4 劉 裕(りゅうゆう) (363年 ~ 422年)





~出世後2年で幕を閉じた五胡十六国の武将~





 五胡十六国時代は、日本でいうと古墳時代にあたります。

 中国では三国時代が終わると、晉(しん) という王朝が一時的に天下を統一します。





 しかし、五胡(ごこ) と呼ばれる五つの異民族に次々に侵入されて、国の北半分を奪われてしまったのです。




 このとき、晉の一族が江南にのがれて318年に建てた王朝が東晉です。




 劉裕はこの東晉の武将として活躍していましたが、結局自ら東晉を滅ぼして、江南に宋(そう) という王朝を建てて皇帝になった人物です。




 363年、劉裕は長江下流地域にある江蘇省(こうそしょう) で、東晉の下級官吏の子として生まれました。



 母は産後の肥立ちが悪く、劉裕が生まれてから産熱で亡くなったので、義理の姉が乳を飲ませています。



 幼少時代は困窮した生活で、口減らしに父に絞め殺されかけたこともありました。




 その父も劉裕が10歳のときに死に、早くも両親を失うことになりました。

 わずかに有していた田での耕作や、草履を商いながら生計を立てていました。




 学問には全く興味を示さず、知っている文字は4つか5つほどしかなく、博打が大好きでした。


 とても恵まれた少年時代とは言い難いですね。





 親の愛情や経済的な豊かさに飢えて育ったのでしょうか、成長した劉裕は大変気性の激しい男になっていました。




 しかし、その一方で器量も大きく、身分不相応な大望も持っていました。


 同時代を生きた田園詩人、陶淵明(とうえんめい) にはこう言っています。





 「おれのように家柄がよくない者は、軍人として名をあげるしか、出世の道はないからな。

 まあ見てろ! どんどん出世してやるぞ」




 383年、東晉は華北の前秦(ぜんしん) をひ水(ひすい) の戦いで破り、前秦はその11年後に滅亡します。




 しかし、江南の東晉でも各地で反乱が起こり、国内は大変乱れていました。

 たくさんの王朝が興亡し、戦乱が絶えなかったのですね。





 これらの一連の戦乱の中で、劉裕は着々と頭角を現しはじめました。

 当時のある女性は、次にように評しています。





 「劉裕の歩きぶりは龍か虎のよう、目つきも尋常ではなく、他人の下に甘んじているような人物とはとても思えません」





 その通りになりました。




 418年、彼は東晉の皇帝である安帝を殺害したのです。

 そして、東晉最後の皇帝となる恭帝を擁立しました。




 禅譲(ぜんじょう) を計画した劉裕は420年、恭帝から禅譲を受け、皇帝に即位しました。

 武帝と名のったのです。





 「とうとう皇帝になったぞ。

  これよりわが王朝を宋とよぶ!」




 権力の頂点に立った劉裕の喜びに満ちた笑顔が、目に浮かぶようですね。

 ところが、彼はその後恭帝を殺害しました。





 さらに驚いたことに、東晉の皇室一族も次々に殺害しているのです。





 後顧の憂いを絶つためでしょうが、過酷な人権侵害でもありますね。

 その権力の絶頂にあった劉裕は、わずか2年後の422年、あっけなく死亡します。





 病名ははっきりしませんが、長い間の戦いで疲れ切った心労が、何らかの関係をもっているのではないかと僕は考えています。





 僕がこう考えるのは、彼が皇帝になってからの生活が、決して穏やかではないと思うからです。





 その政策は、大地主を解体して戸籍の整備を行うというものです。

 この政策に、大地主たちが簡単に従ったとは思えませんね。





 劉裕は、今度は大地主たちを次々に殺害しているのです。


 彼は、人を殺すために生まれてきたのでしょうか。





 劉裕の死後も、帝位をめぐる内乱が続き、479年に宋王朝はあえなく滅亡しました。

 血で血を洗うような、権力争いが続いたのです。





 彼が夢見た権力の頂点からの眺めは、それほど楽しいものではなかったと思います。




 彼は、歴史に名を残した中国の英雄の一人でしょう。
 




 しかし、もっと別の生き方も可能であった、と考えるのは僕だけでしょうか。
スポンサーサイト
3 劉 備 (161年 ~ 223年)





~家柄と心労に揺れ続けた三国時代の英雄~





 僕が中国に行ったとき、現地案内係の添乗員さんは、上手な日本語で


 「私は、劉備玄徳(りゅうびげんとく) の子孫です」




 と誇らしげに、自己紹介をしていました。

 小説の三国志演義のせいでしょうか、今でもとても人気があります。




 劉備は「人民のための平和な国づくり」 という夢をいだいて活動し、その人柄が彼の部下や、多くの領民に慕われていました。




 新野城主になったときは、税の取り立てを軽くしたので、領民思いの城主として信頼されていました。




 劉備は、漢の高祖劉邦の子孫です。




 第6代の皇帝、景帝から分家した名門の家柄ですが、15歳のときに父が亡くなりました。

 だから貧しい生活を余儀なくされ、むしろなどを売って暮らしていました。




 母親は何度も言い聞かせていました。




 「おまえは漢の王族の子孫なのです。

 劉一族の誇りを忘れてはいけません」




 しかし、このころの後漢王朝は、幼い皇帝が連続的に即位し、宦官(かんがん) や外戚(がいせき) が権力争いを繰り返し、政治は乱れていました。




 さらに国民は、次々に起こる洪水や日照りの害に苦しみ、飢え死にする人々が道ばたにあふれているというありさまでした。




 このような中で、張角(ちょうかく) という人物が、互いに助け合って生きる平等な社会の実現をめざして、数十万人の国民とともに「黄巾の乱」(こうきんのらん) を起こしました。




 黄巾とは、彼らが仲間の目印としてつけていた黄色い頭巾のことです。

 このとき、劉備はこう言って立ち上がりました。




 「世の中を騒がす黄巾の賊(ぞく) めらを叩きつぶして、漢王室を再興する」




 彼のもとには、豪傑で有名な張飛(ちょうひ) や関羽(かんう)、極めて優秀な軍師である諸葛孔明(しょかつこうめい) など、さまざまな優れた人物が集まりました。




 三国時代の到来です。




 黄巾の乱を鎮圧し、劉備は天下統一をめざした他の二人のライバルである魏の曹操(そうそう) や呉の孫権(そんけん) と戦いました。




 この中で後漢は滅び、劉備は蜀(しょく) の国を起こし、皇帝になったのです。




 彼は「漢」 と呼んでいましたが、現在では前漢や後漢と区別するために、蜀漢または「蜀」(しょく) と呼ばれています。




 この時期の内容は三国志に詳しく、本や漫画、映画、ゲームなどになって、実際に読んでみると、とてもおもしろいですね。




 しかし、ここで違和感を覚えるのは僕だけでしょうか。

 劉備の夢にはとても共感できますが、問われるのは「立ち位置」 です。





 あくまで漢王朝という支配者側の立ち位置で、多くの国民を上から目線で見ていないでしょうか。




 「黄巾の賊めら」 という言葉には、このことが凝縮されていると思います。




 国民の立場からその本音を代表しているのは、むしろ張角の方です。

 新しい暮らしやすい世の中を望んで、あえて漢王室には期待せず、世直しを望んだのですね。




 ならば、これを「乱」 と見るのは支配者側で、国民の立ち位置から見れば「解放戦争」 でしょう。



 その証拠に、張角は途中で戦死してしまいますが、彼の「太平道」 という宗教は後に道教として発展し、現在に至るまでたくさんの中国の人々に影響を及ぼしているからです。




 世界史でいう黄巾の乱に参加した人は、太平道の信者以外にもたくさんいたのです。

 三国時代の三国は、いずれも間もなく次々に滅亡しています。




 これは、支配者側同士の権力争いと考えられます。

 劉備は「義」 という儒教の徳目にもとらわれすぎていたようです。




 愛する部下が戦死した心労を抑えきれず、弔い合戦をするために、軍師孔明の忠告も聞かず、無理な戦いをしかけて自滅しました。




 223年、敗れて白帝城に落ちのびた劉備は重い病気にかかり、そこで息を引き取りました。




 勇敢で情に厚い、魅力的な武将でした。




 しかし、縛られなくてもよい何かに縛られ続けたために、自ら寿命を縮めてしまった。




 こんな考えもあるのではないかと思うは、僕だけでしょうか。
2 ネ ロ (37年 ~ 68年)





~権力濫用で国民から見放され自殺に追い込まれたローマ皇帝~





 ネロは16歳でローマ帝国の第5代皇帝になり、治世の前半は国民から人気がありました。

 税収の一本化や、通貨の改革で国の財源を確保しています。




 反ローマであったブリタニアとアルメニア・パルティアを、巧みな戦争と外交で親ローマに仕向けることにも成功しました。




 スポーツや詩や音楽などの芸術を愛し、文化国家づくりも目指していた彼は、民衆から絶大な支持を受けていたのです。




 そのネロが、史上最悪の暴君と呼ばれるようになったのはなぜでしょうか。




 まず、実の母親アグリッピナとの権力争いが、破滅への第一歩だったのではないでしょうか。

 そもそも、ネロが皇帝になったのは、アグリッピナの策謀によるものです。




 彼女は前皇帝クラウディウスの後妻で、ネロは連れ子でした。

 後継者はいましたが、巧みに排除し、自分の子を皇帝に即位させたのです。




 「皇帝にしてやったのは私だ」




 母親は息子に恩を着せ、事実上の摂政役になって権力を振るおうとしたのです。




 ネロの結婚も、他に好きな女性がいましたが、母が無理やり自分の意中の女と結婚させ、離婚問題にもうるさく口出ししました。




 ネロは激しく抵抗します。




 アグリッピナの次の手は、色仕掛けです。




 こともあろうに念入りに化粧をして、宴の席に現れ、淫らな愛撫を浴びせては息子の頭をかき乱したのです。




 アグリッピナの巧みな愛撫を受けるたびに、ついにネロはそれが実母であることも忘れて、欲望に身をまかせてしまうのでした。




 つまり権力を手に入れるために息子を誘惑し、近親相姦をしたのです。

 これはびっくり仰天、困ったお母さんですね。




 この醜聞は、さすがにローマ中に広がったので、ネロもまずいと感じたのでしょう。




 これもまたびっくりですが、ついに母親の殺害を断行しました。

「あなたたちは、親子でいったい何をやっているのですか」




 こんな国民の声が、帝国中から聞こえてきそうです。



 次に、キリスト教徒の迫害です。

 64年、ローマでは9日間燃え続けた大火災が発生しました。




 ネロはこの火事の原因をキリスト教徒の放火とし、責任をなすりつけたのです。




 捕えられたキリスト教徒たちは、生きたまま松明がわりに火あぶりにされるなど、残忍な処刑を受けています。




 とてつもない大迷惑です。

 さすがにこれは、キリスト教徒でないローマ市民からも不評でした。




 当時のキリスト教徒は少数派でしたが、その後現在に至るまでに多数派になりました。

 世界史上初めての迫害者として、その名が広く、長く知れわたることになったのです。




 その他にも、皇帝としての権力を濫用したと考えられる事例には事欠きません。

 妻と離縁して、既婚女性を強制離婚させて妻として迎え、その夫は左遷。




 恩師までも、うざったいからといって殺害しています。




 さらに、倒錯した性の所業も噂になりました。




 女装して、解放奴隷の花嫁になったり、美少年を去勢して女装させて自分の正式な妻として迎えたりもしました。




 悪口を言ったということで、最高裁判所の長官も死刑。

 元妻も死刑。




 他にも、元老院の多数が処刑されて、次から次へと殺人の嵐です。




 68年、穀物の価格が高騰しているローマで、エジプトからの穀物輸送船が、食料ではなくて宮廷格闘士用の闘技場の砂を運搬させました。




 この事実から、ネロはローマ市民からさらに大きな反感を買うことになったのです。

 ここに及んで、元老院はネロを「国家の敵」 とし、別の皇帝を擁立します。




 ついに地方からも反乱がおこり、ネロは逃亡せざるを得なくなりました。




 起こるべきして起こった反乱ですね。




 最後は解放奴隷パオラの別荘に隠れましたが、近づく騎馬兵の音が聞こえるにおよび、自らの喉を剣で貫くという自殺に追い込まれたのです。





 彼の最後の言葉は、次のように伝えられています。

 「何と惜しい芸術家が、失われることか」

 


 「この期に及んで、その言葉ですか」

 多くの国民の声ではないでしょうか。





それにしても、やりすぎです。

差別意識から解放されなかった男の末路は、悲惨な結果になりました。





 最初は一般庶民にかなり近いところにいましたが、権力は民衆のためにあるべきだ、ということを再確認させられる男の生き方ではないでしょうか。
1 アウグストゥス (前63年 ~ 後14年)





~権力と身内の問題で悩み続けたローマの初代皇帝~





 人間の欲望には、限りがありません。




 一旦欲望を満たして満足しても、また新たな欲望が湧いてきて、結局満足できないということの繰り返しがよくおこります。




 どこかでコントロールしないと、結局不幸な人生を送ることになります。


 オクタビアヌスは、この典型的な例になる生き方をした人ではないでしょうか。




 栄光と権力を手にして、アウグストゥス (尊厳者) とまで呼ばれました。




 しかし、子孫に代々これを受け継がせるという、新たな欲望が満たされない心労に振り回されたのです。




 最後は妻に毒殺される、という悲惨な末路をたどってしまいました。


 高校の教科書でもおなじみの、この世界史上の有名人にいったい何があったのでしょうか。




 紀元前27年、共和政ローマはアウグストゥスにより、帝政に変化しました。

 ローマ帝国の誕生ですね。




 彼はプリンケペス(市民の中の第一人者) という称号も持ち、政治では共和政の形を残しましたが、事実上の独裁者になったのです。




 それまでの数々の戦争に勝ち、頂点に登った勝利者になりました。




 しかし、彼の次の新たなる願いは、この地位と権力を自分の子孫に長く末代までも継がせていきたい、ということでした。




 アウグストゥスは息子のドルーススをかわいがり、後継ぎにしようと考えていました。

 すでに20歳で将軍になり、有望な後継者だったわけです。




 ところが、戦闘中の落馬であっけなく亡くなってしまったのです。

 息子の死の知らせに、アウグストゥスが極めて強い衝撃を受けたことは言うまでもありません。




 大きな挫折感を味わいました。




 そこで、頼みは娘のユリアです。

 娘が子を産むのを待って、生まれた子を後継者にしようとしたのです。




 しかし、この娘ユリアはなかなか父の思うようにはなりませんでした。

 活発で毒舌好きで色気にあふれた少女で、父アウグストゥスも可愛がっていました。




 14歳で自分の姉オクタビアの子マルケスと結婚させましたが、マルケスは不運にも早々と亡くなってしまいました。




 自分の娘と甥の結婚なので、血統が続くと読んでいたのでしょう。


 また、挫折ですね。




 ユリアは手当たり次第にいろいろな男とかかわり、その情事を皆にしゃべり歩いたのです。




 アウグストゥスが次に打った手は、自分が最も信頼していた名将アグリッパに18歳の娘ユリアを託したのでした。




 42歳のアグリッパにはすでに貞節な妻がいましたが、皇帝の権威で離婚を命じて強引に結婚させたのでした。




 こうなると、ユリアはアウグストゥスの道具のようなものですね。


 彼女の人権は、明らかに侵害されています。




 5人の子どもが生まれましたが、8年後にアグリッパが死に、ユリアはまた派手に男遊びを始めたのです。




 強引な父親の権力に対する、精いっぱいの抵抗だったのかもしれませんね。




 あきらめないアウグストゥスは、ユリアに3度目の結婚を命じます。

 相手は、遠戚にあたるティベリウスという男です。




 しかし、不運はさらに続きました。

 後継者として考えていた二人の孫ガイウスとルキウスが、ともに若死にしてしまいました。




 ユリアはここでも悪妻ぶりを発揮して、またしてもご乱行の始末。




 「万事休す」 ですね。




 落胆したアウグストゥスは、ユリアをロードス島に追放し、結局自分とは直接血縁関係のないティベリウスを後継者にしました。




 西暦14年、心労に振り回され続けたアウグストゥスは、ついに死亡します。

 死因は、自身の3度目の妻リビアが好物のイチジクに盛った毒です。




 つまり、毒殺ですね。




 彼と彼の家族たちにとって、権力とはいったい何だったのでしょうか。