9 メアリ・スチュアート (1542年 ~ 1586年)





~地位と監禁の心労で白髪になったスコットランド女王~





 日本の安土桃山時代に相当するこの時代、イギリスの中南部にあったイングランド王国と北部にあったスコットランド王国は、それぞれ別の国でした。



 メアリ・スチュアートは、スコットランド国王ジェームズ5世の娘として生まれました。




 イングランド王国との血縁もあり、彼女の祖母はテューダー朝の祖、ヘンリー7世の娘だったのです。



 両国の国王の血筋からくるプライドが、生涯メアリを差別心から解放させなかったのではないでしょうか。




 メアリは何と、生後わずか1週間でスコットランド女王になりました。

 父親のジェームズ5世がイングランドと戦って敗れ、囚われの身になってしまったからです。




 赤ちゃんのときから王様だったのですね。




 これでは、国王以外の人間の立場に立つことはむずかしそうですね。

 やがて5歳になるとフランスに渡り、フランス皇太子と婚約させられました。




 後のフランス国王フランソワ2世です。

 自分の意思で相手の男性を選んだのではなく、政略結婚であることは明らかですね。




 メアリの母親はフランス出身だったからです。

 16歳になると、この結婚は正式に成立しました。




 スコットランド王とフランス王が夫婦になったのです。

 しかし、この結婚は長続きしませんでした。




 結婚からわずか1年半後、フランソワ2世が病死してしまったのです。

 メアリは10代で未亡人になりました。




 今の日本でいえば高校生ですね。




 この時点で子どもがいるわけでもなく、自分はスコットランド王なので、フランスに残る理由がなくなりました。




 しかたなく帰国することになったのです。

 スコットランド王国にもどったメアリの再婚相手は、ダーンリー卿といいます。




 イングランド国王の血をひく人物で、待望の子どもも生まれました。


 この子どもが後のスコットランド王ジェームズ6世で、彼はさらに2国の統一後、イギリス王ジェームズ1世になる人物です。




 ところが、この夫婦の関係は冷めてしまい、メアリは愛人をつくります。

 ボズウェル伯爵という人物で、「ある事件」 の後にメアリと結婚します。




 3人目の夫になるわけです。

 この「ある事件」 というのが問題になります。




 それは、ダーンリー卿が城もろとも爆破されて死亡したという事件です。


 犯人はだれか、真相は本人にしかわかりませんが、次のような風評が立ってしまいました。





 「ダーンリー卿を城もろとも吹き飛ばしたのはボズウェル伯爵で、共謀者はメアリだ」

 




 貴族たちは、メアリを捕えて幽閉し、ボズウェル伯爵はスコットランドから永久追放されました。



 メアリは女王の座を退き、息子のジェームズ6世に王位を譲ってイングランドに逃げました。




 イングランド女王エリザベス1世に助けを求めたのです。

 しかし、エリザベス1世もメアリを監禁しました。




 迷惑な主張をされたからです。


 メアリはフランスにいたときから、自分が主張する以下のような立場を変えようとしませんでした。





 「私こそ、イングランド王国の正当な継承者」





 延々とこの状態が続き、19年後、イギリス国教会に反発するカトリック信者が、メアリを擁立してエリザベス1世を暗殺する計画が発覚しました。




 ここに至って、メアリは斬首されたのです。

 44歳でした。




 斬首後の髪をつかんだときにわかったことがあります。

 白い布からあふれんばかりにのぞいていたとび色のメアリの髪は、実はカツラだったのです。




 本当の髪は長年の幽閉生活で、白髪になっていました。

 さらにその白髪も抜け落ち、ところどころ地肌が見える老婆のようになっていました。




 強烈な心労を物語っていますね。




 もっと国民の立場に立って、解放された生き方をすることも可能だったのではないか、と考えるのは僕だけでしょうか。
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8 イワン4世 (1530年 ~ 1584年)





~恐怖政治と錯乱で孤独死したロシア皇帝~





 イワン雷帝(らいてい) ともよばれる強力なツァーリ(皇帝) です。

 ロシアを統一し、皇帝を中心とした国家を作り上げました。




 その大きさは、現在のヨーロッパロシア全体に近いものがあります。

 法律を改正してロシアでは初めて議会を開くなど、意欲的な政治を行いました。




 世界史上でも有名なこの大皇帝は、その一方で残忍な恐怖政治でも知られています。



 病的な癇癪(かんしゃく) 持ちで、これが爆発すると何をするかわからないところがありました。




 イワンは3歳のときに父を失い、7歳のときに母を失って天涯の孤児となりました。

 家臣たちから、よそ者とか乞食のようにあしらわれたのです。




 着るものも食べるものも十分になく、何の自由も与えられませんでした。

 父の持っていた財宝もひとつ残らず奪われ、溶かして金銀の食器にされてしまったのです。




 しかし、この家臣たちも、富と権力の奪い合いで共倒れをしてしまいました。

 この暗い体験の反動が、後のイワンの恐怖政治につながったのでしょう。




 1547年、16歳になったイワンは正式に戴冠しました。

 同年、アナスタシアという女性と結婚しました。




 この妻の助言を得て、比較的賢明に国を治めています。

 幸福な結婚生活の中で、2人の子どもにも恵まれました。




 ところが13年後、妻アナスタシアは原因不明の病気で亡くなってしまったのです。

 イワンは絶望のあまり、狂わんばかりでした。




 葬儀のときは弟と従弟に左右から支えられ、両手で胸を叩いて嗚咽(おえつ) しながら参加しました。



 最愛の妻を失ったイワンは、その後野性が目覚めたかのように女漁りを始めます。


 権力に酔いしれ、貪欲に女体をむさぼり続けました。




 結局、生涯に8人もの妻をめとり、その間、妻の浮気相手を串刺しにして殺したり、「処女でなかった」 ことを理由に妻を溺死させたりもしました。




 8人のうち5人までが、イワン4世に反感を抱く貴族たちによる毒殺で死亡したと噂されています。



 ノブゴロド市民が反乱するという噂を聞いたときは大激怒し、女、子どもでも容赦なく1万5000人を殺しました。




 まさに恐怖政治で、まるで殺人鬼のようですね。




 また、それまで大きな力をもっていた大貴族から土地を取り上げ、皇帝に忠実な下層貴族に分け与えました。



 大貴族たちがイワンのことを「雷帝」 と呼んで恐れたのはこのためです。




 拷問や処刑の現場にわざわざ足を運び、飛び散った犠牲者の血が体にかかると、異様なまでに興奮しました。



 また、ツァーリ(皇帝) の手足となってテロを実行するオプリーチニナ隊も使いました。




 彼らの仕事は、ツァーリへの裏切り、反抗はもちろん、ツァーリの期待に応えない、気分を損ねるなど、ほとんど理由のないものまで含まれていたというからちょっと怖いですね。




 あるとき、長男の嫁の部屋に入ったときのことです。

 たまたま彼女は、だらしない格好でベッドに寝そべっていました。




 イワンは烈火のごとく怒って殴りつけたのです。




 これに対して長男が抗議をしたとたん、イワンは肌身離さず持っていた鉄製の杖で彼も殴りつけました。




 不幸にもその先端には槍がついていたので、長男は即死してしまいました。

 イワンは、実の子どもである皇太子まで殺してしまったのです。




 狂ったようなうめき声、叫び声をあげて後悔しました。




 夜も眠れず、悲しみを忘れようとますます放蕩や暴飲暴食に走ったため、身体はふくれあがり、皮膚がボロボロに剥げ落ちて恐ろしい悪臭がただよいました。




 錯乱のまま世を去った、孤独で哀れな最期でした。




 国民の目線から見れば、彼の生き方はどう映ったでしょうか。




 権力にこだわり過ぎて、自分自身を含めた大切な「家庭」 というものを崩壊させてしまった典型的な例ではないでしょうか。
7 シャルル9世 (1550年 ~ 1574年)





~宗教的権力闘争の犠牲になって狂死したフランス国王~





 「聖バーソロミューの虐殺」 をご存知でしょうか。

 1572年8月24日、深夜1時から始まった世界史上の大事件です。




 約4,000人が次々に殺され、パリのセーヌ川は血で赤く染まりました。

 身体をメッタ刺しにされた者、頭、腕、足、性器を切り取られ泥の中で引きずりまわされた者。




 妊娠中の腹をえぐられ、胎児を引きずり出されて壁に叩きつけられた者。




 目の前で両親を切り刻み、その血の海に裸にされて投げつけられた子どもなど、身の毛もよだつような恐ろしい殺人が行われました。




 このような残酷な事件がおこったのは、いったいなぜなのでしょうか。




 この大量殺人計画を事実上追認し、最終的なゴーサインを出したのは、当時のフランス国王シャルル9世です。




 仕掛けた張本人はその母親、カトリーヌ・ド・メディチです。


 殺された人々はユグノーとよばれる人々でした。




 ユグノーとはカルヴァン派のプロテスタントのことで、つまり、カトリック(旧教) がプロテスタント(新教) を一方的に虐殺したのです。




 同じフランス、同じキリスト教どうしですね。

 イエスが生きていたら、これをどう見たでしょうか、黙ってはいないでしょうね。




 ユグノー戦争とよばれる戦争のさなかではありましたが、背景には権力闘争と身分差別、宗教差別があることは明らかです。




 カトリーヌはイタリア出身で、アンリ2世の王妃でした。

 カトリーヌは絵画などの美術品の収集など、フランス文化の発展に大きな貢献をしています。




 イタリアからフランスに嫁いできたとき、多くの料理人や給仕人が随行し、豪華な料理や食事の作法がフランスにもたらされたのでした。




 それまでは王侯貴族といえども指を使って食事をしていましたが、フォークやスプーンを使うようになったのです。




 しかし、何ら貴族の称号を持っていなかったので、宮廷の貴族たちはカトリーヌを卑しい身分の娘としてさげすみました。




 「成り上がりの者」 「卑しい金貸しの娘」 という言葉を浴びせられたのです。


 明らかな身分差別ですね。




 夫には愛人がいて、自分はなかなか愛されませんでした。

 1559年、アンリ2世が馬上槍試合で事故死すると、権力が転がり込んできたのです。




 シャルル9世はカトリーヌの次男で、国王になったときはわずか9歳でした。

 彼は虚弱で気の弱い性格でした。




 いつもおどおどした臆病な人間で、メリメによれば、次のように報告されています。


 「その顔色は憂鬱で、その大きな碧い眼は決して話し相手を見ることがない」




 彼は、ユグノーの中心人物であるコリニー提督を父親のように慕っていました。




 1572年、カトリーヌは側近の一言に逆上します。

 「ユグノーは政権を奪う陰謀をたくらんでいます」




 シャルル9世の部屋へ行って、ただちにユグノー貴族らの首を切るよう進言したのです。




 「信じられません。しかしその陰謀が本当なら、コリニーらを捕えて堂々と裁判で裁けばいいではありませんか」



 「そんなことをしていては手遅れです」




 何時間も母親に責めたてられたシャルル9世は自暴自棄になり、ついにユグノー撲滅に同意したのです。




 こうして、あの悪夢のような聖バーソロミューの虐殺が始まったのでした。

 シャルル9世はノイローゼになり、夜ごと悪夢に悩まされました。




 最後の息を引きとるまで「血まみれの顔・・・血まみれの顔・・・」 とうわごとを言い、血の汗をかきながら死んだのです。





 このとき24歳の若さでした。


 良心がとがめて、犠牲になったのですね。





 差別が差別をよんでおこった悲劇です。





 カトリーヌとシャルルの母子が、権力欲と差別心からもう少し解放されていたならばどのような展開になったでしょうか。





少なくとも、罪もないたくさんの国民の命を守ることができたのではないでしょうか。
6 ドン・カルロス王子 (1545年 ~ 1568年)





~親の政略結婚の犠牲になって若死にしたスペイン王子~





 「政略結婚」 とは、結婚当事者の親などが自分の利益のために、当事者の意思を無視して結婚させることです。



 あるいは、自分の出世、または経済的利益だけを考えて、有利な配偶者と結婚することをいいます。




 古代から現代まで、数多くの事例がありますね。

 現在の日本でも心当たりはありませんか?




 とりわけ世界史上の中でも、ヨーロッパの名門ハプスブルク家は、この政略結婚が得意技で、広い領地を支配して大きな勢力をもっていました。




 政略結婚でうまくいって幸福になれる場合もありますが、基本的には別の目的のための「道具」 です。



 若い男女にとっては、自分たちの意思を無視されるわけですから、人権侵害がおこりやすく、それに伴う悲劇も数多く発生しています。




 典型的な具体例はスペイン・ハプスブルク家のフェリペ2世であり、その犠牲になったのは長男で王太子のドン・カルロス王子でしょう。




 背景には権力、財力、そして差別心があったことは明白です。




 フェリペ2世といえば、世界各地に広大な植民地を持ち、「太陽の沈まぬ国」 と豪語した、スペインの黄金時代に君臨した国王です。




 フェリペが政略結婚をさせられたのは、16歳のときです。




 お相手は、ポルトガル王女マリア・マヌエラでした。

 彼女もまた16歳で、いとこ同士だったのです。




 現在の日本でいえば、高校1年生の年齢にあたりますね。

 1545年、2人の間に長男として生まれたのがドン・カルロス王子でした。




 マドリードの北西にあるバリャドリードで生まれています。

 ハプスブルク家は王家の純潔を守るために、近親結婚が慣例となっていました。




 「一般の国民とは違うのだ」


 こう言っているような、上から目線の差別心が見え見えですね。




 しかし、このような結婚を代々くり返していると、不幸が訪れやすくなることも医学的にわかっています。



 まず、幼い母のマリアは産後の経過が思わしくなく、すぐに死んでしまいました。




 そして生まれてきた王子も、最初から病的な心身の持ち主だったのです。

 乳母に凶暴に噛みついて、3人もの乳母にひどい傷を負わせました。




 異常なほどに物を食べるのに、どういうわけか成長が遅く、いつまでも片言の言葉しか口にしませんでした。



 動物を引き裂いたり、生きたまま焼き殺したり、ときにはナイフで人を襲ったりもするなど、手に負えない行動が目立ちました。




 残忍さは大人になるにつれてひどくなり、宮廷で若い娘を追いかけまわして乱暴したり、町で美しい娘を見かけると、誰の目も気にせず犯したという話も伝わっています。




 被害妄想が大きく、ベッドにも銃をもって入っていました。

 その寝室は一種の要塞のようになっていて、扉の開閉にも細工がしてあったといいます。




 当時のボヘミア大使の手紙による報告です。

 「カルロスは肩の高さが違い、右足が左足より長く、頭が大きすぎる。




 胸はくぼみ、背中にこぶがある。まるで子どものような愚かしい質問ばかりする。


 高尚なことに興味を示したことがなく、食べることにしか関心がない。




 際限なく食べ続けているので、よくいろいろな病気にかかり、顔色もひどく悪い」




 さすがに父親のフェリペ2世は、素行を改めるよう口を酸っぱくしていさめましたが、かえって逆らうだけでした。




 最後は父に反逆して、ネーデルランドに行こうとして逮捕監禁され、エスコリアル宮殿に幽閉されました。




 そこで23歳という若さで、生涯を終えたのです。




 ドン・カルロス王子の一生は、いったい何だったのでしょうか。




 もっと王室が国民に解放され、国民の立場に立つことができれば、これらの不幸を防ぐことができたのではないでしょうか。
5 エイミー・ロブサート (1532年 ~ 1560年)






~国王と夫の狭間で不審死したイギリスの名門貴族夫人~






 国王とは、イギリスの女王エリザベス1世です。

 夫とは、名門貴族ロバート・ダドリーです。




 不審死とは、ダドリーの妻エイミー・ロブサートが自宅の2階から落下し、首の骨を折って死亡した事件です。




 公式にはこれは事故死として発表されましたが、ほとんどの国民は事故死とは考えませんでした。




 エリザベス1世とダドリーは愛人関係にあり、この2人の意向を受けて、何者かが妻エイミーを暗殺したのではないかといわれています。





 背景には権力と心労、愛欲、財産、差別などが複雑に絡み合っているのではないでしょうか。




 1532年、エイミーはノーフォーク郡の大地主ジョン・ロブサート卿の一人娘として生まれています。




 莫大な資産の相続人でもありました。



 1550年、彼女が18歳のとき、ダドリーと結婚します。





 お相手のダドリーは名家であるノーサンバーランド公爵の息子で、政治的手腕にすぐれ、後にレスター伯爵になった実力者でもありました。





 互いに名門貴族なのですが、権力という点では国王にはかないませんね。

 1560年、女王エリザベス1世とダドリーは熱烈な恋愛関係になります。





 エリザベスは独身ですが、ダドリーは妻帯者。

 つまり、不倫関係になったということです。





 エリザベスは世界史上、あまりにも有名な女王ですね。





 聡明で、国民にも人気がありました。




当時世界最強といわれていたスペインの無敵艦隊を破って、イギリスを世界の中心的国家にしたことはよく知られています。





 生涯独身を通したので、「処女王」 ともよばれました。

 しかしその反面、「好色」 という相反する別の顔ももっていました。





 まず、国王になる前の14歳のときに初体験をします。

 相手は25も年上の養父トーマス・シーモア卿です。





 これも不倫で、シーモア卿の妻により、一時宮殿から追い出されたことがありました。





 25歳で国王になってからは、さらに次々に複数の男性に手を出しました。





中でもロバート・ダドリーとの熱々の関係は公衆の面前でもおかまいなしで、国の内外を問わず広く知られることになったのです。





 エリザベスは一日中ダドリーの部屋に入り浸り、これにはさすがに国民から非難の声が上がりました。





 夜ごとに寝室をともにし、秘かにダドリーの子を妊娠、出産もしています。


 生まれた子はアーサー・ダドリーの名で、ダドリーの「私生児」 として扱われました。





 不適切な男女関係の噂はどんどん広がり、国民だけでなく、外国の大使までもが次のような情報を自国に送っているのです。



「女王とダドリーが、エイミーの殺害を企てている」



 妻のエイミーは毒殺の噂を恐れてうろたえています。

 「神よ、私を絶望からお救いください」





毎日のように祈り、ノイローゼ状態になりました。





 料理も食べる前に、まず飼い犬に投げ与えてみるという用心をしていました。

 同じ年の1560年9月、ついに事件がおこります。





 エイミーを毒殺したのは、エリザベスの信頼厚い医師のロペスだ、という説に説得力があると僕は考えています。





 事件後、ロペスはなぜか処刑されているのです。


 口封じではないでしょうか。





 また、ダドリーは妻が死んでも悲しみを見せる様子もなく、自宅にも駆けつけず、葬儀にも出席しませんでした。





 これで夫婦といえるのでしょうか。





 共同完全犯罪の状況的な証拠はまだたくさんありますが、決定的な証拠がなく、限りなく黒に近い灰色のまま現在に至っています。





 それにしてもエイミーは、死ぬ前に何とかこの地獄のような状態から解放される方法はなかったのでしょうか。





 肩書にこだわった名門貴族の悲しき末路を見るようなできごとですね。





 この事件は、後世に生きる僕たちに何を語りかけているのでしょうか。