8 万貴妃 (ばんきひ) (1428? ~ 1487年)





~嫉妬と毒殺からノイローゼになった明の帝妃~





 皇帝の妻妾どうしに、も多くの身分差別がありました。

 その中で「貴妃」 というのは最高の位です。




 中国では、唐の時代の初期につくられた制度でした。

 中でも玄宗皇帝に愛された楊貴妃は、特によく知られていますね。




 明(みん) の時代になってもこの制度は延々と続いており、第9代の皇帝、成化帝(せいかてい) の寵愛を受けたのが万貴妃でした。




 成化帝より17歳も年上で、太っていて声が大きい男性的な女性でした。




 それでも夫である皇帝はこの妻が大好きで、「彼女といれば心が落ちつく」 と言って、深く愛したのでした。



 万貴妃は4歳のときに、成化帝の祖父の皇后の宮女として仕えました。




 後の夫との年齢差を考えると、まだ成化帝は生まれていませんね。

 夫よりも長く宮中で暮らしていたことになります。




 彼女が20代のときにあたる1449年、「土木の変」 が起こりました。




 これは、成化帝の父にあたる正統帝が、北部の遊牧民族オイラートと戦ったときに捕えられて捕虜にされてしまった事件として、高校世界史の教科書でも紹介されています。




 叔父の景秦帝(けいたいてい) を皇帝に立てて対応しましたが、明王朝も多難な時代が始まろうとしていたのですね。



 万貴妃が成化帝の寵愛を受けて貴妃になると、意のままに政治を動かす強力な権力を発揮する存在になりました。



 その背景には、夫は気が弱く、骨董趣味にふけって大臣との接見を好まなかったという事実もあったのです。



 彼女は宝石に異常な興味を示し、宦官(かんがん) たちと結託して宝石を得るためにさまざまな賄賂をとったといわれています。




 1466年、成化帝との間に待望の男子が誕生しました。

 ところが、不幸にもこの子はわずか1か月ほどで亡くなってしまったのです。




 彼女はすでに40歳ほどで、その後の妊娠はありませんでした。

 これが万貴妃の人生の転機になったのです。




 恐ろしいことが始まりました。




 他の若い妃や女官たちが妊娠すると、宦官を使って次々に堕胎をさせたのです。




 この権力をもとにする嫉妬に狂った暴挙の背景には、他人を見下す差別心があったことは明白ですね。



 夫の成化帝は、自分の子どもが片っぱしから殺されているという事実を知らされておらず、自分は「タネ無し」 だと思いこんで悩んでいました。




 儒教の価値観では、「タネ無し」 は体の一部に欠陥があるという不具扱いをされるからです。




 しかし、これでは明王朝そのものが困ることになりますね。

 さすがにいつまでもこんな嫉妬のための殺人を、心ある家臣たちが許すはずもありません。




 1470年、ある妃が生んだ子どもが、家臣たちに守られて極秘に育てられました。

 この子どもが成化帝の子であることが公表されたのは、1475年です。




 万貴妃はすかさず、得意の殺人の刃を放ちました。




 まず、生んだ妃を毒殺して始末しました。

 次いでこの子も毒殺しようとしましたが、これには失敗しました。




 食事を与えようとしたところ、拒否されたのです。

 難を逃れた子どもは後に成長し、弘治帝(こうちてい) という皇帝になりました。




 逆に子ども殺しを重ねてきた万貴妃は、大きな不安にさらされることになりました。


 「いつかこの子が成長し帝位を継いだなら、自分は始末されるに違いない」




 そう考えて悩み続けた彼女は、ついにノイローゼ状態になってしまいました。

 自分でまいた種とはいえ、自滅を招くことになります。




 この心労が原因で、万貴妃は病死してしまったのです。

 同年、成化帝も後を追うように亡くなりました。




 国民の視点から見れば、もっと別なことに力を入れてほしかったですね。



 万貴妃が差別意識から解放されていれば、本人も国民も、もう少し違った人生を送ることができたのではないでしょうか。
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7 洪武帝 (1328 ~ 1398年)





~権力と猜疑心から孤独死した明の太祖~





 国民の大多数である農民の苦しみをよく理解し、多くの人々から支持されたにもかかわらず、最期は孤独死してしまった皇帝がいます。



 明(みん) の太祖、洪武帝ですね。



 彼は賢明な妻にも恵まれました。

 妻の馬皇后(まこうごう) は明を陰から支えた賢い女性として知られています。




 洪武帝自身も貧しい農民の出身でしたので、彼らの立場に立った行動をとることができました。

 それなのに、なぜ不幸な晩年を迎えることになってしまったのでしょうか。




 本名は朱重八(しゅじゅうはち) といいます。

 四男二女の末っ子でした。




 1344年、この貧しい農家をイナゴの害が襲いました。

 両親と兄弟の多くを失い、生き残ったのは次兄と重八の二人だけだったのです。




 兄の足手まといにならないように寺に入り、雲水(うんすい) として諸国を行脚しました。

 このとき彼はまだ16歳でした。




 1351年、仏教の一派である白蓮(びゃくれん) 教徒たちが中心になって、紅巾(こうきん) の乱がおこりました。




 元王朝に対する反乱で、仲間の目印に頭に赤い頭巾を巻いていました。




 後漢の黄巾の乱と似ていますね。

 朱重八は紅巾の乱に参加するために、郭子興(かくしこう) の軍に入ったのです。




 みるみる頭角を現し、1年とたたないうちに郭に認められ、その養女と結婚しました。

 これが後の馬皇后で、重八も名を朱元璋(しゅげんしょう) と改めました。




 1355年、郭子興が病死し、その後は軍の中心になって活動しました。



 他のライバルたちを次々に滅ぼし、ついに1368年、応天府(現在の南京) で皇帝として即位しました。



 ここに明の太祖、洪武帝が誕生したのでした。

 年齢は41歳です。




 その年、元の都である大都(現在の北京) を落とし、元を北方へ追いやったのです。

 中国全土の統一まではその後20年かかりましたが、久々の漢民族の王朝が成立しました。




 明は約300年続いた強大な王朝で、日本の室町時代から江戸時代の初期までに該当します。




 「農民たちの生活を安定させるのだ。

 きびしい取り立てをしてはいけない。




 農民の苦しみは、私が一番よく知っているからな」




 国民の立場に立てば、何とありがたい皇帝でしょう。

 さらに洪武帝は、農民の道徳教育にも力を尽くしました。




 ところが、自分の直属の部下たちや、支配者階級の知識人たちには極めてきびしくあたりました。



 特に自分の権力を脅かす噂が立った者は、些細なことでも次々に処刑し、残酷な殺し方をしました。



 身体の一部を少しずつ時間をかけて切り刻んでいく凌遅(りょうち) の刑などは、受刑者が長く苦しむ残忍を極めるものとして知られています。




 建国の功臣である胡惟庸(こいよう) や藍玉(らんぎょく) をはじめとして、その犠牲者は実に10万人を超えました。




 まさに恐るべき殺人鬼ですね。




 妻と皇太子にも病気で先立たれています。

 愛妻の馬皇后は病に倒れたとき、名医が来ても診察を断り、薬も飲まずに死にました。




 これには理由があります。




 もし治らなければその医者が殺されるので、医者に診せなかったのです。

 日ごろより洪武帝の残虐さを諫(いさ) めていた皇后の最期の思いやりだったのでした。




 妻と皇太子の墓に参拝しては、一人で涙を流す日が多くなりました。




 「王朝の基礎はゆるぎないものになった。

  しかし・・・ああ・・・



 いつのまにか、みんないなくなってしまった。

 今や私は一人ぼっちだ」




 猜疑心が招いた悲劇ですね。




 権力を握れば握るほど猜疑心に悩まされ、無実の人々もことごとく殺しつくしました。





 自らの差別意識に気づき、そこから解放されていれば、洪武帝の最期の到達点、「孤独死」 は防げたのではないでしょうか。




 精神的な解放で、もっと豊かな人生を送る手立てがあったと僕は考えています。
6 フィリップ4世 (1268 ~ 1314年)





~教会支配の闘争から衰弱死したフランス国王~





 中世フランス最強の国王ではないでしょうか。

 国家財政を整え、ローマ教皇を意のままに操り、強敵テンプル騎士団を壊滅させています。




 絶対的な権力を追求した国王で、その中央集権ぶりは、後のヨーロッパ絶対王政への先駆になったと考えられます。




 その整った容貌から美男王、端麗王、美貌王などとも呼ばれていました。




 しかし、国王以外の者が権力を欲しいままにすることを断じて許さなかった彼も、最期は原因不明の衰弱死をしています。




 なぜでしょうか。




 1285年、フィリップ4世は17歳の若さでフランス・カペー朝の第11代国王に即位します。



 当時のローマ教皇、ボニファティウス8世が野心家なら、フィリップ4世も負けず劣らずの野心家でした。




 教皇とは権力をめぐって激しく衝突し、アナーニ事件で監禁して暴力を振るい、その後憤死させています。




 この直前の1302年に開かれた三部会には、特筆することがあります。

 それまで聖職者と貴族だけの会議だったのですが、新しく市民を参加させたのです。





 まだ対等な会議ではありませんが、フランス社会が大きく変わり始めるきっかけを作ることになりました。




 いわゆる国会で、平民が発言できることになった最初の議会です。




 1309年、フィリップ4世は教皇クレメンス5世に迫り、教皇庁を南フランスのアヴィニョンに強制的に移しました。




 以後約70年間、ローマ教皇はフランス王の意のままに操られることになります。





 このできごとは、高校世界史の教科書で「教皇のバビロン捕囚」 という言葉で紹介されています。




 これは、紀元前6世紀におこった事件になぞらえた呼び方です。




 新バビロニア王国のネブカドネザル2世がユダ王国を滅ぼし、ユダヤ民族の人々をむりやり新バビロニア王国の首都バビロンに連れて行ったことを「バビロン捕囚」 と呼んでいたのです。





 本来は十字軍保護のために結成されていた「テンプル騎士団」 にも、フィリップ4世は刃を放ちます。




 彼の指示を受けた教皇クレメンス5世によって、多くのテンプル騎士団員が処刑されはじめました。




 1314年、最後の総長モレーも火刑に処せられたのでした。




 「我らの正義は神によって明らかになる。

 仇(あだ) なす者に災いあれ」




 モレーはこう叫び、王と教皇を呪いながら燃えさかる火の中に消えていったのです。




 時代は中世です。

 当時の人々は呪いを噂し、恐れおののいていました。




 この国民の声は、フィリップ4世にも容易に届いたことでしょう。




 結論を先に言えば、33日後にクレメンス5世が、7か月後にはフィリップ4世が死を迎えることになったのです。




 フィリップ4世は狩りの最中だったといいますが、原因不明の衰弱死でした。




 「余は呪われている」

心労に満ちたうわごとを言いながら、世を去ったのです。




 強気の国王も、たくさんの人々から恨みを買ったことに対する心労が、何らかの形で影響していることは想像に難くありませんね。




 戦いには強かったけれど、やはり彼の生き方の背景には人を見下す「差別心」 が見え隠れしていると感じるのは僕だけでしょうか。




 権力争いに勝利し、ライバルになった宗教的権力者を次々に闇に葬ったフィリップ4世。




 国民の目線から見れば、たくましさを感じる半面、何もそこまでやる必要があったのだろうか、という疑問も出ていたのではないかと思います。




 彼は50歳まで生きていません。




 彼の精神がもう少し解放されたものであったならば、うわごとを言いながらの衰弱死を避けることができたのかも知れませんね。
5 ボニファティウス8世 (1235? ~ 1303年)





~出世後監禁されて憤死したローマ教皇~





 一度権威を得ると、それがなくなってもなかなか認めようとしない人は、現代の世の中にもたくさんいますね。




 変化に気づかず、権威が失われていく空気を読めない人たちです。


 世界史上では、この代表的な例が十字軍失敗後のローマ教皇でしょう。




 権力闘争を勝ち抜き、念願のカトリック教会の最高責任者である教皇に「出世」 しましたが、なおも旧態依然の権威を主張した人がいます。




 そして、最終的に痛い目にあい、辱められたのがボニファティウス8世です。

 彼はローマ南東にあるアナーニの名門、カエターニ家の出身です。




 1294年、教皇ケレスティヌス5世が即位しましたが、教皇はまもなく「いじめ」 に遭います。


 カエターニ枢機卿が部下に命じて、教皇の部屋まで伝声管を引かせ、夜な夜な自らささやいたのでした。




 「直ちに教皇を辞し、隠者の生活に戻れ」




 毎晩のように悩まされ、不眠と神経衰弱になってしまったケレスティヌス5世は教皇を辞し、代わってカエターニ枢機卿が新しい教皇に就任したのでした。




 これがボニファティウス8世誕生の瞬間です。




 「イエスはわれらと同じただの人よ。

  わが身さえよう救わなんだ男が、他人のために何をしてくれようぞ」




 これをイエスが聞いたら黙っていないでしょうね。




 ボニファティウス8世は敬虔な信者から悩みを打ち明けられても、平気でこのようなことを言いました。



 美食や華美を好み、宝石をちりばめた衣服、金銀の宝飾品、賭博も大好きで、教皇庁はカジノと化しました。



 あげくの果てに精力絶倫で、夜な夜な怪しげな男女が出入りするという始末。




 彼はいったい何のために教皇になったのか、疑問に思えてしまいますね。

 これではますます教皇の権威が失われていくのも、納得できるような言動です。




 あくまでも自分が時代の主役だ、と考えていたのですね。

 僕がこのときの信者の一人だったら、迷わずボニファティウス8世を見放していたと思います。




 1304年、彼は教皇回勅を発して主張しました。

 「教皇の権威は、地上のあらゆる権力に優越する」

 


 信者の心と、時代の空気が読めていませんね。

 次いで回勅を発し、フランス王フィリップ4世に教皇の命に従うように促したのでした。




 フィリップ4世はパリのノートルダムに聖職者、貴族、平民の代表からなる三部会を召集しました。



 三部会は王を支持し、教皇の要求を突っぱねました。




 ボニファティウス8世は怒ってフィリップ4世を破門にしましたが、フィリップも「悪徳教皇弾劾の公会議」 を開くよう要請して、破門に屈しませんでした。




 このことは、すでに教皇の信頼が地に落ちていることを証明している出来事ですね。



 1303年、ついに「アナーニ事件」 がおこります。



 フィリップ4世は腹心のノガレとコロンナを、教皇が滞在していたアナーニの別荘に派遣しました。




 ノガレとコロンナは深夜に教皇御座所に忍び込み、ボニファティウス8世の退位を迫り、弾劾の公会議に出席するよう求めました。



 教皇が「余の首を持って行け」 と平然と言い放って拒否すると、2人は彼の顔を殴り、教皇の三重冠と祭服を奪ったのです。



 そして、救出されるまで3日間監禁しました。


 耐えがたい屈辱だったことでしょう。




 そのまま2週間後に、息絶えることになりました。



 高齢と長年の不摂生で腎臓を患っていたこともありますが、人々は彼の死を「憤死」 と呼びました。




 それは、死ぬ間際まで呪詛の言葉を吐いていたからです。


 出世と権力に取りつかれすぎた男の末路が、ここにも見えますね。





 差別意識から解放され、もっと信者を大切に、信者とともに生きれば、アナーニ事件は防げたのではないでしょうか。