4 光 宗 (こうそう) (1147年 ~ 1200年)




~残虐な妻から病に倒れた南宋の皇帝~




 南宋王朝は、約150年にわたって、中国の南半分を支配した王朝です。

 日本では平清盛や源頼朝が活躍した、平安時代の後期から鎌倉時代のはじめにあたります。



 この南宋の第3代皇帝が光宗です。



 皇帝として在位したのはわずか5年ほどですが、父に頭が上がらず、妻にも頭が上がらず、あげくの果てに、部下たちによって廃位された悲劇の皇帝です。



 病弱で暗愚だったといわれていますが、結局、心労で病に倒れています。



 直接の原因は嫉妬深い妻の残虐な行動ですが、それにしても、もう少し何とかならなかったのだろうかと考えさせられます。




 1147年、光宗は南宋の皇帝の子として生まれ、89年に父の譲位を受けて、順当に即位しています。



 しかし、父親は健在で、政治の実権は上皇となった父が掌握していました。




 妻の李皇后(りこうごう) は非常に美しい人でしたが、異常なほど嫉妬深く、気性が荒かったので周囲の者からも嫌われていました。




 今日でいう人権侵害に当たるような行動が頻発し、上皇となった父親でさえこの結婚は失敗だったと考えていました。




 あるとき、光宗が手を洗おうとすると、一人の女官が水を入れた盆を差し出しました。

 彼女の手を見た光宗は思わず「きれいな手だな」 とつぶやいたのです。




 この一言が、とんでもない事件に発展します。




 あくる朝、光宗の食卓に届いた一つの器のふたを開けると、そこには血まみれの両手がのせられていたのです。




 おわかりですね。




 犯人は李皇后です。

 宦官を通して、光宗の一言が李皇后に報告されていたのです。




 恐るべき嫉妬心ですね。




 罪もない女官にこんな仕打ちが許されてよいものでしょうか。

 詳細は伝わってきませんが、この事件を国民はどう見ていたのでしょうか。




 人権感覚の欠如を絵に描いたような出来事です。

 恐ろしくて皇室には近寄りたくない、と思うのが自然でしょう。




 その後、光宗は決して女性をほめたり、視線を送ることをしなくなりました。

 これでは妻の残虐な行動が、正当化されてしまいますね。




 上皇になっていた光宗の父親が病に倒れたときです。




 李皇后は光宗に「今日は寒いから、外出はお控えください」 といって、見舞いのための外出をさせませんでした。




 見かねた役人の一人が「お見舞いに行かなくてはなりません」 と忠言すると「お前は殺されたいのか」 と李皇后が一喝したといいます。




 単なる自分の力を示すためなのか、上皇の死を待っているのか、あるいは自分の権力のためになくてはならない光宗を守るためなのか、定かではありません。




 いずれにせよ、この激しい口調では、うっかり意見も言えなくなってしまいますね。




 光宗には、皇太子時代に父から与えられた愛妾がいました。

 黄貴妃といいます。




 1194年、上皇が死去すると、李皇后は光宗の外出中に黄貴妃を殺害しました。

 帰って来た光宗には、素知らぬ顔で病死したと嘘の報告をしています。




 これを知った彼は、あまりの衝撃で病気になってしまいました。

 ショックで食事ものどを通らず、しだいに痩せこけていきました。




 度重なる心労で、体調を大きく崩さざるを得ない状態に追い込まれたのでした。




 そんな中で、部下たちは光宗の廃位を決定し、その子どもである寧宋(ねいそう) を後継者に立てます。




 以後は一切の政治とは離れ、1200年に54歳で亡くなりました。


 いったい何のための皇帝だったのでしょうか。




 本人にしかわかりませんが、一般民衆の目からは、どう見ても充実した納得できた人生には見えませんね。




 もっと地位や権力から解放されて、主体的に行動していれば、全く違った生き方ができたのではないでしょうか。
スポンサーサイト
3 ヘンリー2世 (1133年 ~ 1189年)





~家族と教会を敵にして悩み続けたイギリス王~





 イギリスのプランタジネット朝初代の国王です。



 プランタジネット朝というのは、日本でいう平安時代後期に、ノルマン朝に続いて2番目に成立した王朝です。




 イギリスだけでなく、フランスにも広大な領地を保有し、特にフランスの領地は「アンジュー帝国」 とまで呼ばれていました。




 ヘンリー2世は常に広大な領土に目を光らせており、頻繁に領土の各地を訪れていました。




 国中の修道院には、いつでも使用できる馬を用意しておくよう命じておいたのです。

 だから、34年の治世のうちイギリスにいたのはわずか13年でした。




 法律をきちんと整え、税を課し、従わない男爵の居城は破壊して屈服させました。




 強力な国王という一面もありますが、彼の最期は心労とショックによる憤死である、と僕は考えています。





 なぜでしょうか。





 ヘンリー2世の母親は、ノルマン朝最後の王の娘で、父親はフランスの大貴族アンジュー伯でした。




 さらに彼の妻は、フランス王ルイ7世の妃だったので、相続分の領地もありました。




 これらの親族のおかげで、フランスのノルマンジーからピレネー、南フランスに至る広大な所領をもったのです。




 しかしイングランドと違って、大陸の所領はすべて名目上はフランス王のものでした。

 その限りでは、フランス王の家臣でもあったのです。




 これが、後の百年戦争の遠因になったといわれています。

 彼は、法律の制定を通した権力の行使には積極的でした。




 1162年、事件がおこります。



 クラレンドン法という法律をめぐって、ヘンリー2世はイギリスのカンタベリー大司教ベケットと対立しました。




 それまでは、聖職者の問題は聖職者で裁かれていましたが、この法律は国王が介入することを認めるものです。




 ベケットは断じてこれを認めず、フランスに亡命しました。

 イギリスにもどってきたのは6年後です。




 ヘンリー2世は怒鳴りました。

 「誰がこの厄介者を始末してくれるのか」




 4人の騎士たちが素早く動きました。

 論功行賞を早のみ込みしたのです。




 カンタベリーに向かい、ベケットを惨殺してしまいました。




 ローマ教皇カリクストゥス3世は、異例の早さでベケットを列聖し、以後、カンタベリー大聖堂は巡礼地になりました。




 こうなると、ヘンリー2世はすべてのキリスト教徒の「敵」 ということになってしまいますね。

 当時のイギリス国民は、このできごとをどう見ていたのでしょうか。




 眉をひそめていたのではないでしょうか。

 さすがに焦ったのでしょう。




 ヘンリー2世は懺悔(ざんげ) 服を着て裸足になって、3日かけてロンドンからカンタベリーまで行きました。




 血まみれの足を引きずりながら、大聖堂に到着はしたものの、80人の聖職者たちから罰の鞭打ちを受けています。




 国王の権威が、地に落ちてしまったのです。




 長男のリチャード(後の獅子心王) は、所領を父ヘンリー2世から取り上げられたことで、反乱をおこしました。




 末っ子のジョン(後の欠地王) だけは可愛がっていたのですが、そのジョンも反乱軍に加担しています。




 裏切り者たちの名簿の中に、ジョンの名前を見つけたヘンリー2世は、逆上して出血し、そのまま死んでしまいました。




 言葉では言い尽くせないような心労が伝わってきますね。




 国民の立場に立てば、もっと国民の生活に目を向けてください、と言いたいところでしょうか。

 あまりにもみじめで、孤独な死に方になってしまいましたね。




 権力にとらわれすぎた男の末路です。




 その背景には、強烈な差別心が見え隠れしています。




 彼がもう少し解放された生き方をすれば、少なくとも憤死という死に方だけは避けることができたのではないでしょうか。
2 ハインリヒ4世 (1050年 ~ 1106年)





~権力闘争で子どもたちから見放された神聖ローマ皇帝~





 「叙任権闘争」 と呼ばれる権力争いがありました。

 「キリスト教会の聖職者の任命権は誰にあるのか」 という争いです。




 「カノッサの屈辱」 でローマ教皇グレゴリウス7世が勝ったかに見えましたが、その後ハインリヒ4世が雪辱を果たし、グレゴリウス7世をローマから追放しました。




 ところが、これで終わりではなかったのです。




 気がついたら、今度はハインリヒ4世が別の人物により都を追放されて、その追放先で客死してしまいました。




 歴史はくり返しますね。




 1050年、ハインリヒはドイツ中部のゴスラーで生まれました。

 父親は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世です。




 父が早く亡くなったので、ハインリヒ4世は6歳にして王冠を授けられたのでした。


 この年齢では 、諸侯は従いませんね。




 教育も事実上放置され、彼のわがままで頑固な性格は、この時期に形成されたといわれています。




 教皇も圧力をかけてくるし、妻は教皇側に縁のある女性を押しつけられた格好になりました。




 嫌がったハインリヒは離婚を希望し、他にもたくさんの女性に手を出しましたが、意外にもこの妻が彼の最もよき理解者になりました。




 1076年、カノッサの屈辱のときは妻も行動を共にしているのです。




 家臣や子どもも一緒に行きましたが、彼らはどうだったのでしょう。




 雪のアルプスの峠を越え、カノッサでの皇帝の情けない姿を3日も見て、楽しいとは考えられませんね。





 中世のキリスト教世界では、教皇に破門されると法的庇護がありません。

 同時に、死後の地獄行きが決定したことを意味します。





 敬虔なキリスト教徒なら、地獄行きが決定した皇帝についていきたくない、自分も地獄へ行きたくない、と考えるのがむしろ自然でしょう。





 当時の神聖ローマ皇帝の地位は、ドイツ諸侯と教皇の支持という、際どいバランスの上に成り立っていた不安定なものでした。




 このことをよく理解していたのは、彼の子どもたちだったのかもしれませんね。


 戦いにはけっこう強かったですが、ハインリヒ4世の戦いは延々と続きました。





 グレゴリウス7世を追放して、ナポリの南で客死させた後も、ひき続き教皇ウルバヌス2世との対決が始まり、再び苦境に追い込まれました。





 ちなみにウルバヌス2世は、十字軍を始めたことで、高校世界史の教科書にも登場する有名なローマ教皇の一人ですね。





 極めつけは、彼の子どもたちの反乱です。


 まず、後継者とされていた長男のコンラートです。





 彼は父の方針に従いませんでした。

 ウルバヌス2世に恭順の意を示したのです。





 父のハインリヒ4世は、ものすごく頭にきたのではないでしょうか。





 1098年、マインツで王国会議を開き、長男の王位を剥奪し、次男をドイツ王位継承者として定めたのです。





 熾烈な親子戦争になってしまいましたね。


 国民はどちらに味方したかったのでしょうか、とても疑問ですね。






 この親子喧嘩は1101年、コンラートの急死で収まりました。


 次に、次男のハインリヒ(後のハインリヒ5世) です。






 1104年、彼も父ハインリヒ4世に対して、バイエルンの諸侯とともに反逆しました。


 翌年には父王を捕えて幽閉し、退位を強要したのです。






 ハインリヒ4世は辛うじてアーヘンに逃れて再起を図りましたが、決戦をひかえた1106年8月7日、リエージュで客死してしまいました。






 彼のライバル、グレゴリウス7世も全く同じ客死でした。






 どちらも、言葉では表現できないほどの強烈な心労で悩まされていたことは、容易に想像できますね。





 共通して、背後に見え隠れしているのが差別心です。





 この差別心からもっと解放されていれば、少なくとも客死は無かったのではないでしょうか。
1 グレゴリウス7世 (1022年 ~ 1085年)





~宗教的権威のために追放されて客死したローマ教皇~





 「カノッサの屈辱」 をご存知でしょうか。

 カノッサとは、北イタリアの地名で、中世のお城がありました。




 屈辱とは、服従させられて恥ずかしい思いをすることです。




 これをさせた人がローマ教皇グレゴリウス7世で、させられた人は神聖ローマ帝国(現在のドイツ) 皇帝ハインリヒ4世でした。




 この事件は、世界中にローマ教皇の強い権威を示すことになった世界史上の大きな事件だったのです。




 それまで大きな権力をもっていた皇帝も、教皇の下につくという第一歩の事件でした。



 グレゴリウス7世とは、いったいどのような人だったのでしょうか。





 1022年、グレゴリウスはイタリア北部のトスカーナ地方の貧しい家で生まれました。

 若いころから、フランス東部にあるクリュニー修道院で修行を重ねていました。





 当時のキリスト教会は、お金で聖職が売買されるなど、信仰や宗教的活動が大いに乱れていました。




 だからクリュニー修道院を中心に、教会を改革して信仰を正す運動がおこっていたのです。


 グレゴリウスは、とても真面目な人だったのですね。





 この改革精神を学び、生涯にわたって教会改革に情熱を傾けたのでした。

 そして1073年、ついにローマ教皇に就任したのです。





 「これからは僧が身分を売り買いすることや、結婚することを禁止する。

  教会をまとめるために、聖職者の任命はローマ教皇が行うことにする」





 この宣言に異議を唱えたのがハインリヒ4世です。





 神聖ローマ帝国には数多くの教会があり、それまで皇帝が聖職者を任命していたので、皇帝の権力を守るためにも従うわけにはいきません。





 これに対し、グレゴリウス7世は強い態度で臨みます。


 「ハインリヒ4世をキリスト教会から破門する」





 皇帝はピンチに立たされたのです。





 ドイツは内乱状態になり、破門が解かれなければ、諸侯たちも皇帝に従わないということがはっきりしたからです。





 国民の立場に立てば、大切なことは、きちんと信頼できる聖職者であってほしいということです。




 どちらが任命したかということが、国民にとってそれほど大きな問題であったかどうかは疑問ですね。


 権力闘争は迷惑でしょう。





 ここで例の「カノッサの屈辱」 がおこります。





 1077年、ハインリヒ4世は帽子もかぶらず、そまつな修道服をまといました。

 しかもはだしで三日間、カノッサ城の雪の中庭に立ち、教皇の許しを待ったのです。





 この哀れな姿は、人々の同情を誘ったといわれています。


 しかし、グレゴリウス7世はなかなか許そうとはしませんでした。





 「ニセ修道士」 「教会平和の敵」 などと、さんざんにプライドと権威を傷つけられていたからです。




 クリュニー修道院長のユーグをはじめとして、周辺の人々の懇願もあり、三日後になってようやく破門を解いたのでした。





 ところが、ここからハインリヒ4世の逆襲が始まりました。





 破門を解かれて正規の皇帝に復活した彼は、軍事力と策略で次々に攻撃を加えることになったのです。




 1080年、グレゴリウス7世はもう一度ハインリヒ4世の破門を宣告しますが、コロコロと変わる教皇の態度に同意する者はあまりいませんでした。





 ハインリヒは、ドイツとイタリアのロンバルディアの司教を集めて公会議を開き、グレゴリウス7世の廃位を決定させました。





 1084年、ハインリヒの軍にローマを包囲され、ナポリの南にあるサレルノに追放の身となってしまいました。





 ついにローマには戻れず、この地で寂しく客死しました。





 教皇就任以来、相当な心労がたたっていたことでしょう。





 結局最期は、痛い目にあいました。




 でも、まちがいなく言えることは、信者あっての教皇、国民あっての皇帝です。




もっと平和的に、もっと有意義に共存共栄できる道があったのではないか、と考えるのは僕だけでしょうか。
9 玄 宗 (685年 ~ 762年)





~女色に溺れた権力で子どもに見放された唐の皇帝~





 唐の時代の中国は、世界の中心的存在であったといってもいいでしょう。


 軍事力は強く、優れた文化もたくさん花開きました。




 都の長安(現在の西安) は人口100万人を超え、世界中から交易や学問、宗教、文化交流などを求めて多くの人々が夢をもって訪れました。




 日本からも遣唐使として、留学生、留学僧などか繰り返し派遣されています。

 阿倍仲麻呂や最澄、空海などは特に有名ですね。




 その唐王朝の黄金時代を築き上げたのが、第6代皇帝の玄宗です。




 特にその治世の前半は「開元の治」 と称され、税制改革や仏教の宗教法人化、軍事力強化の節度使制度の導入など、唐王朝は安定していました。




 ところが玄宗の最期は、2年間の監禁生活の末、失意のうちに病死しているのです。


 この名君に、いったい何があったのでしょうか。




 玄宗は則天武后の孫です。

 唐の第5代皇帝睿宗(えいそう) の第三子として685年に生まれました。




 武后以来の王朝内の権力争いと混乱を収束させたので、皇太子になることができました。

 712年、玄宗は正式に皇帝として即位したのです。




 僕たちの日本では、ちょうど奈良時代が始まったばかりのころですね。




 玄宗も、実にたくさんの女性に手を出しています。

 多くの妃の中で、最愛の寵姫となっていたのは武恵妃(ぶけいひ) という女性でした。




 しかし、737年、彼女が病死します。




 皇帝になってすでに25年がたっていましたが、どうやら玄宗の転換点はここにあったようです。



 このころ側近の宦官、高力士(こうりきし) は玄宗の第18子である寿王(じゅおう) の妃を探していました。




 その中で、玉環(ぎょくかん) という名の美女を発見し、寿王の妃にしたのでした。




 だいたい18子などという数字を見るだけでも、玄宗がいかにたくさんの女性に手を出していたかが伝わってきますね。




 結論を先に言います。




 玄宗はこの寿王の妃、玉環の美しさに舞い上がり、彼女を皇帝の権力で奪ったのです。


 困ったお父さんですね。




 いくらなんでも息子の嫁を奪うなんてことは、普通のこととは思えません。




 ストレートにやれば当然問題になるので、いったん息子と嫁を離婚させて、彼女を出家させるという「形」 をとらせました。




 その上で、後宮に迎え入れるという手段を使ったのです。

 自分のものにするという目的はバレバレですが。





 745年、楊貴妃の誕生です。


 この玉環こそ、世界史上有名な楊貴妃だったのです。





 幼くして両親を失い、親戚に育てられた彼女は、薄幸の少女時代を過ごしていました。

 ところが、その美貌のせいで思わぬ運命が待ちかまえていたのです。





 ちなみに、20代半ばの楊貴妃に対して玄宗は60歳です。

 寿王だけでなく、他の息子たちの呆れた声も聞こえてきそうですね。





 「父には気をつけろ、いつ自分の妻も奪われるかもしれない」

 と不安に思ったことでしょう。





 楊貴妃に溺れた玄宗は、政治をそっちのけにして思うままに愛欲生活を楽しむようになりました。




 彼女を喜ばせようと、楊一族も次々に取りたてました。


 権力の濫用です。





 従弟の楊国忠(ようこくちゅう) を宰相にすると、節度使の安禄山との権力争いが起こり、「安史の乱」 を招いてしまったのです。





 都の長安を離れることを余儀なくされ、途中で兵士の反乱がおこり、楊貴妃も楊国忠も死ぬことになりました。





 乱後、悲しみにくれる玄宗は長安にもどりますが、息子で次の皇帝になっていた粛宗(しゅくそう) は、当然のことながら父を許しません。





 760年、甘露殿というところに移されましたが、これは「監禁」 です。




 40年以上にわたって権力を振るい続けた玄宗も、すべてを失いました。





 当時の多くの国民の意志は、ある意味では、安史の乱とこの2年の監禁に凝縮されているかもしれません。