4 メアリ1世 (1516年 ~ 1558年)





~宗教弾圧と不幸な結婚に振り回されたイギリス女王~





 ブラディーメアリーというカクテルをご存知でしょうか。

 ウォッカベースにトマトジュースを加え、レモン果汁やタバスコを垂らした赤いカクテルです。




 このブラディーメアリーという名は「血まみれのメアリー」 という意味で、その語源になった人物が、イギリス女王、メアリ1世です。




 国王ヘンリー8世の娘として生まれ、幼いころから特別の王女教育を施され、楽器も弾けばダンスも上手。




 聡明で教養あふれる明るい健康的な少女が、いつのまにか血なまぐさい異名を持つ女王として有名になってしまいました。




 これはいったいなぜなのでしょうか。




 母親はキャサリンという熱心なカトリック信者でした。

 王女として生まれたメアリは、この母親の影響を強く受けていると考えられます。




 しかし、父親のヘンリー8世は王子がほしく、なかなか生まれないので焦っていました。




 1534年、キャサリンは離別させられ、メアリも私生児という扱いにさせられてしまったのです。




 そして母とも引き裂かれ、文通することさえ禁じられてしまいました。

 18歳という感受性の強い時期に、傷つき孤独な日々を送りました。




 ヘンリー8世は男児ほしさに侍女だったアン・ブーリンと結婚しましたが、生まれたのはまたもや女児でした。




 そのアン・ブーリンは、ロンドン塔で処刑されています。




 ちなみにこの女児が、後の有名な女王エリザベス1世です。

 待望の男子が生まれたのは、3番目の妃ジェーン・シーモアのときです。




 1547年、ヘンリー8世が亡くなると、この男子がわずか9歳でエドワード6世として即位しましたが、彼は病弱で6年後にあっけなく死亡しました。




 後を継いだのはイギリス初の女王ジョン・グレイです。




 しかし、この女王はたった9日間で王位から引きずりおろされました。

 メアリによって逮捕され、ロンドン塔で処刑されたのです。




 かくして1553年、女王メアリ1世の誕生です。




 苦労して権力を手にした37歳の独身でした。

 彼女は11歳年下のスペインのフェリペ王子(後のフェリペ2世) に一目ぼれします。




 翌1554年、周囲の反対を押し切って2人は結婚しました。

 しかし、これが悲劇の始まりになるとは思ってもいなかったことでしょう。




 フェリペはがちがちのカトリックだったのです。

 「異教徒たちを放っておいたら、今にとんでもないことになる」




 惚れて一緒になった夫の言葉です。

 メアリは答えました。




 「わかりました。 国王の権限をもって私が何とかいたしましょう」


 「異端禁止法」 を復活させてプロテスタントを徹底的に弾圧したのです。




 この法律自体が差別的ですね。




 改宗を強要し、拒んだ者は容赦なく火刑に処しました。

 その数300人あまりです。




 炎の中で次々に人々が苦しみながら死んでいく、恐るべき地獄のような風景が見えそうですね。

 また、メアリ1世は夫の要求により、外国から金を借りてまでもフランスに軍隊を送りました。




 しかし、失敗に終わったのは明らかです。

 フランス国内にあった領地カレーを失い、多額の借金を抱えることになったからです。




 国民の立場に立てば、これは大迷惑ですね。




 国民の人気を失ったメアリ1世はうろたえ、動揺してしだいにヒステリックになっていきました。



 待望の出産も夢かなわず、想像妊娠で終わってしまいました。

 その後フェリペは帰国し、二度とイギリスには戻りませんでした。




 「私は死ぬのよ。 なのにフェリペは来てくれない。

  国がどうなろうと・・・もうどうでもいいわ」




 1558年11月17日、国民から見放され、夫からも見放されたメアリ1世は、孤独なまま病死しました。




 この結婚は、メアリ本人やイギリス国民にとって、いったい何だったのでしょうか。




 ちなみに、彼女の病死を知ったイギリス国民は、圧政からの解放を大いに喜び、この日を祝日に定めて祝いました。




 この祝日は、いったい何を物語っているのでしょうか。
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3 ヒュッレム・スルタン (1506年 ~ 1558年)





~ハーレムに君臨し後継者で悩み続けたオスマンの帝妃~





 オスマン帝国の最盛期を築き「大帝」 と呼ばれたスレイマン1世の正妃です。



 ヒュッレムは奴隷という絶望的な状態から皇帝の妃にまで登りつめ、後宮であるハーレムを統治する権力を握りました。



 さらに、君主の称号である「スルタン」 を称して、国政に口を出すほどの強い権力を勝ち取った女性です。



 しかし、最後は後継者問題からの心労で病死しています。



 ハーレムという名の「監獄」 の中で、女性差別からは解放されても、自分自身が身分差別をしていたことからは解放されずに、自滅していった女性だったのではないかと考えられます。




 ヒュッレムはロシアの出身です。

 このことから後にロクセラーナとも呼ばれました。



 不幸にも、ロシアの民族抗争に巻き込まれて、敵方に捕えられてしまったのです。

 背景に民族差別があることは容易に想像できますね。



 そして、奴隷としてトルコのイスタンブールに売られてしまいました。

 彼女を買ったのはオスマン帝国の宰相、イブラヒム・パシャでした。



 イブラヒムがヒュッレムをハーレムに入れたところ、その美しさがスレイマン1世の目にとまりました。



 たちまち寵愛を得て、3男1女が生まれたのです。


 そして第2側室という身分になりました。




 その一方で、ヒュッレムはライバルの女性たちを毒殺したり、おとしめて追放したりして、スレイマン1世の寵愛を独占していったのでした。




 たとえば、第1側室と口論になったときは、自ら顔に引っかき傷を作った上でスレイマン1世に呼び出されるように工作をし、皇帝の関心をひくと同時に、第1側室を遠ざけることに成功しています。




 ついに正妃となり、皇帝の政治のアドバイザーとしての役割もできるようになったのです。




 ヴェネツィアのブラガディーノ大使はヒュッレムのことを、「美人ではないが愛想がよく、陽気な性格である」 と評しています。




 しかし同じヴェネツィアのナヴァゲラ大使は「性質のよくない、いわばずる賢い女性である」 と報告しています。




 また、イタリア人のバッサーノは国民の声を記録しています。




 彼は次のように伝えています。




「スレイマン1世のヒュッレムに寄せる愛情と信頼の深さは、すべての国民があきれ返るほどで、スレイマンは魔法にかかったとさえ言われている」




 これだけ愛されたのなら、何でもできそうな気さえしてきますね。

 ところが、後継者については思うようにいきませんでした。




 スレイマンが後継者としたのはヒュッレムが産んだ息子ではなく、別の愛妾が産んだ皇子ムスタファだったのです。



 ムスタファは聡明で人望があり、宰相イブラヒムが擁護していました。




 しかしオスマン帝国では、内部抗争を防ぐために帝位につけなかった皇子たちは処刑されていたのです。




 思わず絶句ですね。


 何と恐ろしい制度でしょう。




 ヒュッレムはまず、反逆の疑いをかけて宰相のイブラヒムを処刑に追い込み、ムスタファを孤立させました。




 そしてムスタファにも反逆罪を着せて、処刑させたのです。




 ここで意外なことがおこります。




 後継者にと目をかけていたヒュッレムの息子ジハンギルは、ムスタファを慕っており、敬愛する兄の死にショックを受けて自殺してしまったのです。




 ヒュッレムの心労はどれほどのものだったでしょうか。

 やがてこれが原因で病に伏せ、病死してしまいました。




 ハーレムの数多くの女性たちや生れた皇子たちは、奴隷や処刑など強烈な人権侵害を受けていたことは明白ですね。




 ヒュッレムはこの絶望的な環境の中でも、大きな権力を握っています。




 しかし、少しでも他の女性たちの自由や皇子たちの命を考える提言や活動をすることができたなら、どうだったでしょうか。

 このような悲劇を防ぐことができたかもしれない、と考えるのは僕だけでしょうか。
2 コロンブス (1451年 ~ 1506年)





~富と権威を手にして失政で見放されたイタリアの探検家~





 小学生や中学生にも広く知られている、世界史上の有名人ですね。



 勇気あるすぐれた探検家として、当時誰もが怖がってやらなかった、大西洋横断という偉業を成し遂げました。



 彼がヨーロッパにもたらした最大の収穫は、ジャガイモとトウモロコシです。

 飢饉(ききん) のときに、多くの人々を飢えから救うことができました。




 しかし、この偉人の姿はヨーロッパ側から見たもので、視点を変え、立ち位置を変えてみると意外な姿が浮かび上がってきます。




 まず、なぜかコロンブスは自分の出身、経歴を語ろうとしませんでした。




 一説によると、祖先がユダヤ系のスペイン人の移民で、イタリアのジェノバで生まれ、迫害を恐れたために語らなかったといいます。




 僕も何らかの被差別の立場にあったのではないかという想像はできますが、その他にも諸説があり真相は不明です。




 彼がねらったのは、インドのスパイスとジパングの黄金です。


 ジパングとは日本のことですね。




 マルコ・ポーロによって、すでに僕たちの日本は黄金の国「ジパング」 としてヨーロッパに紹介されていました。




 JAPAN(ジャパン) の語源でもあります。




 当時のヨーロッパではスパイスは必需品でした。

 冷蔵庫というものがまだなく、平均して日本人の4倍にも達する肉の摂取量です。




 肉の保存にはなくてはならないものだったのですね。

 だからインドは魅力的なのです。




 トスカネリの地球球体説を信じました。

 「大西洋を西へ西へと向かえば、地球を一周しながらインドやジパングに行ける」




 ところが、ポルトガルのジョアン2世に援助を進言しましたが拒否されてしまいました。




 それでもあきらめません。

 ポルトガルがだめなら隣のスペインです。




 1486年、イサベラ女王と3度も面会して、やっと航海の実施を認めてもらいました。

 このときコロンブスが示した条件は、以下の通りです。




「世襲制としての提督の地位、あるいは終身職として副王にして提督の地位、新しく発見された地域から得られる利益の10分の1を得る」




 これがコロンブスの目的ですね。


 相当な強気です。




 1492年、ついに新しい土地を発見し、一方的に植民地にしました。




 彼が死ぬまでインドの一部だと思っていたこの土地は、アメリカ大陸とその近くの島々だったのです。



 先住民が今でもインディアン、インディオなどと呼ばれるのは、このときのコロンブスのまちがいによるものです。




 島々も、西インド諸島と呼ばれています。

 しかし、先住民の立場に立てば、これは発見ではなく侵略でしょう。




 現在のドミニカとハイチがあるエスパニョーラ島は、コロンブスが統治しています。




 ところが、当初300~400万人だった島の人口は、3年間でわずか100万人に激減しているのです。




 この数字はいったい何を物語っているのでしょうか。




 強制労働で生き残った者は容赦なく捕え、奴隷にして本国に送り返してもいます。

 先住民の人々の、心の底からの悲痛な叫び声が聞こえてきそうですね。




 彼らにとって、コロンブスの大航海とはいったい何だったのでしょうか。

 結局、スパイスや黄金は見つかりませんでした。




 梅毒というありがたくない病気がヨーロッパにもたらされたのもこのときです。

 1500年、スペイン王室はついにコロンブスの逮捕に踏み切ります。




 罪状は次のようなものでした。

「船員に対する過重労働強制、先住民に対する不当な戦争を仕掛けた」




 彼の栄光は一時的なものでした。




 その後、再び航海を認めてもらったものの成果が出ず、最後は王への目通りも許されなくなり、失意のどん底の中で心臓病で亡くなりました。




 この逮捕、失意の根本的な原因は、差別心にありますね。




 まちがいなく言えることは、イタリア人もスペイン人もアメリカの先住民も、みんな同じ人間であるということです。
 



 コロンブスが差別心から解放され、アメリカの先住民たちに敬意をもって、対等な人間として付き合っていれば、もっと明るい違った世界が開けたのではないでしょうか。
1 エリザベス王太后 (1466年 ~ 1503年)






~権力への暗躍から監禁されて死んだイギリス王妃~






 最初に、わかりやすく概略を書きます。




 ある王妃が、自分の幼い子どもを次の国王にするためにハンデを克服してライバルを蹴落とそうとします。



 失敗して、ライバルに対する別の対抗馬を準備しますが、何とこの対抗馬は、子どももライバルも両方とも殺し、自分自身が国王になってしまったのです。




 このいきさつを知る王妃は邪魔者にされ、口封じのために監禁。

 不幸にもそこで一生を終えたというできごとです。




 まさに権力、心労、差別が渦巻く世界ですね。


 「ある王妃」 とは、エリザベス王太后です。




 イギリスの歴史上、同じような名前が多数登場して混乱しやすいので、僕はあえて「エリザベス王太后」 で統一して使います。




 彼女は1464年、イギリス・ヨーク朝の初代の国王エドワード4世に迎えられた王妃でした。




 「ハンデ」 とは何かというと、夫のエドワード4世はすでにエリナーという女性と結婚していたことです。




 重婚ですね。

 この国王はよく女性に手を出したそうです。




 さらにエリザベス王太后の子どもは、次のように吹聴されたのでした。

「名も知れぬ別の男との間にできた非嫡出子で、王位継承権はない」




 議会は子どもではなく、エドワード4世の弟の王位継承権を議決しました。




 この弟は「ライバル」 になります。

 このライバルこそ、シェークスピアの戯曲で知られるリチャード3世です。




 エリザベス王太后は自分の子どもを国王にしたいので、自分の兄を使ってリチャード3世を亡きものにしようと暗躍しますが失敗します。




 それでもあきらめせん。

 今度は別の対抗馬を準備してリチャード3世を引きずり降ろそうとしました。




 「別の対抗馬」 とは、ヘンリー・テユーダーという男で、準備とは、エリザベス王太后が自分の娘をヘンリーと結婚させたことです。




 ところが、ヘンリーはエリザベス王太后の予期もしない行動に出ます。




 ティレルという男に命じて王太后の子どもを殺害し、その後、口封じのためにティレルも巧みに処刑したのです。




 子どもの白骨化した遺体は、200年たってロンドン塔で発見されたのでした。





 1485年、ボズワースの戦いがおこります。




 すでに国王になっていたリチャード3世にヘンリー・テユーダーが反乱をおこし、勝利したのでした。




 もっとも、どちらが勝っても国民には迷惑ですが。




 戦死したリチャード3世の王冠は草むらに転げ落ち、ヘンリー・テユーダーはそれをかぶって、血のボズワース・フィールドで王位を宣言しました。




 新国王ヘンリー7世と、新王朝テユーダー朝の誕生です。




 後に、シェークスピアは作品の中で、リチャード3世のことを、ロンドン塔で子どもを殺して「王位を簒奪した悪王」 と表現していますが、これは史実ではないでしょう。




 テユーダー朝を正当化するための作り話と考えるのが自然だと僕は考えています。




 さて、晴れて国王になったヘンリー7世にとっては、最後に始末しなければならない人物があと一人だけ残っています。





 もうおわかりですね。


 エリザベス王太后です。





 前王リチャード3世への造反を画策したのは彼女であり、一部始終を知っている可能性が濃厚です。




 しかし、彼女の子どもは実際には殺されていますが、当時としては行方不明になっており、何を言い出すかわかりません。





 だから、監禁されたのです。


 黙っていてくれさえすればいいわけです。





 エリザベス王太后は悔やんでも悔やみきれない思いで、監禁されたまま30代の若さで亡くなります。




 自由を失い、愛する子どもを失い、言葉では言い尽くせない心労だったことでしょう。





 彼女が権力とその背景にある差別心からもっと解放されていたのなら、どんなちがった人生を送ることができたでしょうか。