14 ヘロデ王 (前73年 ~ 前4年)





~地位のために手段を選ばず悶死した古代ユダヤの王~





 「この町にいる2歳以下の男の子を、一人残らず全員殺せ」




 恐ろしい命令ですね。



 幼い子供や、その母親たちが泣き叫ぶ悲痛な声が、町中にあふれたのです。

 イスラエルの町ベツレヘムは、地獄と化しました。



 当時この年齢に該当していた幼いイエス・キリストも、殺されそうになりましたが、父のヨセフと母のマリアに守られて、エジプトに逃げて難をのがれることができました。




 この信じられないような命令を発したヘロデ王とは、いったいどんな人物だったのでしょうか。




 紀元前73年、ヘロデはハスモン朝の宰相の家に生まれました。

 ハスモン朝とは、イスラエルにあったユダヤ人の王朝で、紀元前140年から続いていました。



 彼の父が王位継承をめぐる争いで亡くなったので、ヘロデはローマにのがれ、アントニウスの保護を受けました。



 紀元前41年、ユダヤの太守に任じられ、同37年には王位についてユダヤ王国を建てることができたのです。



 しかし、後に彼はアントニウスを裏切り、オクタビアヌスについています。

 念願の王位を手にしたヘロデ王は、防衛設備と都市の建設に励みました。



 経済活動を盛んにして、ユダヤの地を富ませることもできました。

 さらに紀元前10年には、エルサレムの神殿も完成させることができたのです。



 その一方で、彼は自分の地位を守るために、3人の息子たちを次々に殺しています。



 ユダヤ人からも税金をしぼり取ったので、エルサレムの町は貧しい人や病人でいっぱいになったとも言われています。



 そんなある日、東の方からやって来た3人の星占いの博士たちから、次のような知らせが入ります。




 「ベツレヘムで新しいユダヤの王が生まれました」





 ヘロデ王はこの知らせにうろたえることになります。

 新しいユダヤの王とは、すなわち自分の王位を奪う者ということになるからです。




 ちなみにこの新しい王と見なされたのが、当時幼かったイエス・キリストだったと伝えられています。



 ヘロデ王の大きな心労は、ここから始まったのです。




 自分の地位を守ることを徹底し、手段を選びませんでした。

 2歳以下の男の子を全員殺せと命じたのは、このような理由からです。




 一度手にした権力を脅かされたので、それを死守するために、無作為に必死になっている小心者の姿がよく見えますね。




 その背景には、権力へのこだわりと、人を見下す差別心が横たわっていることは明白です。

 国民が大迷惑だったことは言うまでもありません。




 兵士たちも、罪のない子どもを殺して良心がとがめられ、苦しんでいました。


 このヘロデ王の心労の延長線上にあるものが、「悶死」ではないでしょうか。




 全身性動脈硬化症という病気にかかったのです。

 心臓と肝臓の機能が低下し、血液中に毒素がたまり、妄想や発作が多発するものです。




 肺も犯されて息が苦しくなり、口腔、四肢、腹部、陰のうなども犯されて、各組織にはウジがわくこともあるという壮絶なものです。



 ヘロデ王の晩年には、ユダヤの一党派パリサイが、あからさまにヘロデの退位を予言していました。



 「アウグストゥス様だけが、このヘロデの神」




 ローマ帝国の権力をバックに君臨した、ヘロデ王の生き方が凝縮されている言葉ですね。



 人の子も自分の子も次々に殺し、おろおろしながら地位と権力にしがみついて生きた男の末路は、悶死という自滅のような死に方でした。




 他にもっと、別の生き方はなかったのでしょうか。




 権力やその背景にある差別心から解放されていれば、もっと楽しくて豊かな人生を全うすることも可能だったのではないか、と考えるのは僕だけでしょうか。
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13 クレオパトラ (前69年 ~ 前30年)





~王権と恋愛の狭間で揺れた古代エジプトの女王~





 世界の「三大美女」 と噂される人物をご存知でしょうか。

 エジプトのクレオパトラ、中国、唐の楊貴妃、日本、平安時代の小野小町の3人の女性です。




 哲学者、パスカルの言葉です。

 「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、歴史は変わったであろう」





 写真が残っているわけでなく、美人と呼ばれる姿も、地域や時代によって異なるため、正確なところはわかりません。




 でも、クレオパトラがとても魅力的な女性であったことは、ほぼ間違いないようです。

 その魅力的な女性が、わずか39歳の若さで自殺に追い込まれています。




 なぜでしょうか。




 紀元前69年、クレオパトラはエジプトのファラオ、プトレマイオス12世の三女として、アレクサンドリアで生まれました。




 幼い時から聡明で、父親は彼女が7歳のときに家庭教師をつけました。

 教養豊かで、特に語学の才能は驚くべきものでした。




 ギリシャ語のほかに、ラテン語、ヘブライ語、エジプト語も話せるようになりました。




 乗馬の腕も確かで、見る見るうちに才色兼備、文武両道の、たぐいまれな美しい王女に成長していったのです。




 紀元前51年、クレオパトラ18歳のとき、父親の遺言により、10歳の弟プトレマイオス13世と結婚し、女王として弟と共同統治をすることになりました。




 ところが、この弟と妹アルシノエが組み、女王クレオパトラと敵対しました。




 アレクサンドリア戦争です。




 この戦争でクレオパトラが勝利することができたのは、ローマの英雄、カエサルが味方したからです。




 カエサルは、美しく魅力的なクレオパトラの虜になっていたのです。

 初対面のときに、彼女がじゅうたんにくるまって、突然彼の前に現れた話は有名ですね。




 深い恋愛関係になり、子どもまで生まれました。




 しかし、紀元前44年、クレオパトラが25歳のとき、カエサルはローマで突然暗殺されてしまいました。




 ともに世界帝国をつくる、という夢が消えた瞬間です。





 それでも今度は、同じローマの英雄、アントニウスがクレオパトラの虜になります。

 彼とは正式に結婚し、子どもも3人生まれました。




 次々に、とてもよくもてたのですね。




 語学が堪能なうえ、機知に富んだ会話や美しい演出、女性らしい茶目っけに、英雄たちも参ってしまったのです。




 相手に対する気遣いが、人一倍よくできる人だったとも言われています。




 紀元前32年、ライバル登場です。

 エジプトをローマの支配下におさめようとしていた、オクタビアヌスです。




 アクティウムの海戦とよばれる戦争になりました。




 この戦争でアントニウスとクレオパトラの連合軍は、オクタビアヌスに敗れ追いつめられることになります。




 戦争後も何回も和平交渉を繰り返しましたが、結局クレオパトラはアントニウスとの愛を優先し、オクタビアヌスの要求を拒絶しました。




 最後は、毒蛇に身をかませて、自殺という悲劇で幕を閉じたのです。


 もしかしたら、オクタビアヌスもクレオパトラとの愛欲をねらっていたかもしれません。




 これらのできごとは、さまざまな歴史書等で書かれていますが、僕が気になっていることは、エジプト国民の声がなかなか聞こえてこないということです。




 そもそもプトレマイオス朝の王家はギリシャ人の家系であって、代々エジプト人とはほとんど結婚していません。




 まず、ここからして差別的ですね。




 彼女の父、プトレマイオス12世は大増税を行い、権力争いに明け暮れました。

 その娘のクレオパトラも、戦争続きで権力争いの一生でした。




 純粋な恋愛かどうかは当人たちにしかわかりませんが、国民の本音はどうだったのでしょうか。




 プトレマイオス朝と、ローマ帝国の支配。




 一般民衆の立場に立てば、果たしてどちらが暮らしやすかったのか、疑問に感じるのは僕だけでしょうか。
12 プトレマイオス12世 (前117年 ~ 前51年)





~追放されてローマにへつらった古代エジプトの王~





 一番わかりやすい言い方は「クレオパトラの父親」 でしょうか。

 古代エジプト末期の国王(ファラオ) です。




 紀元前のエジプトは、さまざまな王朝が複雑に興亡しています。




 古王国、中王国、新王国などと呼ばれますが、この新王国の後に、約300年続いた王朝がプトレマイオス朝です。




 首都のアレクサンドリアは、アレクサンダー大王が作った町で、彼の名にちなんでつけられた名前です。




 そのアレクサンダー大王の死後、彼の優秀な部下の一人であるプトレマイオス1世が、紀元前305年にエジプトに興した王朝がプトレマイオス朝ということになります。




 プトレマイオス12世が即位したころは、かの有名なローマ帝国の支配下に入る直前の時期で、エジプト滅亡寸前の混乱期のファラオとなったのです。




 娘のクレオパトラは、事実上最後の女王といったところでしょうか。




 プトレマイオス12世もクレオパトラも、波乱の生涯を送ることになりました。

 プトレマイオス12世は、国民から「笛吹き王」 と呼ばれて馬鹿にされていました。




 なぜでしょうか。




 昼間から酒を飲み、遊び戯れて笛を吹く王の姿は、国民の間で噂になっていました。




 僕は、彼は度重なる心労をまぎらわすために、酒と笛に心の平安を求めていたのではないかと思います。



 そもそも、王位をめぐる血なまぐさい争いは何代も前から続き、王家の直系はとだえてしまっていました。




 前王プトレマイオス11世のいとこにあたる彼が即位はしたものの、王家や国民の中には反対派も多く、ローマにたくさんの贈り物をして、やっと認めてもらっていたのです。




 音楽好きではあったけれど、政治能力はほとんどゼロと見なされていました。


 大国ローマの顔色ばかりうかがう情けない王であることは、自他共に認めていたのです。





 ローマへの多額の賄賂のつけとして大増税を行ったときは、多くの国民から怒りの声があがりました。




 さらに、プトレマイオス12世の弟はキプロス王でしたが、このキプロスがローマに攻められたとき、兄である彼は援軍を送らず、見殺しにしてしまったのです。




 弟は服毒自殺をして果てました。





 紀元前58年、ついに軍隊がベレニケのもとに集まりました。

 ベレニケはプトレマイオス12世の娘で、クレオパトラの姉にあたります。





 ベレニケはカッパドキア(現在のトルコ) の大司教アルケラオスと結婚してエジプトの女王になり、ここに至って、プトレマイオス12世はエジプトから追放されました。





 逃げて行った先は、ローマの実力者ポンペイウスのところです。





 当時11歳の少女だったクレオパトラは父を慕っていましたが、離れ離れになってしまいました。




 彼はここでも借金をし、王への復位をめざして議員や軍人に賄賂を送りました。


 権力への執念ですね。





 努力の甲斐あってか、夢は再び実現しました。





 3年後の紀元前55年、ローマの将軍アントニウスに守られたプトレマイオス12世は、エジプトの王座に返り咲いたのです。





 女王になっていた娘のベレニケは、戦いに敗れて処刑されました。


 自分の娘を殺したのですね。





 しかし、そのわずか4年後、悩み多かった一生を終えて、彼はあっけなく病死してしまいました。




 まさに、権力と心労に振り回され続けた一生だったのではないでしょうか。





 そこには権力のためなら手段を選ばない、差別者の姿が見え隠れする、と思うのは僕だけでしょうか。





 「笛吹き王」 と馬鹿にされ、大増税で国民に迷惑をかけ、あげくの果てに娘と敵対して、負ければ賄賂、勝てば殺害。




 いったい、誰のための国王、誰のための権力だったのでしょうか。




 プトレマイオス12世の心が、このこだわりからもっと解放されたものであったならば、全く違う人生を送ることも可能だったのではないでしょうか。




 そして当時の国民も、もっと自由な、もっと別の生活を送ることができたのではないか、と僕は考えています。
11 李 陵 ( ? ~ 前74年)





~名門のプライドが家庭崩壊につながった漢の将軍~





 儒教の徳目の一つの「孝」(こう) は親によく服従することを意味する言葉でしたね。




 この孝という考え方にこだわり、自分の家名のプライドを捨てられなかったために、家族を悲劇に追いこんでしまった人物がいました。




 李陵(りりょう) という漢の将軍です。

 日本では「山月記」 で有名な中島敦の小説「李陵」 で知られる実在の人物です。




 高校の現代国語の教科書では、山月記が教材になっていますので、聞いたことがあるという方もいらっしゃると思います。




 李陵の生まれた家は、代々武門の名門の家柄でした。

 先祖は秦の名将、李信で、漢の武帝の時代に生きた李陵も、この家柄を誇りにしていました。





 この時代の中国は、現在のモンゴルにあたる騎馬民族、匈奴(きょうど) との戦いが頻繁に行われていたのです。




 だから、彼も戦いで活躍して孝をなし、一族の名を有名にすることを強く望んでいたため、日ごろから激しい武術の訓練を積んでいたのでした。




 しかし、武帝の下した命令は、彼にとって心外なものでした。




 「戦場に食料を運べ」





 李陵は、この命令に我慢できなかったのですね。

 李広利(りこうり) という将軍の下につくことにも、不満があったようです。





 李広利の妹は武帝の寵愛を受けていたからで、このおかげで李広利は将軍になれたのでした。


 李陵は自分に戦闘命令を下すように、武帝に直接強く願い出ました。




 その内容は歩兵5,000です。

 ちなみに相手方の匈奴は、騎兵30,000です。




 約6倍ですね。




 誰が見ても不利なことは、火を見るよりも明らかでしょう。

 自殺に等しい戦闘におもむくようなものですね。




 李広利にはすでに30,000の兵が与えられていました。

 その願い出の迫力におされ、武帝はしぶしぶ許可を与えたのでした。




 李陵はよく奮戦し、8日間にわたってさんざんに匈奴を苦しめ、10,000を打ち取りました。



 後に「奇跡の奮戦」 と呼ばれることになります。



 しかし、援軍が来ないまま矢も食料も尽き、結局降伏して捕えられました。




 匈奴の王は李陵の勇敢さを認め、部下になるように何度も誘いましたが、李陵は固辞し続けました。



 ところが、ここで思わぬ誤報が武帝の耳に入ります。





 「匈奴に捕えられた李将軍という人物が裏切って、漢を攻撃している」





 激怒した武帝は、李陵の妻子、祖母、母、兄、兄の家族、従弟とその家族まで、皆殺しにしてしまいました。




 後にこの李将軍とは、李緒(りお) という別の将軍だったことがわかりましたが、時はすでに遅かったのです。




 刑は執行された後でした。

 李陵も激怒し、李緒を殺しました。




 さらに伝令を伝えた人物まで殺されています。




これは、何ということでしょう。




 かくして、李陵には失うものが何もなくなりました。

 今さら漢に戻ったところで、夢も希望も何もありません。





 すべてをあきらめて、残った人生を匈奴で生きることを決意します。





 匈奴の王の娘と結婚して、子どももできました。

 右校王という地位に任命されて、匈奴の将軍として活躍し、その後の一生を匈奴で終えました。





 この一連の悲劇の背景には、「家柄」 という差別的な権威が見えますね。





 李陵がこの差別的な意識から解放されていれば、「食料を運ぶ」 という仕事に誇りをもって従事することができたかも知れません。





 プライドというのは、ある程度は持っていることは必要かと思います。

 しかしあまり行き過ぎると、根本から破壊されてしまうという典型的な例ですね。





 この意味で、李陵の生き方には反面教師として、大いに学べるところがあるのではないでしょうか。
10 武 帝 (前156年 ~ 前110年)





~強大な権力と迷信に振り回された漢の皇帝~





漢の黄金時代を築いた強力な皇帝として、高校世界史の教科書でもおなじみの有名人です。

しかし、武帝の時代は全盛期であると同時に、衰退の始まりでもありました。




内にも外にも強大な権力を発揮しましたが、意外にも迷信に弱いところがありました。

自分の権力を守るために視野が狭くなり、誰が本当の味方か敵かわからなくなりました。




自分の権力の座を脅かす者におびえ、排除しようとする小心者でもありました。




 紀元前141年、武帝は16歳という若さで皇帝に即位しています。




 さすがにこの頃は10代の若さだったこともあり、家臣のさまざまな意見を政治に取り入れようと努力しました。




 その中の一つが、儒学を国の学問にしたことです。

 儒教では、次のように教えているからです。





「子が親を、弟が兄をうやまうように、君主をうやまえ」




 この教えは、その後の中国に極めて大きな影響を及ぼすことになりました。

 秩序はできますが、支配者にとって都合のよい教えとも考えられますね。




 身分差別もしやすくなり、さまざまな差別を正当化する理論にもなりえます。




 時代は下りますが、僕たちの日本でも、江戸幕府が同じことをやっています。

 そして、江戸幕府という強大な権力を支える思想になったことは明白ですね。




 武帝は、対外遠征も積極的にやりました。




 北方の匈奴(きょうど) をはじめ、南越とよばれたベトナム北部、西域、朝鮮にも進出して力を示しました。




 しかし、度重なる外征は財政難を招き、国内は乱れ、民衆の暮らしが苦しくなったことも事実です。




 高層の宮殿を4つもつくらせたことも、財政難に拍車をかけています。

 これは、公孫卿という怪しげな方士の進言によるもので、武帝が「不老不死」 すなわち「永遠の命」 を求めた結果でした。





 秦の始皇帝とそっくりですね。





 紀元前91年、武帝にとっても、その家族にとっても不幸な事件が起こります。

 歴史上は巫蠱の乱(ふこのらん) とよばれている冤罪(えんざい) 事件です。




 巫蠱とは木偶(でく) という木でつくった人形を土の中に埋めて、相手を呪い殺そうとする呪術です。




 迷信であることは明らかです。




 結論を先に言えば、この武帝を呪うための呪術をやったということで、皇太子が死罪に追い込まれ、皇后である衛后も連座させられ、ともに自殺してしまいました。




 さらにこれより先、最初の皇后であった陳后(ちんこう) も、すでに同じ理由で廃后、幽閉されて、関係者300人以上が殺されています。




 巫蠱の乱でも、他の多くの人々が殺されています。




 武帝は無実の二人の皇后と、戻太子(れいたいし) という名の皇太子を次々に失うことになったのです。




 冤罪だと上奏する者が次々に現れ、武帝は激しく後悔することになりました。




 思子宮(ししきゅう) という、子を思う宮殿を作らせ、悶々としながら5年後に亡くなりました。




 迷信に振り回された、不幸な晩年を送ることになったのです。


 なぜこのようなことになってしまったのでしょうか。





 巫蠱の乱は、武帝の側近である江充が仕組んだ罠でした。

 自分と合わない戻太子を、次の皇帝にしたくなかったというだけの話です。





 まんまとだまされた武帝の姿に、権力に取りつかれた哀れな男の末路を見るような気がしますね。




 皇帝である前に、自分は夫であり父である、ということを普段から大切にしていれば、一家の悲劇は防げたのではないでしょうか。




 武帝の生き方にも、反面教師として学べるところがあると思います。




 どんなに高い社会的地位や名声を得ても、僕たちは少なくとも、自分の配偶者や子どもを殺すような生き方はしたくないですね。