8 高 宗(こうそう) (628年 ~ 683年)





~妻の権力欲で病に倒れた唐の皇帝~





 妻とは則天武后(そくてんぶこう) といって、夫である高宗の死後、中国史上唯一の女帝になる人物です。




 本名は武照(ぶしょう) といって大変な美貌の持ち主だったといわれています。

 しかし、この武照は高宗の父、太宗(たいそう) の妃の一人だったのです。




 高宗は女性に手を出すのが早く、何と皇太子のときに肉体関係におよびました。

 相手の武照は、父の妃です。




 この情事が大帝国となっていた唐の歴史を左右することになるとは、考えてもいなかったでしょう。



 650年、父の死により23歳の皇太子が、高宗として即位しました。

 唐の3代目の皇帝になります。




 武照は当時の習慣に従って、仏門に入って尼になりました。




 ところが3年後、彼女を忘れられないでいた高宗は武照を呼び戻し、突然後宮に入れることになったのです。




 武照は29歳になっていましたが、毎晩懸命につとめたので、高宗はたちまち彼女に夢中になってしまいました。




 しかし、まだこの段階では、武照は高宗の女性の中の一人にすぎなかったのです。


 権力欲旺盛な武照は、残忍な方法で皇后の座をねらいます。




 皇后を殺して、自分が皇后になろうと策謀します。




 まず、自分が産んだ生まれたばかりの子を、自分で窒息死させました。

 これをその直前に会いに来ていた皇后に疑いがかかるように仕向けたのです。




 高宗が狭心症で発作を起こしたときは、皇后が妖術を用いて高宗を殺そうとしている、という噂を宮廷中にばらまきました。




 1本の釘で心臓をつらぬかれた木彫り人形をわざと発見させて、大騒ぎになりました。


 ついに皇后は捕えられて牢に入れられ、代わって武照が皇后の座についたのでした。





 則天武后の誕生です。




 権力を握った武后は、さらに恐ろしいことを始めました。




 高宗が前皇后の入れられている牢に行き「何とかしてみよう」 と救出の約束をすると、武后はさっそく前皇后を引き出して真っ裸にしました。




 100回ムチで打って、手足を切断し、腕と脚を背のほうにねじ曲げて大きい酒樽につけました。




 2日後、前皇后は酒の海の中で、悶え苦しみながら死んでいったのです。




 武后はここまでして、権力を確かなものにしたのですね。

 殺人鬼同然です。




 犠牲者はこれだけではありません。

 高宗と深い仲になった武后の実の姉、韓国夫人を毒殺しています。




 その娘の魏国夫人は10代の若さで、輝くばかりの美貌に高宗は溺れました。




 高宗が武后を廃して魏国夫人を皇后にしようと考え始めると、またしても夫人を毒殺したのです。



 度重なる武后の横暴に、ようやく高宗も鼻につきだし、武后を廃する手立てを宰相に相談します。



 ところが、その宰相も武后によって牢にぶち込まれる始末です。


 とにかく行動が早いですね。




 結局、高宗の一族70余人が殺され、宰相や大臣などの高官も36人が殺されました。


 恐るべき権力のなせる業ですね。




 このような中で高宗は、しだいに健康を害していきます。

 視力は衰え、神経痛や息切れに悩まされました。




 30歳を過ぎたころから、政治はほとんど武后に任せっきりになったのです。

 彼が長い病の末死んだのは、683年、55歳のときでした。




 その後やがて武后が皇帝になり、国号を周と改め、15年間にわたり唐は中絶してしまいました。



 皇太子や皇帝という権力を傘にして、手当たりしだいの女性に手を出したツケが回ってきました。



 武后の身の毛もよだつような横暴の数々と高宗の長い病気は、大いに関係があると考えるのが自然でしょう。




 宮殿内ではこれだけ悲惨なできごとが続きましたが、当時の国民たちは数々の対外戦争に連勝したからでしょうか、あまり混乱はなかったようです。





 武后の横暴を制することができたのは、高宗だけです。




 権力からもう少し解放された生き方が、あったのではないでしょうか。




 この背景には、夫婦ともに人を見下す差別心があったことは明白です。
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7 煬 帝(ようだい) (569年 ~ 618年)





~心労から都を捨てて自滅した隋の皇帝~





 悠久なる時を経て、広大な中国の大地に、たくさんの人々が今でも毎日のように利用している大動脈があります。




 長さ1,800キロメートルに及ぶ大運河です。




 日本列島の約3分の2の長さに匹敵するこの大運河は、隋の2代皇帝である煬帝が1,000年先の中国の繁栄を見越してつくったものです。




 その壮大な思惑通り、1,000年以上たった現在でも、あまりにも多くの人々に貢献しています。




 しかし、その張本人である煬帝の末路は、自分を守る役目の親衛隊にあっけなく絞殺されるという、悲惨な結果に終わっています。




 なぜでしょうか。




 彼の名は楊広(ようこう) といい、北周王朝の実力者、楊堅の次男として生まれました。

 この楊堅が、後の隋の建国者、文帝ですね。




 楊広は江南の陳(ちん) 王朝を滅ぼすとき、50万の隋軍の総指揮をとって、隋の全中国統一に大きな役目を果たしています。




 しかし、若いころから野心家で、虎視眈々と権力の座をねらっていたことがうかがえます。




 まず、文帝の長男で、楊広の兄であった皇太子の楊勇(ようゆう) をおとしめます。

 趣味で集めていた1,000頭の馬に目をつけたのです。




 楊広はこの兄の趣味を、父文帝に対する反乱の準備だと吹聴したのですね。

 兄は皇太子をおろされ、変わって次男の楊広が皇太子の座につきました。




 次に文帝です。

 父が病気になったどさくさにまぎれて、薬と称して毒薬を飲ませ、あっけなく毒殺したのです。





 こうして楊広は、晴れて2代皇帝、煬帝となることができました。

 自分が権力をにぎるためには、手段を選ばない執念が伝わってくるできごとですね。





 605年、煬帝は新しい都づくりと、大運河建設を命令します。

 特に大運河の建設では、数百万人の人々が強制労働をさせられ、6年後に完成しました。





 しかし、その3分の2にあたる人々が、寒さや飢えで死亡しています。


 これでは生きて帰ってくることの方が不思議です。





 犠牲になった国民の苦しみの声が聞こえてきそうですね。




 それにもかかわらず、611年、煬帝は竜船という豪華な船をつくらせ、完成した大運河をながめて行幸しています。




 運河の両岸には、曳き手が船を曳くための専用の道路までつくらせました。




 煬帝は上から目線で国民を見下し、周辺諸国にも差別的な態度で接し、隋にひれ伏すことを要求して従わせました。




 この中で、光るものが一つありました。




 日本ですね。




 当時は聖徳太子の時代で、小野妹子を遣隋使として派遣しています。

 丁寧に挨拶をしながらも、あくまで「対等外交」 の姿勢で交流しました。




 ところが、挨拶に行かない国が一つだけありました。


 高句麗(こうくり) です。




 煬帝はカンカンになって怒り、3度も戦争をしかけに遠征したのです。

 これが煬帝の命取りになりました。




 200万の大軍を差し向けましたが、すべて失敗。

 部下たちが何度か止めましたが、聞き入れられませんでした。




 嫌がって逃げ出す兵士は後を絶たず、都では反乱が相次ぎ、皇帝としては心労に心労を重ねることになってしまったのです。




 相次ぐ反乱に嫌気がさした煬帝は、都を捨てて暖かい南の楊州に行き、事態の鎮静化を待とうとしました。




 しかし、これは空気の読み違いでした。





 不満は民衆だけでなく、直接の部下たちからも降りかかることになったのです。

 国民の声を代表していたのは、むしろこの部下たちのほうだったと考えられます。





 だれも煬帝の絞殺を、否定する者がいなかったからです。

 彼の壮大な夢は、目の前の国民と部下たちによってストップがかけられました。





 煬帝があと少しでも差別意識から解放されていたならどうだったでしょうか。




 少なくともこのような仕打ちを避けることができたのではないか、と考えるのは僕だけでしょうか。
6 宣 帝 (559年 ~ 580年)





~外戚の圧力で若死にした南北朝時代の皇帝~





 中国の南北朝時代末期の557年、華北に北周(ほくしゅう) という王朝が建てられました。

 都は長安です。




 日本では、飛鳥時代にあたりますね。




 3代目の皇帝であった武帝は皇太子(後の宣帝) に対し、きびしいしつけをくり返し、杖(つえ) 打ちの刑をよくやっていました。




 皇太子は相当なストレスと恨みを持ちながら、このことがトラウマになっていたようです。




 後に宣帝として無事に即位し、第4代の皇帝になりましたが、彼はわずか22歳で死亡しています。




 いったい、彼の身に何があったのでしょうか。




 宣帝は、皇太子時代に結婚しています。

 相手の女性の父親は楊堅(ようけん) といって、後に隋の文帝になった人でした。




 この結婚で、楊堅は北周の皇帝の外戚として強い力をもつようになりました。




 577年、ついに北周は華北を統一します。




 このとき楊堅は、3万の水軍を率いて大きな手柄をたて、ますます強い発言権をもつようになりました。



 宣帝が皇帝として正式に即位したのは、翌年の578年です。




 皇帝になった宣帝が真っ先にやったことは、自分の父と一緒にきびしいしつけをした重臣たちを皆殺しにしたことです。




 執念の仕返しですね。




 彼の杖の恨みはよほど深かったと見えて、臣下に与えた罰は、いつも自分がさんざんに受けた杖打ちの刑でした。




 しかし、このことは不幸にも、その後わずか2年で北周が滅亡する原因になってしまいました。

 優秀な人材がいなくなってしまったからです。




 580年、宣帝は次のように言い放って、8歳の皇太子(静帝) に位を譲ってしまいました。



 「皇帝といっても政治は楊堅が行っているようなものだ。




 もういやだ。皇太子に帝位を譲るぞ」




 その上で、自分は皇帝の上に位する天元天皇であると宣言しました。

 父がいなくなったのでやりたい放題で、淫蕩三昧の生活をしたと伝えられます。




 あげくの果てに、自分の妻を暴力でいじめました。

 楊堅をおびき出して、殺害する作戦だったのです。




 権力争いのためとはいえ、何か大人げない行動ですね。


 妻は無実を訴えて、夫の暴力に耐え続けました。




 しかし、この作戦は裏目に出ます。


 しっかりとした口調と足取りの楊堅に、宣帝は逆に説教を食らうはめになったのです。




 「陛下、つまらぬ考えはお捨てなさい!」


 その恐るべき迫力に、宣帝の方がおびえ続けることになりました。




 「こわい、楊堅に殺される!」




 心労が心労をよび、それから1ヵ月後に重い病気にかかり、22歳の若さでこの世を去ったのです。




 あまりにも短く、あまりにもはかない、権力の頂点に立った男の自滅の末路でした。


 翌581年、楊堅は幼い静帝から位を譲り受け、皇帝に即位しました。





 隋の文帝の誕生です。

 ここに北周は滅亡し、隋が成立したのです。




 そして589年、隋は全中国を再び統一することに成功します。

 漢や晉以来の久々の統一王朝ですね。




 ところが、この楊堅も悲惨な最期を遂げます。

 604年、何と自分の次男によって毒殺されたのです。





 この次男こそ、後に中国史上屈指の暴君と呼ばれるようになる隋の2代皇帝、煬帝(ようだい) だったのです。





 宣帝の一生を考えると、暴力では人は育たないということを痛感させられます。


 このことは僕たち一般庶民にも、多くの場合に言えることでしょう。





 しつけのためとはいえ、杖打ちの刑は表面だけ服従するだけで、人を育てるという意味では効果があったとは思えません。





 宣帝もその父親も、もっと別のやり方があったのではないか、と考えさせられる歴史上のできごとですね。
5 ユスティヌス2世 (520年 ~ 578年)





~責任と心労に揺れ続け発狂した東ローマ帝国の皇帝~





 東ローマ帝国は、教科書でもおなじみの歴史に残る大帝国です。



 395年、古代ローマ帝国の東西分裂から始まりましたが、広大な領域を支配して、その後1,000年以上も続きました。



 首都はコンスタンティノープル(現在のイスタンブール) です。




 この中で最強と言われた人物がユスティニアヌス大帝で、その妹の子どもがユスティヌス2世です。




 皇帝という権力を手に入れながら、彼は発狂して人生を終えてしまいます。




 いったいなぜなのでしょうか。




 伯父のユスティニアヌス大帝は早くからその才能を示し、「ローマ法大全」 の編纂や聖ソフィア大聖堂の再建など、後世に残る文化事業を成し遂げました。




 また、遠征では次々に勝利しています。




 アフリカのヴァンダル王国、イタリア半島の東ゴート王国、イベリア半島の西ゴート王国の一部などを攻撃・占領し、かつての古代ローマ帝国に匹敵するほどの領土を回復したのです。





 その治世は38年にもおよび、後に大帝と呼ばれるようになったわけですね。


 565年、ユスティニアヌス大帝は後継ぎの子どもがないまま病死しました。





 そこで、妹ウィギランティアの息子ユスティヌスが、コンスタンティノープルの元老院と共謀して新しい皇帝即位を宣言しました。




 ユスティヌス2世の誕生です。




 しかし、苦難はすでに始まっていたのです。





 伯父の時代の相次ぐ遠征や建設事業で財政は破綻し、それを補うための増税で、経済も疲弊していました。




 山のような借金の証文を前に、彼は茫然としたのではないでしょうか。




 拡大しすぎた広大な領土の維持も、ユスティヌス2世にとっては大きな重荷になっていたと考えられます。




 西からも東からも、周辺諸国が侵攻を開始しました。




 西ゴート族はイベリア半島に、ランゴバルト族はイタリア半島に、東方ではササン朝ペルシアとの戦いになりました。




 結局スペインやイタリアを失い、ササン朝ペルシアのホスロー1世と強引に開戦しましたが、敗れて東ローマ帝国の威信を大きく傷つけることになってしまいました。





 ユスティヌス2世は、この敗戦がよほどのショックだったのでしょう。


 心労に心労を重ねた末に、ついに精神に異常をきたしました。




 574年のことです。




 政治の実権は養子のティベリウス2世に譲って、事実上引退しました。


 その後578年に亡くなるまでユスティヌス2世の精神錯乱は続いています。




 ちなみに、後を継いで即位したティベリウス2世は、わずか4年で死去し、そのまた後継ぎは帝位を簒奪されて殺されています。




 悲惨な災難続きですね。


 ユスティヌス2世は、発狂して身を滅ぼすために皇帝になったのでしょうか。





 ここにも権力に目がくらんで、無理をした男の末路が見えるような気がします。





 伯父も大帝とは呼ばれていますが、後継者たちに大きなツケを残していったことも見逃せません。




 この時代の東ローマ帝国の皇帝たちは、はたして自由で納得のいく人生を送ることができていたのでしょうか。





 それにしても、僕には一つの疑問があります。





 国民たちの声が、ほとんど聞こえてこないということです。

 唯一の手がかりは、増税による経済の疲弊です。





 相次ぐ戦争で人権侵害を繰り返していたことからも、とても暮らしやすい社会だったとは思えません。




 戦争で一番痛い目にあうのは支配者たちではなく、国民です。





 この目線から見ると、どう考えても自分は東ローマ帝国の、国民にも皇帝にもなりたくない、と思うのは僕だけでしょうか。





 権力は、一般民衆のために使われるべきでしょう。





 ユスティヌス2世が発狂しないで生きる道は、ほかにもいくつかあったのではないでしょうか。