2 シャー・ジャハーン (1592年 ~ 1666年)





~タージマハルで見放され幽閉されたムガール帝国の皇帝~





 世界遺産として有名な、インドのタージマハルの建造者です。

 その巨大な白い大理石の美しさに魅せられて、今も世界中から観光客が絶えません。



 シャー・ジャハーンの内政は、ムガール帝国の最安定期の一つで、インド=イスラム文化の最盛期でもありました。




 外政ではアフマドナガル王国を打倒・併合し、南インドで領土を拡大しています。


 しかし、晩年は8年間も幽閉され、失意のうちに亡くなりました。




 なぜ、このような結末を迎えることになったのでしょうか。




 1628年、シャー・ジャハーンは父の死に伴って、第5代の皇帝として即位しました。

 彼の寵愛を受けた妻は、ムムターズ・マハルといいます。




 14人もの子どもが生まれました。


 彼は彼女を戦場にまで連れて行く愛しようで、一時も離れたくなかったのでしょうか。




 ところが、不幸は突然おこります。




 1630年、14人目の子どもが遠征先のデカン高原で生まれました。

 このときはひどい難産で、出産後37歳のムムターズ・マハルは帰らぬ人となりました。




 死に際してムムターズは、夫に新しい妃をめとらないことを約束してもらい、安心して永遠の眠りにつきました。




 しかし、シャー・ジャハーンの悲しみはあまりにも深く、一夜にして髪が白くなったと伝えられています。




 丸一週間、公の場所に姿を見せず、以前のように音楽を聞くことも、歌うこともしなくなりました。




 そして2年間にわたり、宴を催すこともありませんでした。


 この愛妃ムムターズ・マハル一人のための墓としてつくられたのが、タージマハルですね。




 純愛の深さが伝わるように、世界一の墓をつくろうとしたのです。

 1万頭の象に大理石を運ばせ、世界中から数々の宝石を集めました。




 22年もの歳月と、2万人の労働者を投入して 「大理石の幻」 タージマハルは完成したのです。

 しかし、シャー・ジャハーンに言わせれば、これでも未完成であったことをご存知でしょうか。




 彼の計画では、ヤムナ川を挟んだ対岸に、黒い大理石のもう一つの自分のタージマハルをつくり、2つのタージを橋で結ぶつもりだったのです。




 イスラム教のコーランが言う 「最後の審判」 の日、復活してその廊下を渡り、ムムターズと再会できることを信じたからです。




 すごい構想ですね。

 ここまでやろうとしていたのです。




 いくら費用がかかったのか、詳細はわかりませんが天文学的な数字になり、国全体の財政が傾いたことは言うまでもありません。




 1657年、シャー・ジャハーンが病床に伏すと、反発が現れ、各地で民族蜂起がおこりました。




 後継者を長男のダーラーに指名しましたが、4人の皇子たちが血で血を洗う権力闘争を始めました。



 勝ち残ったのは第3皇子アウラングゼーブで、他の3人はすべて殺されました。




 アウラングゼーブは、死刑に処した長男ダーラーの首をシャー・ジャハーンのもとに送り、その箱を晩餐の場で開封させるなど、残酷な復讐を行いました。




 1658年、アウラングゼーブは帝位を簒奪し、第6代の皇帝に即位しました。

 父のシャー・ジャハーンは、アグラ城の八角の塔の部屋に監禁されました。




 窓からタージマハルを眺め、毎日涙したといいます。




 息子のアウラングゼーブは、恨みの手紙を送ってきたり、宝石を取り上げたりしてさまざまないやがらせをしました。




 その心労は、はかり知れません。




 もしかしたら、息子の父に対するこの仕打ちは、国民の意思を代弁していたのかもしれませんね。




 妻に対する愛情の深さは共感できるにしても、権力の濫用があったことは、国民の立場に立てば行きすぎがあったようですね。




 やはり、権力は国民のために行使されるべきものだということを、改めて痛感するのは僕だけでしょうか。
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1 クロムウェル (1599年 ~ 1658年)





~共和政と独裁の狭間で揺れたイギリス革命の指導者~





 清教徒革命(ピューリタン革命) の中心人物として、中学校や高校の教科書でもおなじみの人物ですね。



 絶対王政を廃止し、共和政を打ち立てた事実はイギリスでも大きなできごとであり、その後の世界史にも大きな影響を及ぼしています。




 同時に、クロムウェルは類(たぐい) まれな指導者か、それとも独裁者か、歴史的評価が分かれているのも事実です。



 大きな業績を残しながら、彼を語る歴史書がそれほど多くないのも不思議だという意見もあります。



 1599年、クロムウェルはイギリス東部のピューリタンであるジェントリ階級の地主の家庭に生まれました。



 日本では関ヶ原の戦いの前年にあたり、これから江戸時代が始まる時期に相当します。




 ケンブリッジ大学で学び、1628年には下院議員になっています。

 その後、治安判事をやったり牧場を経営したりもしました。




 彼の大伯父は、ヘンリー8世のもとで行政改革を実施した実力派の政治家であり、クロムウェルの生家は名家と言われていました。




 当時の国王はチャールズ1世でした。




 かたくなな「王権神授説」 の信奉者です。

 国民とどんな約束を誓ってもそれを守る必要はない、と信じていました。




 だから議会との約束も次から次へと破ったのです。

 これでは国民の代表とは言い難いですね。




 王権神授説は、国王に都合のよい考え方であることは明白です。

 当然のことながら議会を中心に、チャールズ1世への反発が高まっていきました。




 ここでクロムウェルが、歴史の表舞台に登場します。

 1642年、清教徒革命の始まりです。




 国王軍と議会軍の長い戦いになりました。




 クロムウェルは鉄騎隊と名付けられた強力な軍隊を指揮し、新型軍も組織して革命の指導権を握りました。




 ネイズビーの戦いでは、国王チャールズ1世をスコットランドに追い、議会派を勝利に導きました。




 そして1649年、ついにチャールズ1世は処刑されました。


 「イギリス人民はここに王政を廃止し、共和政を打ち立てる」





 クロムウェルのこの高らかな宣言は、歴史的瞬間ですね。

 しかし、アイルランドでは彼の残虐な蛮行が噂されています。





 植民地法も制定して、アイルランドはイギリスの植民地にされました。





 議会内部では、チャールズ1世を処刑した後ろめたさから熱意もさめがちになり、対立、不満も長く続いてなかなか安定しなかったのです。





 1653年、彼は武装して議会に乱入し、議長を椅子から引きずりおろし、強引に議会を解散させました。




 そして、選挙を無視して自分に都合のよい人間を指名して、新たな議会をつくったのです。


 これで共和政といえるのでしょうか。





 さらに「統治法典」 なる新憲法を制定して、その中で最高指導者を「護国卿」 と定め、自ら就任しました。




 イギリスは軍事独裁国家のようになってしまったのです。





 1657年、議会は護国卿に王の称号を送るという提案を出しましたが、軍から激しい反対にあいました。




 そのかわり、護国卿の地位は世襲制とし、黄金の錫(しゃく) を持ち、王者の印である紫を身にまといました。




 クロムウェルは最高権力を手にしたわけですね。

 ロンドン市民は彼に冷淡で、彼をほめる本は売れませんでした。





 娯楽施設の閉鎖などの各種政策も、民衆には不評でした。

 クロムウェルは暗殺を恐れ、転々と寝る場所を変えるようになったのです。





 まさに差別心を背景とする、権力と心労に揺れた典型的な人物ではないでしょうか。


 彼の死後、彼の子どもを最後に護国卿は廃止されます。





 歴史上有名な「王政復古」 です。

 クロムウェルの墓も暴かれています。





 彼はいったい、誰のために権力を行使したのでしょうか。





 イギリス国民が、その答えをはっきりと意思表示していると考えられますね。
11 イブラヒム1世 (1615年 ~ 1648年)






~暗殺の不安からハーレムを荒らしたオスマンの狂人皇帝~






 「狂人イブラヒム」 「オスマンのネロ」 などと呼ばれ、異常な振る舞いが目に余ったオスマン帝国の第18代皇帝です。



 父はアフメト1世、兄にオスマン2世とムラト4世、子にメフメト4世、スレイマン2世、アフメト2世がいる皇族の中の皇族でした。




 イブラヒム1世が皇帝として即位した当初は、慈悲深く貧しい人々を助けることに努めたといわれています。



 それなのに、狂人とまで呼ばれ、30代の若さで亡くなった背景には、いったい何があるのでしょうか。




 1640年、兄ムラト4世の死後、25歳で即位したイブラヒムは、スルタン(皇帝) になっても全く嬉しく思っていませんでした。




 兄の突然の死の悲しみもありましたが、宮殿内に皇帝殺害の陰謀がはびこり、これが怖かったのです。



 いつも絹ひもでくびり殺されるという不安におびえ、やがて神経衰弱の余り精神を病み、帝冠をつけたのは息子が誕生した時ただ一度のみだったといわれています。





 このときの実質上の権力者は、イブラヒムの母親と宰相でした。

 女の園であるハーレムは、厳しく序列化されていたのです。




 スルタンの母親の権力が強く、スルタンの寝室へ誘われるのは、母親が選んだ娘たちでした。

 そしてその娘に妊娠の兆候がなければ、二度とスルタンに会うことはできなかったのです。




 権力支配と女性差別の中で、道具のように扱われ、まるで監獄のようですね。

 すぐにスルタンには新しい娘があてがわれ、同じことを次々にくり返していたのです。




 そして、スルタンが亡くなると、ハーレムの娘たちは「涙の宮殿」 に送られ、一生をそこで過ごしたのでした。




 これでは囚人奴隷ですね。




 このハーレムの厳しい人権侵害の制度の背景には、母親の権力維持があります。

 スルタンが同じ一人の娘に溺れることになれば、母親の権力は危うくなります。




 夜ごとに娘が変われば、それだけ一人の娘に思いをかけることがなくなるので、母親は安泰ということになるわけですね。




 イブラヒム1世はこんなハーレムで、その短い生涯のうち20年間も暮らしていたのです。




 しかし、スルタンの地位をめぐった争いも絶えず、イブラヒムも兄のムラト4世から命をねらわれたことがありました。




 この強烈な不安と心労の中で、イブラヒム1世は自らの不安をまぎらわせるために、ハーレムでセックスに溺れたのでした。




 それも娘たちがいやがるような淫らな体位を強要し、次々に280人もの娘たちに相手をさせました。




 多くの宝石をプールに放り込んでは、ハーレムの女たちが水中で拾い合う様子を眺めて悦に入ったり、1日に24人の女性と性行為に及んだり、宮殿の東屋から、外の道行く人々に矢を射かけて興じたりもしました。





 これでは国民にも大迷惑ですね。


 あぶなくて宮殿には近寄れません。





 人心が遠のいたことはいうまでもありません。





 1648年、イブラヒム1世は突如ハーレムにいた女性たち280人を袋詰めにして、ボスポラス海峡に投げ込むという大事件をおこしました。




 気まぐれで放縦、淫乱、浪費癖に無能なスルタンと噂されてはきましたが、ここにおよんでついに廃位を決定されたのです。





 即位後8年のことでした。





 最後は刑吏の一人に絹ひもで殺害されてしまいました。

 イブラヒム1世やハーレムの女性たちも、権力の犠牲者と考えられます。





 権力とはいったい誰のためにあるのかということを、改めて考えさせられるできごとですね。





 そして本当の自由とは、自分の自由とともに相手の自由も尊重できるものであるべきです。


 そうでなければ、とんでもないことになってしまいます。





 反面教師として学べることがたくさんあるできごとではないでしょうか。
 10 万暦帝 (ばんれきてい) (1563年 ~ 1620年)





~内憂外患の心労に揺れた明の皇帝~





 日本の豊臣秀吉が、朝鮮を侵略したときの明の皇帝です。

 秀吉は明を支配する手始めとして、朝鮮を侵略しようと文禄の役をおこしています。



 これに対して万暦帝は、朝鮮の宗主国として援軍を送りました。

 講和のやり取りも、らちが明きませんでした。



 それは、互いに相手国とその間にある朝鮮を見下した差別者同士の戦いだったからです。



 結論を先に言えば、この戦いで豊臣氏は滅亡を早め、万暦帝もまた明の滅亡を早めるきっかけになりました。



 万暦帝はわずか10歳で即位し、48年間も明の皇帝として君臨していました。

 幼少年期は聡明利発で、将来の大器と期待されていました。



 即位した当初は、張居正 (ちょうきょせい)という優れた宰相がいたので、明は安泰でした。



 無駄な官職の撤廃、税を銀で納める一条鞭法 (いちじょうべんぽう)の導入、全国的な検地、無用な公共事業の廃止などにより明の財政が立て直されました。



 これらの政策は 「張居正の改革」 とよばれています。

 1582年、張居正が亡くなると万暦帝の親政が開始されました。



 とたんに、それまでと一転し堕落した政治が行われます。

 宦官と遊んでばかりで、寵姫の偏愛による立太子問題がおきました。



 1592年には文禄の役がおこって苦戦しています。

 「しかたがない。和平を結んでやるか。



 秀吉殿を明王朝の家臣と認め、日本国王の位を授ける」


 この言葉に、豊臣秀吉が激怒したことは言うまでもありません。




 再び戦争です。

 日本では慶長の役と呼んでいます。




 この戦いの最中に秀吉が病死したので、戦争そのものは終わりました。

 しかし、戦死した明軍の兵士は十数万人、使った費用も莫大で財政がひどい状態になりました。




 「ならば、国民からもっと税をとりたてればよい」

 これが万暦帝の政治です。




 全国に税監とよばれる宦官の徴税官を派遣して、厳しい搾取を行わせました。

 国民にとっては大迷惑な話です。




 だから、反発を受けた税監たちが民衆により殺される事件が度々起きましたが、万暦帝は最後まで廃止しませんでした。




 これはいったい、誰のための政策なのでしょうか。




 万暦帝は政治にあまり関心を持たず、国家財政を無視して個人の蓄財に走りました。

 官僚に欠員が出た場合でも給料を惜しんで、それを補充しないなどということを行いました。




 このために、一時期は閣僚が一人しかいない、あるいは地方長官が規定の半数しかいないなどという異常事態となりました。




 彼の後半生では25年にわたって後宮にこもり、朝政の場には全く姿を現さなかったといわれています。



 僕が北京に行ったとき、明の十三陵にある万暦帝の墓を見て驚きました。


 それは墓というより、「地下宮殿」 というべき豪華なものだったからです。




 1616年、満州のヌルハチが女直諸部族を統一してハン(王) を名のりました。

 後の清王朝の祖にあたる人物ですね。




 それまで明王朝に貢物を捧げていたので、万暦帝は甘く見ていたのでしょう。

 ところが、2年後にそのヌルハチが明に侵入してきたのです。




 「すぐに大軍をさしむけろ! 軍事費が足りないのなら農民どもからさらに税をしぼりとれ!」

 この期に及んでこれでは、農民たちの悲痛な叫び声がさらに大きく聞こえてきそうですね。




 1619年、中国東北部のサルフで両軍は衝突しました。

 この戦いはヌルハチ軍の大勝利に終わったのです。




 権力を大きく傷つけられ脅かされた万暦帝の心労は、言葉では表せないほどだったのではないでしょうか。




 翌年、あっけなく病死しています。


 58歳でした。




 一般民衆から遊離した、差別者の悲しき末路です。




 「明史」 は「明朝は万暦に滅ぶ」 と評しています。