9 司馬談 (しばだん) ( ? ~ 前110年)





~家名をあげようとして憤死した司馬遷の父親~





 儒教の徳目の一つに 「孝」(こう) というものがあります。

 親によく服従することを意味します。




 この孝という考え方にこだわり、自分の家名をあげることに情熱をかけすぎたために自滅した人物がいます。



 世界史上のすぐれた歴史書「史記」 で有名な司馬遷の父親、司馬談です。




 僕は、息子の司馬遷は孝から解放されたので自分の意志を大切に生きることができ、父の司馬談は孝にこだわったからこそ、志半ばで倒れたと考えています。




 つまり「権威」 ですね。




 歴史を学んで司馬家を有名にし、権威を得ようとしたのです。

 司馬談は、まじめな努力家だったのではないでしょうか。




 漢の太史令(たいしれい) という役人でした。




 地位は高くない役人でしたが、歴史の記録と天文を担当していました。

 実際には、記録よりも天文の観測や国家の祭祀などに関する仕事が多かったのです。





 それでも司馬談は自分の仕事に誇りをもち、一生懸命調べて、周の時代以来400年間とだえていた歴史の記録をまとめようとしていたのでした。




 そんなある日、息子が郭解(かくかい) という游侠(ゆうきょう) の士に興味をもちました。




 地位も名誉もない無法者だが、約束したことは必ず守り、自分の命とひきかえにしてでも人を助ける。




 それでいて恩にきせないなど、義を重んじる人々です。




 しかし司馬談は、歴史には残りはしない「くだらん奴」 と一蹴しています。

 上から目線の生き方が伝わってきますね。




 ちなみに、後に司馬遷はその著書「史記」 の中で、郭解を堂々と登場させています。




 こんな司馬談にも、家名をあげるチャンスがめぐってきました。

 時の皇帝である漢の武帝が「封禅の儀式」(ほうぜんのぎしき) を行うと言いだしたのです。




 これは、天下泰平をもたらした聖天子だけが行うことができる儀式です。

 後世まで歴史上に残る大きな儀式である、と当時の人々は考えていました。




 でも僕には、権力者にとって都合のよい儀式にも見えるのですが、家臣や民衆の本音はどうだったのでしょうか。




 息子の司馬遷は、武帝の自己満足の儀式ととらえていました。

 だから、史記は武帝の死後になって発表されています。




 そうしないと自分は皇帝批判ということで処刑され、著書も焼却、抹消される危険が高かったからですね。




 司馬談は、封禅の儀式を取りしきれるのは、太司令として歴史の記録を調べ続けてきた自分だけだ、と思ったのですね。




 これをやれば司馬家の名は後世にまで残り、自分は孝をなすことができると考えたのです。


 ところが、武帝の返事は冷たいものでした。




 封禅の儀式に参加できる者は2,000石以上の家臣に限る、としたのです。

 当時の太司令はわずか600石。




 司馬談は、身分差別によって見事に外されてしまいました。




 あげくの果てに、呪術者や博士たちによって儀式のプロジェクトチームを組むというのです。

 孝ひとすじに生きてきた司馬談は、あまりのショックに寝込んでしまいました。




 そして、回復できずに憤死したのです。


 この悲劇の背景には、いったい何があるのでしょうか。




 時の権力者の都合と言ってしまえばそれまでですが、司馬談自身の差別的な考え方が大きいと僕は思います。




 地位や名誉にとらわれず、権威から解放されていれば、少なくとも憤死はしないで済んだでしょう。




 現代に生きる僕たちの身のまわりにも、形はあっても中身に乏しい儀式があると思うのです。





 司馬談の生き方は、反面教師として大いに学べるところがあるのではないでしょうか。
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8 恵 帝 (けいてい) (前211年 ~ 前188年)





~母親に絶望して若死にした漢の2代皇帝~





 中国の「三大悪女」 とよばれている女性たちをご存知でしょうか。

 漢の呂后(りょこう)、唐の則天武后、清の西太后の3人です。




 生きた時代はみんな違いますが、共通点は3人とも皇帝の妻という権力者であり、ライバルがいました。




 そのライバルたちに対して、目を覆いたくなるような残虐な行為をしたことも共通点です。


 この3人の中の一人、呂后の息子が恵帝です。




 結論を先に言えば、恵帝はこの母親のために精神を病み、23歳という若さで亡くなってしまうという悲劇に見舞われています。





 彼の身にいったい何があったのでしょうか。





 恵帝の父親は有名な漢の高祖、劉邦です。

 悲劇の始まりは、すでに呂后の父親の考え方と行動に見ることができる、と僕は考えています。




 呂后の少女時代の本名は呂雉(りょち) といいました。

 彼女の父親は徐州市沛(はい) の名士です。




 だから、常々自分の娘を貴人のもとへ輿入れさせたいと願っていました。




 当時、下級役人をしていた劉邦を見込み、強引に娘を嫁がせたのです。

 劉邦には、すでに妻子がいたにもかかわらずです。




 呂雉は劉邦の経済的な貧しさにがっかりし、2年間も捕虜になるという辛酸をなめましたが、この父の読みは、「出世」 という意味では的中したといえるでしょう。




 3年後に、夫は皇帝に、自分は皇后に、そして息子は皇太子になったのですから。





 しかし、問題はここからです。





 権力を握った者の心労が、守りの姿勢で渦巻くことになりました。

 まず、漢の創立に貢献した家臣たちを次々に葬り去りました。




 中でも、武力に優れた韓信は一族もろとも殺されました。




 次に劉邦が病死して16歳の恵帝が即位すると、呂后のライバル戚姫(せきき) とその息子である如意に刃が向けられました。




 恵帝は戚姫を嫌ってはいなかったようで、異母弟の如意もかわいがっていました。




 呂后が如意を殺そうとしたとき、繊細で心やさしい恵帝は弟を守ろうと、片時も彼のそばから離れませんでした。




 しかし抵抗むなしく、一瞬の隙をつかれてあっけなく毒殺されてしまいました。

 彼が母親に対する不信感をもったことは想像に難くないですね。





 恵帝には、もう一つ悩みがありました。

 両親とも浮気癖があり、自分は劉邦の子ではないのではないか、と噂された事です。





 恵帝は、父親の劉邦には全く似ていませんでした。

 父親は呂后の浮気相手である審食其(しんいき) という男性ではないかというのです。





 身の回りの世話をする侍臣(じしん) で、劉邦亡き後も生涯その関係が続いたといいます。





 このことを、劉邦の寵愛を受けていた戚姫から聞かされた恵帝は大変悩み、母親の呂后に問い詰めたこともありました。




 極めつけは、呂后が行った信じられないような行為です。




 戚姫を牢獄に押し込めて髪を切り、首枷(くびかせ) をはめました。




 息子如意の毒殺を知らされて嘆き悲しむ戚姫を裸にし、側近の宦官に命じて両足を広げさせました。




 むきだしになった陰部を踏みつけて、別の監獄から凶悪な殺人犯を何人も連れ出して、かわるがわる抱かせたのでした。




 さらに声が出なくなる薬を飲ませてから手足を切り落とし、両目をえぐり取らせました。




 あげくの果てに、四肢を失った彼女を豚小屋を兼ねた厠(かわや) に閉じ込めて「人豚」(ひとぶた) と呼ばせたのです。




 排泄物にまみれた戚姫の凄惨(せいさん) な姿を目にした恵帝は、涙にむせびながら呂后に食ってかかりました。





 「これでもあなたは人間なのですか!」





 あまりのショックで寝込み、その後国政はそっちのけで酒色にふけり、若くして病死しました。





 この悲劇を防ぐために、もっと早く何とかすることができなかったのでしょうか。

 権力への強烈な野心と、その背景に見え隠れする差別心がなせる業です。





 当時の国民は、この事実をどう受け止めたでしょうか。





 二度とあってはならないことですね。





 この凄惨な悲劇からも、後世に生きる僕たちは、人間としての生き方の大切なことを学ぶことができるのではないでしょうか。
7 劉 邦 (りゅうほう) (前247年 ~ 前195年)





~皇帝の権力から猜疑心に揺れた漢の建国者~





 偉くなると途端に人が変わってしまう人物に、心当たりはありませんか。

僕にも心当たりの人物がいます。




権力の座は、魔力を秘めているのでしょうか。




人の迷惑を考えず、やりたい放題になったり、守りに入って理不尽な行動を取る人がよくいますね。



紀元前の中国に生きた漢の高祖、劉邦もそんな人物の一人だったのではないでしょうか。




皇帝になってからの彼は、それまで人々に慕われていたかつての劉邦とは別人になってしまったのです。



 紀元前247年、劉邦は現在の江蘇省徐州市沛県(はいけん) で宿屋の三男として生まれました。




若いころは田舎の遊び人といったところですが、なぜか人望のある性格でした。




仕事で失敗しても周囲が擁護し、劉邦が飲み屋に入れば自然と人が集まり、店は満席になりました。




秦の苛酷な労働で、人夫たちが次々と逃亡したとき、酒を飲んで酔っぱらって、残ったすべての人夫を逃がし、自らも一緒に行くあてのない人夫らとともに、沼沢へ隠れたこともありました。




 そんな劉邦が、天下を統一して漢の皇帝になったこと自体が不思議ですね。





秦の反乱軍の大将になったのも、自分から野心をもってなったのではなく、彼の人徳を慕う多くの人々の熱望によって推された結果でした。




何度も痛い目にあいながら、強力なライバル項羽に負けなかったのも、劉邦の大らかな人柄がそうさせたのです。





 そして張良(ちょうりょう) や韓信(かんしん) をはじめとする多くの優れた部下たちの才能をうまく発揮させることができたからではないでしょうか。




 劉邦は 「平民皇帝」 として、中国史上に長く大きな名を残す大人物になりました。





特に生まれは低い身分でありながら、権力の頂点にまで登りつめた物語は、たくさんの書物で紹介されています。



ライバル項羽との戦いで、何度も命びろいをしながら、逆転勝利したことはとても魅力的です。





でも僕があえて注目したいことは、わずか7年ではありますが、皇帝になってからの彼自身の行動であり、生き方であるのです。




 紀元前202年、天下統一を果たし、漢の初代皇帝に就任した劉邦は、手のひらを返したように、自分の一族ではない部下たちを、片っぱしから処分しはじめました。




最も猜疑心を向けられたのは、天下統一に大きな力を発揮した韓信(かんしん)、彭越(ほうえつ)、英布(えいふ)の3名です。




彼らは領地も広く、百戦錬磨の優れた武将だったので、特に警戒されました。





 謀反(むほん) の疑いをかけられたときの韓信の言葉です。





 「狡兎(こうと) 死して良狗(りょうく) 煮らる」

 (すばしこい兎(うさぎ) が死んでしまうと、良い猟犬は煮られる)




 「天下が安定したから、自分も煮られるのだろう!」

 こう叫びましたが、紀元前196年、だまし討ちにあって殺されました。




  同年、彭越も捕えられて、蜀(しょく) に流されるところを策謀によって殺されました。

  英布は反乱をおこしましたが、劉邦の軍に敗れました。




しかし、この戦いで劉邦は矢傷がもとで、それまでの病状が悪化し、翌年の紀元前195年、あっけなく死去したのです。




皇帝になってから、わずか7年後のことでした。


とても優雅な権力者の生活とは思えませんね。




 劉邦は猜疑心にさいなまれ、なりふりかまわず 「守り」 に入ったのです。


結局、自分で自分の首を絞める形になってしまったのではないでしょうか。





彼の心労は、相当なものだったと考えられます。


権力にしがみつく小心者の姿は、かつての大らかな劉邦とは似ても似つきませんね。





 これらの痛ましい事件の背景には、人を見下す差別心が見え隠れしていると考えるのは僕だけでしょうか。
6 項 羽 (こうう) (前232年 ~ 前202年)





~権力直前で四面楚歌に絶望した武の達人~





 四面楚歌(しめんそか) とは、まわりが敵ばかりで絶望的な状態のことをいいます。




 天下統一目前で、この状態から自殺に追い込まれた人物が項羽です。




 秦の始皇帝亡きあと、後の漢の劉邦(りゅうほう) と天下をめぐって争った、宿命のライバルとして有名ですね。



 漢文の授業では毎年必ず、虞美人(ぐびじん) とともに登場します。




 身長2メートルの武の達人で、戦えば連戦連勝。

 秦を滅ぼして皇帝になってもおかしくなかった項羽が、自殺に追い込まれた背景には何があったのでしょうか。




 項羽は戦国七雄の一つである楚(そ) の国の将軍の家に生まれます。

 楚の誇り高き名門です。




 しかし、紀元前223年、秦により滅ぼされてしまったのでした。



 当時少年だった項羽にとって、このことは生涯忘れられない強烈な怨みをもつことになったのでしょう。




 始皇帝の巡幸の行列を見たときに、言い放ったと伝えられる彼の一言です。

 「よし、あいつにとって代わってやる」




 始皇帝が病死すると、たちまち秦に対する反乱が全国各地でおこり、項羽もその一人として名をあげることになりました。



 劉邦も、この反乱軍の一つを立ち上げることになったのです。




 項羽の作戦は、元の楚の王族の一人を探し出し、懐王(かいおう) と名付け、反乱軍のシンボルにしました。



 しかし、これは明らかに傀儡(かいらい) で、かつての楚の王を慕う人々の心をとらえようとして利用したのでした。




 その証拠に、都合が悪くなると、懐王は項羽に殺されてしまいました。


 虎視眈々(こしたんたん) と権力をねらっている様子が伝わってきますね。





 このできごとに憤慨し、正面から宣戦布告をしてきたのが劉邦です。

 最初から項羽は、平民出身の劉邦を 「成り上がり者」 と言って馬鹿にしていました。





 これは、出身による身分差別ですね。


 兵法をよく学んでいたので、項羽の軍は強力でした。





 戦うたびに劉邦を破り、行くところには多くの死体が山のように折り重なり、火が燃え上がるという地獄のような風景がくり返されました。





 降伏してきた始皇帝の子どもを殺し、秦を滅ぼして阿房宮(あぼうきゅう) という大宮殿にも火を放っています。





 一時は権力を握り、「西楚の覇王」(せいそのはおう) と名のって反乱軍の頂点に立ち、天下取りに絶対優位なところまでいきました。





 しかし、最終的には垓下(がいか) の戦いで四面楚歌に追い込まれてしまいました。





 なぜなのでしょうか。





 まず項羽は、上から目線で人を見下し、何でも自分で決めないと気がすまない性格でした。




 名門出身のプライドがそうさせたのでしょうが、部下の働きもなかなか認めようとしませんでした。





 そして強くても残虐な戦い方をくり返していたので、部下たちは次々に項羽のもとを離れて、劉邦のもとに走るようになったのです。





 このことは、項羽の大きな心労になったと考えられますが、楚の国の人たちだけは自分の味方だと思っていたのです。





 しかし、垓下で劉邦軍に囲まれたとき、四方から楚の国の歌を聞いたのです。

 この衝撃的な事実から、楚の人々も劉邦軍に寝返ったということを悟ったのでした。





 劉邦を差別的なまなざしで扱っていた項羽は、プライドをズタズタに切り裂かれたのでした。

 度重なる心労に絶望し、死を決意したのもこのときでしょう。





 紀元前202年、項羽は四面楚歌の垓下を飛び出し、長江の近くの烏江(うこう) というところまで逃げ、敵兵数百人を殺してから自殺しました。





 31歳というあまりにも早い死でした。





 「この結果は天の意志だ。

 断じて私の武勇が劉邦のやつに劣っていたからではない」





 項羽は最後までプライドを捨て切れなかったのですね。





 他に生きる道はなかったのでしょうか。




 とても考えさせられる、武の達人の「熱き生き方?」 です。