5 始皇帝 (前259年 ~ 前210年)





~不老不死を熱望して揺れた秦の独裁者~





 「月からも見える、地球上のただ一つの建造物です」




僕が万里の長城に立ったとき、案内の中国の方がおっしゃっていた言葉です。

そのとき立っていた位置は、地上から7メートルもあったのです。




想像以上のスケールの大きさに、改めて驚かされました。


これではどんなに優れた騎兵でも、この長城を乗り越えることは至難の業だと思いました。





この万里の長城で有名な人物が、中国史上初めて「天下統一」 の偉業を成し遂げた、世界中で有名な秦(しん) の始皇帝です。
 



 秦は戦国時代の勝利者ですね。




紀元前221年、同時代のライバルである韓、魏、趙(ちょう)、燕(えん)、斉(せい)、楚(そ)の6つの国を次々に滅ぼしたのです。



 それまで誰もやったことのなかった、中国を一つにまとめることに成功したのでした。




その張本人である始皇帝は、強大な権力を手に入れ、歴史上に長く2,000年以上にわたって名を残すことになりました。




数百万人の民衆を動員して12年かけてつくった万里の長城は、その権力の象徴にも見えます。




 彼は自らの権力を誇示するために、数十万人の兵士を連れて各地方を5回巡幸しています。

旅先では、各地の山の上に自分の業績をきざんだ石を残させました。




自分の墓と阿房宮(あぼうきゅう) という宮殿は70万人を動員してつくらせました。




宮殿の広さは東西700メートル、南北120メートルという巨大なもので、広間には10,000人の人が座ることができました。




また、「走る宮殿」 とも言われる、移動式の宮殿もつくったといわれています。




 皇帝専用の道路もつくらせました。




馳道(ちどう) とよばれたこの道は、幅50メートル、中央部7メートルは行幸路としてつき固められ、青松が植えられたのです。




自分の気にくわぬ者は容赦なく殺し、儒学者だけでも460人が生き埋めにされました。


やりたい放題ですね。




 しかし、この始皇帝にも大きな心労一つがありました。


それは「永遠の命」 です。




「皇帝の手に入らぬものが、この世にあるものか」




この言葉には権力への過信と、その背景にある差別心が凝縮されていますね。

自分も民衆と同じ一人の人間である、ということを認めようとしなかったのです。




神話に出てくる仙人のように、500歳、1,000歳までも生きようと本気で考えました。


そのおかげで、家臣たちは「死」 という言葉さえ口に出すこともできませんでした。




 だから、始皇帝は方士(ほうし) とよばれた神仙思想の研究者たちにだまされることになりました。




「金はいくらでも出す。

 行け、必ず不老不死の薬を持ってまいれ」




こんな薬が最初からあるわけもなく、大金を手にした方士たちは、その後行方不明になっていますね。




とりわけ有名な方士の中に、徐副(じょふく) という人物がいます。




彼は東の海に出て、当時弥生時代だった日本にたどりついたという伝説が日本各地に残っていますが、事実は不明です。



 始皇帝の神仙思想への傾斜は、さらにエスカレートします。




ある方士から言われた言葉です。


「神仙になるためには、あまり人に姿を見られてはいけない」




その言葉を信じた始皇帝は、自分の居場所を誰にも教えないように命じ、人と会うのを避けました。




しかし、ふとしたことで居場所を知られてしまうと、誰が知らせたのかわからなかったため、そばにいた者を皆殺しにしたこともありました。





 ついに夢かなわず、彼は50歳で病死。

  8年後には秦も滅亡しました。





 天下統一とは、いったい誰のためにあったのでしょうか。





 権力とは、いったい誰のために使われるべきものなのでしょうか。





差別心から解放され、民衆とともに同じ人間として自分と国民を大切にしていればどうでしょう。





 始皇帝の人生はもっと違ったものになっていた、と考えるのは僕だけでしょうか。
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4 アショーカ王 (前304年 ~ 前232年)





~侵略に苦悩し仏教に救いを求めた古代インドの大王~





 「アショーカ王よ、私たちの呪いで、いつかおまえの王国を滅ぼしてやる!」

 名も知れぬ、か弱い女性から突き付けられた、きつい一言です。




 もしかしたら、この一言が彼の生き方が変わった瞬間なのかも知れません。




 それは、アショーカ王が次のように考えるようになったからです。

 「力で作り上げた王国は、いつか力によって滅ぼされる」




 その後の世界各国で展開されている世界史は、このことを見事に証明していますね。

 紀元前317年頃、インドでチャンドラグプタ王がマウリヤ朝を興しました。




 アショーカ王は、このマウリヤ朝第3代の王で、歴史上初めてインドを統一し、仏教を厚く保護した大王として、歴史の教科書でもおなじみの人物ですね。




 しかし、アショーカはもともと王位を継ぐべき、安定した立場ではありませんでした。




 彼は父のビンドゥサーラ王の多数の王子の一人にすぎず、長子ではなく、また正妃の子でもなかったのです。




 普通に考えればアショーカは、王にはなれない立場だったのです。

 父王は長子スシーマを可愛がり、アショーカを冷遇しました。




 西インドの太守として都から遠ざけられ、反乱鎮圧という難題も課せられました。




 ところが、父王が亡くなるとただちに都に戻り、長兄をはじめとする異母兄弟の多くを殺して王位に登ったのでした。




 即位後も、自分の命令に従わない大臣たちを次々に殺し、その数は500人にもなったと伝えられています。





 これはすごいですね。





 このことだけでも、かなり無理して権力を手中にしていることがわかりますね。




 極めつけは「カリンガ戦争」 です。

 紀元前260年頃、インド東岸にあった大国、カリンガ国を激戦の末、征服しました。




 この戦争によってインドはほぼ統一されましたが、10万人が殺されたのです。

 戦禍によって兵士でない人々も、その数倍の人間が死に、住居を失った人も多数出ました。





 冒頭の女性のきつい一言はこのときのもので、兵士でない夫を失った妻の怨みが強烈に響いたものと考えられます。





 アショーカ王は怖くなったのかもしれません。




 この後、侵略戦争をピタリとやめ、仏教を深く信仰するようになりました。





 自分の命令一つで、何十万人もの人が死に、その累々と横たわる屍の地獄絵を目の当たりにすれば、いつか自分の行く末もこうなるのかと考えても不思議はありませんね。





 もしかしたら、夢にまで死人が出てきて、うなされるようなことがあったとも考えられます。




 僕がこう考えるのは、アショーカ王のその後の行動からです。

 彼はこの地方の住民に対し、特別の温情をもって統治に当たるよう勅令を発しているからです。




 「法(ダルマ)の政治」 を宣言し、インド各地の仏教の聖地に巡礼しました。


 仏教は基本的に殺生を禁止していますね。




 シャカが悟りを開いたというブッダガヤの菩提樹を詣で、8万を超える仏塔を建てました。




 インドの大王という権力と引き換えに、大きな心労にさいなまれ、罪滅ぼしに奔走しているように見えるのは僕だけでしょうか。




 アショーカ王は当然のことながら、仏教界から高く評価されることになります。

 また、バラモン教やジャイナ教など、他の宗教も保護して対等に扱いました。




 しかし彼は晩年、王の地位を追われ、幽閉されたという説が残っています。




 彼の死後、王位争奪戦によってマウリヤ朝は分裂し、紀元前2世紀初頭には、シュンガ朝により滅亡しています。


 


 読者の皆さんはどのように考えられますか。





 本当に納得した人生であったかどうかは、本人にしかわかりませんが。
3 龐 涓 (ほうけん) ( ? ~前341年)





~友人を罠にかけ敗れて自殺に追い込まれた中国戦国時代の秀才~





 中国の「戦国時代」 は紀元前の時代でした。

 日本でいうと、縄文時代の末期から弥生時代の初めにあたります。




 中国では七つの強国が「戦国七雄」 とよばれ、互いにしのぎを削っていた時代でした。

 兵法家は、戦いの作戦を立てるという役目を担うわけですから、とりわけ重要な立場です。




 龐涓(ほうけん) は、この七雄の中の一つである「魏」(ぎ) の国の優秀な兵法家であり、将軍でもありました。




 その彼が最終的に自殺に追い込まれたのはなぜなのでしょうか。




 龐涓は少年時代に兵法を学んでいました。

 机を並べて一緒に、同じ師匠から学んでいた人物に孫臏(そんぴん) がいます。




 孫子の兵法で有名な孫武(そんぶ) 五世の孫にあたる人です。


 ともに立派な兵法家になろうと努力を続けました。




 二人は互いに優れた才能を発揮しながら学び、親友でもありました。

 学を修めた後、孫臏は故郷の斉(せい) の国に帰りました。




 一方、龐涓は魏の国に仕え、その優秀さからまたたく間に将軍に登りつめたのでした。

 早々と先に出世した龐涓は得意顔で、親友の孫臏と再会することになります。




 手紙を書いて「僕の仕事を手伝ってほしい」 と、魏の国に呼び寄せたという説と、孫臏が自ら龐涓の出世の祝いに出向いたという説もあります。




 いずれにせよ孫臏は、最初は大歓迎を受けるのですが、後に龐涓の態度は急変します。




 何と、孫臏を罠にかけ、両足を切断する臏刑(ひんけい) に処し、額に罪人の印の刺青(いれずみ) を施し、奴隷部屋に監禁したのです。





 なぜでしょうか。





龐涓は孫臏の優れた才能を見抜いていたので、このままではいずれ取って代わられるのではないか、と恐れたのです。





 将軍、兵法家という自分が手にした地位を守るためには、親友でも邪魔な存在になったのでした。





 この背景には、権力と差別心が見え隠れしていますね。


 自分は親友よりも偉いのだから、上でなければならない。





 せっかく手にした権力を、脅かされてはならない。

 孫臏を車いすにして動けないようにすれば、自分は「安泰」 ですね。





 しかし、孫臏は両足を失いながらも、ある出会いによって運命が大きく変わります。


 彼が惚れ込んだ、名も知れぬ女奴隷です。





 彼女は孫臏を、魏の国に使いとしてやって来た斉(せい) の国の使者に引き合わせたのです。

 この使者は田忌(でんき) という人物で、たちまち孫臏の賢才に惚れ込みました。





 田忌は秘かに自分の馬車に孫臏を隠して、斉の国に連れ帰ったのです。


 後に斉の威王(いおう) は、田忌を将軍に、孫臏を兵法家として軍師に任命したのでした。





 紀元前341年、ついに魏と斉は激突します。

 兵法家としては、かつての親友である龐涓と孫臏が戦うことになったのです。





 この戦いは歴史上「馬陵(ばりょう)の戦い」 と呼ばれています。

 ここで孫臏が、見事な頭脳戦を展開しました。





 戦うと見せかけた斉軍は、魏の領内に入ると撤退を開始します。




 退却に際し孫臏は、初日は露営地に十万人分の竃(かま) を作らせ、翌日は五万人分の竃を、次の日には二万人分の竃を作るように命じたのです。




 日ごとに数が減っていますね。




 龐涓はこの事実を「臆病な斉軍は脱走兵が続出している」 と読み、魏軍の兵の装備を軽くし、昼夜兼行で斉軍を追わせたのです。




 しかし、日没後に馬陵に到達した龐涓は、脇街道の大樹に思いもよらぬ文字を発見します。


 「龐涓この木の下に死せん」




 待ち伏せですね。





 松明(たいまつ) をもっていた龐涓に、無数の斉軍の弓が射かけられました。

 暗闇の中で、龐涓の最期の瞬間が、突然訪れることになったのです。





 「小僧に名を成させてしまったか」

 プライドが許さなかったのでしょう。

 



 最後にこの言葉を発し、彼は持っていた刀で自害しました。





 親友を大切にし、差別意識から解放されていれば、魏の国と将軍龐涓の運命はこうはならなかったでしょう。




 この戦いを境に魏は衰退し、最終的には始皇帝で有名な秦(しん) に滅ぼされたのでした。
2 ディオニュシオス1世 (前430?~前367年)





~疑心暗鬼に揺れた古代イタリア・シチリアの王~





 日本では縄文時代の末期にあたります。

イタリアのシチリア島の南東部に、シラクサという都市国家がありました。




このシラクサの僭主(せんしゅ) がギリシア人のディオニュシオス1世です。




僭主というのは、簡単にいえば親などからの後継ぎではなく、実力で支配者にのし上がった者のことです。




性格は残虐で猜疑心(さいぎしん) が強く、さらに執念深い、最悪の暴君の一人として見なされていました。




 ディオニュシオスは、最初は役人として働いていました。




紀元前409年に始まったカルタゴ(現在のアフリカ北部チュニジア) との戦争で手柄を立てたことがきっかけで、王となることができました。



紀元前405年のことです。




民主政治が機能していたシラクサを独裁的に支配し、シチリア島内やイタリア半島南部の都市国家を、次々に征服していきました。




カルタゴとはその後も何度も戦っており、シチリア戦争とよばれています。




 紀元前386年、長い攻城戦の末に、イタリア半島本土のレギオンを陥落させました。

このときディオニュシオス1世は、その住民を奴隷として売り飛ばしています。




ギリシアのアテネとスパルタが争ったペロポネソス戦争では、スパルタ側に就いて参戦し、スパルタの勝利に貢献しました。




後に、ルネサンスの「神曲」 で有名なダンテは、その「地獄篇」で、ディオニュシオスは現世で流血と略奪にふけり、地獄で煮えたぎる血の川で苦しむ僭主だとしています。




 しかし、25歳で王になったディオニュシオスは、王であるがゆえに苦しみ、おびえる日々を送り続けることになったのです。




彼は自分が暗殺されるのではないだろうかと、極端なおびえ方をしています。

まず、衣服の下には鎧(よろい) を着て日々を過ごしました。




疑心暗鬼は散髪にも現れました。

髪は、自分の娘に切らせました。




プロの理髪師が政敵からお金をもらい、王ののどをかき切ることを恐れたからです。




 ところが、自分の娘さえ信用できなかったのでしょうか。

カミソリを使わせませんでした。




  では、どうやって髪を切らせたのでしょう。

 何と、クルミの殻(から) をこすって、そのときの摩擦熱で髪を焼かせたのでした。




僕も娘が2人いますが、赤の他人ならともかく、自分の血を分けた子どもを信頼できないのには驚きです。




 ディオニュシオスは、いったいだれを信頼していたのでしょうか。




 権力を守るために、悲しいほど必死になっている様子がうかがえますね。

 彼の疑心暗鬼は、さらにエスカレートしていきます。




 毎晩、自分の寝室を変えたのです。


 就寝中を襲われないようにするためであることは、言うまでもありません。




 困ったのは、召使いたちです。




 王がどこの部屋で寝るか教えられなかったので、数え切れないほどの部屋を、一つ一つのぞいてまわらなければならなかったのです。




 ディオニュシオスは、寝る時でさえやすらかにゆったりとしていられなかったのですね。




 あげくの果てに、石切り場に牢獄を作らせたときは、わざわざその牢獄に、囚人たちのどんなささやき声も聞こえるような細工を施しました。




 その天蓋(てんがい) の真ん中にじっと座って、囚人たちの話に耳を傾けていたのです。


 猜疑心のかたまりのような王ですね。




 ディオニュシオスは、人を疑うために王になったのでしょうか。


 不安や恐怖にさいなまれながら、実に63年間も王位にありました。




 本人にしかわかりませんが、彼の一生は楽しく有意義な人生であったのでしょうか、とても疑問で考えさせられますすね。