 ニュートン (1642年 ~ 1727年)





~学会での権威と論争に疲弊したイギリスの大科学者~





 アイザック・ニュートンが世界的な大科学者であり、大天才であることはあまりにも有名ですね。



 万有引力の法則をはじめ、微積分法、光の研究など、その輝かしい功績は世界中で認められ、人類の発展に大きく貢献しています。




 彼が出版した「プリンキピア」 は人類の宝とまで言われています。




 世界史上の偉大な人物であることは間違いありませんが、人権史観の視点から彼の生き方を見た場合、僕は疑問に思えることがあるのです。





 なぜでしょうか。





 1642年、ニュートンはイングランド東部のウールソープで生まれました。




 イギリスでは清教徒革命が始まる年で、日本では江戸時代、3代将軍徳川家光のもとで鎖国が始まったころにあたります。




 彼は12歳まで近隣の学校に学び、1661年、ケンブリッジのトリニティ・カレッジに入学しました。



 1668年には学位を取得し、翌69年、師のバローを継いで、27歳の若さで教授になりました。



 しかし、ニュートンの講義はあまりに難解で、生徒が次々に教室から退散し、ついに教室には誰もいなくなってしまいました。




 我が強く気難しくて偏屈な一面もあり、議論において意見の合わない者は反論の余地すら与えず、叩き潰すまで論破しようとしました。





 だから、ニュートンは他の学者たちとの間でいざこざが絶えませんでした。

 例をあげれば、1680年、フラムスティードと彗星をめぐる論争になったときです。





 このときは、明らかにニュートンが間違っていたのですね。

 自説の誤りを認めて、一旦論争は収束したかに見えました。





 ところが、後に彼がイギリス王立協会の会長になると、その地位を利用してフラムスティードを蹴落とそうとしたり、天文データを要求するときに、高慢な態度を取って嫌がらせをしたりしました。




 過去の論争で自尊心を傷つけられ、感情的に恨みを根に持っていたのですね。


 これでは「いじめ」 です。





 会長という権威から相手を見下し、正しい意見を主張した科学者を差別的に扱った大人げない行為ですね。




 フラムスティードの長年の観測業績の集大成となる本が作られることになったときは、それを形式的にはハリーの本とし、フラムスティードの名がそれには冠されないようにしたりもしました。





 また、「フックの法則」 で有名なロバート・フックとも光の性質について論争しています。





 ニュートンは、王立協会の会長の権威を利用して、フックの死後、彼の業績を葬り去っているのです。





 またしても、偉大な科学者を世界の歴史から抹殺しようとしたのです。

 微積分法におけるライプニッツとの論争は、裁判にまで発展しました。





 25年にもわたって、どちらが先に微積分法を発見したかという争いを延々と続け、双方の弟子・後継者まで巻きこんで論争は18世紀まで続きました。





 これだけ長い間裁判で争っていては、心労も相当なものだったでしょうね。

 1693年には、ニュートンがうつ状態になったという記録もあります。





 1688年、大学の代表として国会議員に選出されました。

 しかし、ニュートンの国会議員としての発言は、たった1回だけでした。





 「守衛さん、会議室の窓を閉めてください。

 寒気がするものですから」 





 これなら僕でもできますね。





 一生独身であったということ以外、晩年のニュートンの暮らしぶりはあまりよくわかっていません。





 大科学者であると同時に、権威とそれに伴う心労も非常に大きく、なかなか差別意識から解放されない生き方をしたのではないかと僕は考えています。
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5 モンテスパン侯妃 (1641年 ~ 1707年)


 


~国王から見放され修道院で孤独死したフランス寵姫~





 国王とは、太陽王として世界的に有名なルイ14世です。

 その第一寵姫として権力をほしいままにしたのが、モンテスパン侯妃です。




 当時のフランスは絶対王政の黄金時代で、ヨーロッパ随一の強国とされていました。

 ルイ14世は「朕は国家なり」 と宣言して、絶大な権勢を誇っていたのです。




 第一寵姫は輝く金髪に青い瞳の豊満な美女で、透き通るような白い肌をしていました。

 快活で才気があり、優れた話術と機知、ユーモアもある魅力的な人物です。




 しかし、最期は身も凍るような孤独と不安の中で幕を閉じました。

 いったい、彼女の身に何があったのでしょうか。




 モンテスパン侯妃は、本名をフランソワーズ・アテナイスといいます。

 フランスの名門貴族、モルトゥマール公爵の娘として生まれました。




 1660年に、王妃マリー・テレーズの侍女になっています。

 3年後にはモンテスパン公爵と結婚し、二人の子どもにも恵まれました。




 しかし、野心家で権力欲旺盛なフランソワーズは、これだけでは満足しませんでした。




 以前から国王の寵姫になりたいと、虎視眈々(こしたんたん) とチャンスをねらっていたのです。




 1666年、そのチャンスは訪れました。

 ルイ14世の母アンヌの追悼ミサで、フランソワーズは国王と知り合うことができたのです。




 このとき夫のモンテスパン侯は、遠隔地のルーシオンというところに駐屯していたのでした。

 フランソワーズは、夫と離婚して国王の寵姫になります。




 他の寵姫などのライバルを次々に押しのけて、ついに念願の第一寵姫になったのです。




 夫のモンテスパン侯はこれを認めず、フランソワーズに暴力を振るったりしましたが、彼女はルイ14世の力で強引にモンテスパン侯との離婚を成立させました。




 権力への執念ですね。




 こうして念願のファーストレディとして華やかな宮殿で夢のような暮らしができたのでしょうか、国王との間にも7人の子どもたちに恵まれたのでした。




 しかし、宮殿内では不気味な毒殺事件が相次いで起こるようにもなりました。

 事態を重く見たルイ14世は、非公開の「火刑法廷」 を設置したのです。




 裁判を通じて明らかにされたのは、魔女とされるラ・ヴォワザン一味が行った「黒ミサ」 の儀式でした。




 黒ミサというのは、生きた赤ん坊を生贄(いけにえ) として捧げ、その血をワインとともに飲み干すことで願いをかなえるという儀式です。




 フランソワーズはこれに参加し、口を真っ赤に染めて、殺した赤ん坊の血を飲み、性器に魔術師のキスを受けていたのです。




 国王の愛を独占するため、自分以外のライバルの寵姫たちの追い落としをひたすら願ったといいます。




 またしても権力への執念がなせる業ですね。


 驚いたのはルイ14世です。





 しかし、彼にはフランソワーズに産ませた7人の子どもがいます。

 頭を痛めて悩んだ末、事件をうやむやにしました。





 そして、彼女をそれまでの部屋から遠く離れた一室に移動させ、公式の場でも、フランソワーズに一声もかけることがなくなりました。





 その後、宗教に救いを求めたフランソワーズは修道院に入ることになったのでした。

 それでも、なかなか俗世界を忘れることができず、いつも死の恐怖におびえていました。





 闇を恐れ、部屋に何本ものろうそくを灯したまま眠り、夜中に目をさましたとき一人ぼっちにならないために、数人の修道女にそばについていてもらいました。





 このような強烈な心労の中、1707年、フランソワーズは67歳で亡くなりました。




 悲しき末路ですね。




 人を見下す差別心から解放されていれば、もっと違った晩年を過ごすことができたのではないでしょうか。
4 スレイマン2世 (1642年 ~ 1691年)





~長い監禁生活の犠牲になったオスマン帝国のスルタン~





 「金の鳥籠」 をご存知でしょうか。

 オスマン帝国の女の園、ハーレムにあった監禁場所、つまり牢です。




 ここに監禁されたのは、女性たちではなくスルタン(皇帝) の皇子たちです。




 もっともそれ以前に、ハーレム全体がたくさんの女性たちを監禁している場所だったとも考えられますね。




 その女の園の中に男性専用の人間が入る「鳥籠」 があったわけです。

 僕はスレイマン2世というスルタンは、「金の鳥籠」 の典型的な犠牲者だと考えています。





 なぜでしょうか。




 スレイマン2世は、オスマン帝国第20代のスルタンです。

 父は狂人皇帝とあだ名された、イブラヒム1世です。




 兄はメフメト4世、弟はアメフト2世で、すべてスルタンになりました。




 1687年、兄の後を継いで即位したスレイマン2世は、賄賂や娯楽を嫌う、信仰深く正直な人物だったといわれています。




 オスマン帝国内の賄賂や暴虐行為に反感をもち、宰相に命じて管理体制の修復に努力しました。



 ところが、彼は即位する前の皇子のときに、何と39年間も「金の鳥籠」 で過ごしていたのです。




 極めて孤独な場所です。




 皇子の近くにいるのは、卵巣か子宮を摘出された2~3人の側女と、鼓膜に穴をあけられ、舌を切り落とされた衛兵だけでした。




 これでは満足に話もできません。




 側女や衛兵までもが、強烈な人権侵害を受けていたのですね。

 即位する前の皇子には、公的な活動を一切行わせないというのが理由です。




 ここまでして、スルタンの権力を守ったのです。




 金の鳥籠に入れられた皇子たちは、いつ解放されるかわからない長い孤独な日々を過ごしたことでしょう。




 中には孤独に耐えられず、錯乱状態に陥った者も出ました。





 宮廷内では、いつ反逆者が殺しに来るかわからない状況の中で、不安と恐怖におびえながら、ひたすら不自由な監禁生活を余儀なくさせられたのでした。





 こんな生活を長く続けていれば、何らかの弊害が出てきても不思議ではありませんね。

 スレイマン2世の場合は、すっかり禁欲主義になってしまいました。





 晴れてスルタンとして即位し、せっかく目の前に美女をズラリ並べられても、まったく興味をもてなくなっていました。




 ハーレムには「夜伽(よとぎ)カレンダー」 なるものがあり、スルタンはそのスケジュールに従って、公平に平等にせっせと女性と関係をもつしくみになっていました。





 でも、こうなるとスルタンの意思は無視され、楽しみどころか労働になってしまいそうですね。

 そもそもイスラム教には、一夫多妻制が認められています。





 しかし、これは男性のためにあるのではなく、女性のためにあるのです。




 ムハンマドが布教を始めたころから、多くの迫害にあい、他の宗教との戦いがたくさんありました。




 これらの戦いで、夫を失う妻たちが続出したのです。

 この夫を失った妻たちを守るための制度が、一夫多妻制なのです。




 ただし、条件付きです。




 複数の妻をもっても良いが、もつなら妻たち全員を平等に扱いなさいということです。

 特定の女性とだけ仲よくすることは、許されなかったのです。




 もちろん、スレイマン2世も敬虔なイスラム教徒でした。

 元気な男性ならともかく、そうでなければ相当な心労になるでしょうね。




 スレイマン2世の治世は約4年です。

 39年も監禁されて、たったの4年間でした。




 特に後半の2年間は病床に伏し、1691年、49歳で病死してしまいました。




 権力を守るための 「金の鳥籠」




 とても考えさせられる制度ですね。




 人間なら人間らしく、もっと自由に生きたいと考えるのは僕だけではないと思います。
3 呉三桂 (ごさんけい) (1612年 ~ 1678年)





~権力のために農民を見下し自滅に追い込まれた明の将軍~





 「農民の反乱軍に従うわしではない」

 この一言に、呉三桂の生き方そのものが凝縮されているのではないでしょうか。




 彼は明王朝の歴史に残る有力な将軍でした。




 明の末期に清と戦ったときは、主力軍を率いて北京の北東にある山海関(さんかいかん) を守りぬきました。




 清の時代になってからは平西王として雲南で君臨し、一時は自ら皇帝にもなっています。

 しかしこの呉三桂は、現在でも中国の人々から高く評価されているとはいえません。




 なぜなのでしょうか。




 1644年、約300年続いていた中国の漢民族の王朝、明は滅亡しました。




 最後の皇帝である崇禎帝(すうていてい) は、宮殿の裏山である景山(けいざん) で自殺したのです。




 つき従ったのは、宦官(かんがん) 一人だったといわれています。




 100万人もの農民軍が李自成(りじせい) という農民出身のリーダーに率いられて、明軍に戦いをいどんできたからです。




 崇禎帝は観念して、自ら死を選んだというわけですね。

 ここで、僕が注目したいことが一つあります。




 それは、明軍の兵士たちは誰も李自成の軍と戦わなかったということです。

 それどころか、李自成の軍に参加したのです。




 この事実は、いったい何を意味しているのでしょうか。




 少なくとも崇禎帝は、国民から支持されていなかったということは言えるでしょう。

 さらに一時的ではありますが、このときの国民の代表は李自成だったとも考えられます。




 呉三桂は「反乱軍」 と呼んでいますが、僕は国民の意思を代表した「解放軍」 だったのではないかと考えています。



 さて、このとき明の有力な将軍である呉三桂はどこにいたかというと、首都北京から200km以上も離れた山海関でした。




 中国全体の90%以上を占める漢民族の人々から見れば、異民族の王朝にあたる清の中国侵略を食い止めて戦っていたのです。




 その最中に明が滅んだのでした。




 明を守るために戦っていた彼は、その明王朝自体がなくなってしまったのですから迷いました。

 考えた末の結論はこうでした。




 「清を中国にひき入れて、農民の反乱軍を討つ」




 喜んだのは清軍でした。




 まもなく3代目の皇帝である順治帝(じゅんちてい) が北京に入り、清王朝の中国支配が始まりました。




 李自成の軍は、呉三桂と清の連合軍に討たれて敗れたのです。





 「これで清の天下は定まったな・・・。

  陛下のかたきを討ったが、はたして清軍をひき入れたことがよかったのか、悪かったのか」




 呉三桂は漢民族ではありますが、清の功労者としてそれなりの地位と権力が与えられました。

 しかし、問題はその後です。




 第4代の皇帝・康熙帝(こうきてい) は呉三桂をはじめとする漢人の三つの藩を取りつぶしにかかりました。



 1673年におこった三藩の乱(さんぱんのらん) がこれにあたります。




 呉三桂は、今度は清軍を相手に、明王朝の復活を叫んで戦いを始めたのでした。

 あげくの果てに、戦いの最中に自ら皇帝に即位したのです。




 漢民族の人々の中に、これに反発する人がたくさん出たことは言うまでもありません。

 言葉に尽くせない心労の中で、やがて彼は病死しました。




 結局、誰のための国づくりだったのでしょうか。

 権力に翻弄(ほんろう) された一生だったと思います。




 国民の声を聞き、国民のための国づくりをめざせば、もっと別のやり方があったと考えられます。



 呉三桂の権力志向の背景には、明らかに差別心が見えますね。




 国民の大多数である農民を大切にし、差別心から解放されていれば、このような悲惨な自滅の末路を避けることができたかもしれませんね。