12 萱野 茂 (かやのしげる) (1926 ~2006)





~民族差別を乗り越えてアイヌ解放に生涯を捧げた北海道の先住民~





 国会に響き渡るアイヌ語。


 歴史的瞬間ですね。




 アイヌ民族初の参議院議員である萱野茂の強い願いです。

 「日本にも大和民族以外の民族がいることを知ってほしい」




 だから、あえて国会でアイヌ語を使って質問をしたのです。




 今でこそ教科書で少しずつ取り上げられるようになったアイヌの歴史ですが、僕は残念ながら小学校、中学校、高校のどこへ行っても、アイヌについて授業で教わった記憶がないのです。




 「いるのにいないことにされている」




 これは、典型的な差別の現れの一つだったのではないでしょうか。




 1878年に明治政府が作った「北海道旧土人保護法」

 この法律は、1997年に廃止されるまで実に100年以上にわたってアイヌの人々を苦しめ続けました。




 まず、「土人」 という言葉自体が差別的ですね。

 さらにアイヌは保護地に追いやられ、日本語や日本式の名前への変更などを強制されました。




 保護という名の監禁であることは明らかですね。




 この法律を廃止し、新たな「アイヌ文化振興法」 成立に尽力した人が萱野茂だったのです。


 彼は北海道の日高地方で、アイヌ民族の子として生まれました。




 子どものころ、父の手伝いでシイタケをひもでくくった記憶があるといいます。



 これには理由があります。




 日高の平取町は、かつて豊かな森林が広がっていましたが、和人による伐採で太い木がどんどん切られてしまったのです。




 はげ山だらけになり、山に残っていたのは切られてしまった太いナラの枝ばかり。




 その枯れ枝に生えてくるシイタケを取り、町で売ってわずかなお金にせざるを得なかったのです。




 「私たちは、この大きな北海道を日本に売った覚えも貸した覚えもありません」


 開拓という名の「侵略」 が招いた末のできごとの一つだったのですね。




 茂は小学校を卒業後、造林や測量などさまざまな職業につき、1952年以降にアイヌ文化の研究を推し進めました。




 アイヌの生活用品や民話を集め、記録し保存し続けたのです。



 1972年には、故郷でもある平取町の二風谷(にぶだに)に 「二風谷アイヌ文化資料館」 をオープンさせ、自ら館長を務めました。




 小さなラジオ放送局も作り「アイヌ語ひとくち会話教室」 などを、日本語を交えて放送しました。




 若き日には悪態をついたこともありました。

 「アイヌ語なんて煮て食えるのか。何の役にも立たん」




 しかし、アイヌ語だけを話す祖母の死をきっかけに生き方が変わりました。



 「土器は捨てられても土の中に残るが、言葉は自分たちが守っていかなければ消滅してしまう」




 放送で流れたアイヌの言葉が伝われば、民族意識の目覚めにつながると確信して活動を続けました。




 1994年、茂は繰り上げ当選ながら、アイヌ民族初の国会議員になりました。

 4年間務める中、97年には「アイヌ文化振興法」 を成立させました。




 同年、二風谷ダム建設反対運動にともなう札幌地方裁判所では、初めてアイヌ民族を先住民族として認める判決が下されたのです。




 さらに同年、国会もやっとアイヌが先住民族であるということを認めました。


 世界の情勢から判断して、あまりにも遅いと感じるのは僕だけでしょうか。





 まちがいなく言えることは、アイヌも和人も同じ人間です。





 民族は異なりますが、それぞれ独特の優れた文化をもち、同じ日本という国に住む仲間です。




 互いに認め合い、学び合えるものがたくさんあるのではないでしょうか。
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11 望月カズ (1926 ~1983)





~朝鮮戦争後133人を育てた38度線のマリア~





 僕が望月カズの生き方に共感できることは、行政という権力に屈せずに、自分の信念に基づく自由な生き方を貫いたということです。




 その一生は波瀾万丈の連続でした。

 そして自分自身が孤児です。




 差別に負けず、朝鮮人も差別をせず、生涯で133人もの孤児たちを育てました。

 身よりのない被差別の立場にある子どもたちと、共に生きる課題を共有しました。




 冷戦の代理戦争という歴史の動乱の中で、北緯38度線を越えて満州に渡ることができず、祖国日本への望郷の思いに駆られながら、ソウルで生き、ソウルに没しました。




 日本へ帰ったのは死後になってからです。

 朝鮮戦争の孤児とともに生きた孤児の母。





 彼女は「38度線のマリア」 とよばれ、韓国の人々から親しまれています。



 彼女はいったいどんな人物だったのでしょうか。




 東京の杉並で生まれたカズは、父の顔も知らないまま、4歳で母とともに満州へ渡りました。

 背景にはもちろん満州事変がありますね。




 しかしその2年後、母と死別しました。




 6歳という幼さで両親を失い、天涯孤独な孤児になってしまいました。

 農奴として転売されながら、満州を放浪することになります。




 金銭で売買される奴隷ですね。




 人権無視のきびしい状況の中で、かろうじて生き続けました。

 17歳のときです。




 幸運にも、偶然北朝鮮の城津という所で、ある日本人夫婦と知り合いになり、戸籍上のみの養子になったため、日本国籍を得ることができました。




 一時、永松カズと名のったのはこのためです。




 見習い看護婦をしながら第二次世界大戦の終戦をむかえ、1945年、日本に帰ることができました。




 しかし、彼女がそこで見たものは、廃墟と化した日本の悲惨な風景でした。

 身寄りもなく絶望したカズは、再び満州をめざしました。




 ところが、戦後南北に分断された朝鮮は、北緯38度を越えることができなくなり、やむをえずソウルに留まったのです。




 1950年、不幸にも朝鮮戦争が勃発しました。

 銃火の下を逃げまわるカズの目の前で、一人の韓国人女性が胸を撃たれ倒れました。




 その腕には、血まみれの男児がいました。

 カズはその男児を見捨てることができず、思わず抱きしめました。




 彼女の生涯の生き方が決定した瞬間ですね。



 「この子を見捨てられない」




 戦争の過酷な環境の中で、一時的な木造の仮の家屋であるバラックに住み、ほとんど孤立無援で肉体労働を重ねました。



 露天での理髪業や軍手製造、豆炭売り、時には体の血を売りながら次々と孤児たちを育てていったのです。




 その数は133人になりました。




 このような中で、彼女の孤児院を国の施設に移管するという話がもち上がりました。

 しかし、カズは断固としてこれを拒否しています。




 なぜでしょうか。




 行政がお金を出すということは、同時に口を出すということでもあります。

 これは言い方をかえれば、行政の支配下に入ることを意味します。




 「かわいそうだから助けてあげる」

 という「同情という名の差別」 をカズは見抜いたのだと思います。





 課題を共有して共に生きるのであれば受け入れられたのですが、上から目線で孤児を見下す姿勢に反発したのだと僕は考えています。





 楽してお金を得るよりも、苦労してでも自分の信念に沿って自由に生きることを選んだ生き方。




 望月カズは、もっと多くの日本人に知られるべき「38度線のマリア」 ではないでしょうか。
10 神谷美恵子 (1914 ~1979)





~ハンセン病患者の心に寄り添い共に生きた精神科医~





 医師、教師、政治家などの職業に携わる人々は、対人関係において注意しなければならないことが一つあります。




 それは、人からごく普通に「先生」 などと呼ばれるために、偉くなったような錯覚に陥り、人を見下してしまいやすい危険があるのです。




 僕もこのような勘違いに気づいていない時期がありました。

 でも、神谷美恵子はちがいます。




 医師、作家、大学教授でもあり、人より恵まれた家庭の経済環境、優れた才能、容姿の持ち主でありながら、おごったところが全くありません。




 いったいどんな人だったのでしょうか。




 岡山で生まれた美恵子は、いわゆる上流階級とよばれる豊かな環境の中で少女時代を過ごします。



 しかし、貧しい者への後ろめたさを感じながら、満たされないものがありました。




 通った小学校はこのような環境の令嬢が多く集まる学校でした。

 でも厳格な規律や「あそばせ言葉」 を使うお上品な貴族趣味にはうんざりしていました。




 父の仕事のため、スイスのジュネーブで3年半過ごしています。




 快適な生活に見えますが、彼女にとっては召使いや運転手つきの生活、豪華な邸宅も居心地の良いものではありませんでした。




 19歳の大学生の時です。




 美恵子は叔父からハンセン病患者の療養所である東京の多摩全生園で、賛美歌を歌う患者たちのオルガン伴奏を頼まれました。




 そこで彼女が見たものは、見る影もなく病みくずれていた患者たちの姿でした。

 鼻のない人、下唇が下へ垂れ下がったままの人、まぶたが閉まらない人、四肢のない人。




 「こんな病気があるものか。

 なぜ私たちでなく、あなた方が。




 あなた方は身代わりになってくれたのだ」

 この人たちのためにどうしても看護師か医者になりたい、と思うようになりました。




 しかし、両親は猛反対です。




 27歳になって、やっと父の許可がおりました。

 ただし、条件付きです。




 「ハンセン病をやることだけは許さない」




 この言葉の裏には、いったい何があるのでしょうか。




 美恵子は努力の末、30歳のときに精神科医になることができました。




 43歳のときになって、岡山県の離島にあるハンセン病療養所「長島愛生園」 の精神科非常勤医師として勤務することになったのです。




 「別に理屈ではない。

 ただ、あまりに無残な姿に接するとき、心のどこかで切なさと申し訳なさでいっぱいになる」




 この考え方は美恵子の生涯を貫いています。




 医師というより、むしろ看護、あるいは介護という立場でともに寄り添って行動しました。

 患者たちは声高らかに賛美歌を歌い、信仰の喜びを口々に語るのです。




 確かに批判もあります。




 死ぬまで患者を強制隔離するための法律「らい予防法」 は偏見と差別のもとになり、1996年に廃止されるまで続いていました。




 美恵子はこの法律の範囲内での行動ではないか、という批判です。




 しかし、批判の批判があることも事実です。




 そもそも美恵子はハンセン病治療の専門医ではありません。

 精神科医です。




 僕が重視したいのは、患者の心に寄り添って、生きる課題を共有して純粋にまっすぐ生きたために、差別を乗り越え、生きる喜びを共につかむことができたということです。




 だから、たくさんの患者から慕われたのではないでしょうか。




 批判は否定できませんが、僕はこの「批判の批判」 に賛成です。




 僕自身の反省も含めて、人を見下し、上から目線で命令口調で接する「先生たち」 はたくさんいます。




 しかし彼女は、差別意識から解放されたからこそ、親からの「差別命令」 を乗り越え、自分も患者も大切に生きることができる人になれたのです。




 その人柄、まっすぐな生き方に共感できるのは、僕だけではないと思います。




 人間として対等に生きるという意味で、学ぶべき人物ではないでしょうか。
9 田内千鶴子 (1912 ~1968)





~3,000人の孤児とともに韓国で生きぬいた日本人女性~





 死後40年以上たった今でも、韓国の人々から 「オモニ(お母さん)」 と呼ばれている日本人女性がいたことをご存知でしょうか。




 名前を田内千鶴子(たうちちずこ) といいます。



 彼女は第二次世界大戦や朝鮮戦争による戦争孤児たちを、日本人、韓国人の分け隔てなく引き取って育てあげた人物です。




 その数3,000人。



 民族差別を乗り越えて、必死になって生きぬいた姿は、とても共感できる生き方だったのではないでしょうか。





 千鶴子は1912年、高知県で生まれました。


 7歳の時に、母親とともに朝鮮半島の南西部に位置する木浦(もっぽ) に移り住むことになりました。




 父親が朝鮮総督府の木浦府庁に勤務していたため、呼び寄せられたのです。


 朝鮮総督府とは、1910年の韓国併合のときにできた、日本が朝鮮を支配するための役所ですね。




 つまり、千鶴子が移住した時、朝鮮半島はすでに日本の植民地になっていたのです。


 朝鮮の人々からは歓迎されなかったであろうということは、容易に想像がつきますね。





 母親の影響で、敬虔なキリスト教徒になっていた千鶴子は、運命の出会いをします。

 韓国人伝道師の尹到浩(ユンチホ) です。




 彼は身よりのない子どもたちのための施設建設に、奔走していたのです。



 到浩から請われる形で、千鶴子は施設で日本語と音楽の指導を始めたのでした。





 彼女が日本人だというだけで反発する子どももいましたが、たとえ問題を起こした子どもでも、手をあげて叱ることをせず、強く抱きしめて愛情を注ぎました。





 1938年、周囲の反対を押し切って、千鶴子は尹到浩と結婚しました。


 1945年、第二次世界大戦が終結すると、韓国は日本から独立します。





 こうなると、日本人である千鶴子に身の危険が及びます。





 一時、息子とともに日本に帰国しましたが、父親を忘れられない息子の様子を見て、再び韓国に渡りました。





 ところが、不幸にも尹到浩はすでに別の韓国人女性と再婚していたのです。


 言葉に代え難いショックを受けたことでしょう。





 ここで彼女は韓国に骨をうずめる覚悟で、施設「木浦共生園」 に命を捧げる道を選択したのです。




 1950年、朝鮮戦争が勃発します。

 冷戦の米ソ代理戦争ですが、不幸にも朝鮮民族どうしの戦いになってしまいました。




 木浦にも北朝鮮軍が迫りました。



 このとき尹到浩は北朝鮮軍に味方したと疑われ、韓国軍に拘束されてしまいます。




 3ヵ月後に戻りますが、当時300人いた子どもたちの食料を調達しに出かけて行方不明になりました。



 千鶴子は嫁入り道具を売り払い、近所の家々にリヤカーを引いて訪ねて歩いては、食料の寄付をお願いして回りました。




 施設に戻ってからは食事の支度はもちろん、子どもたちの世話まで、寝る間を惜しんで働き続けました。



 木浦の人々から見れば、千鶴子は外国人女性であり、かつての敵国出身者です。




 しかし、そのひたむきな姿に次第に共感者が現れはじめ、中には協力を申し出る人も出るようになりました。



 そして苦節30年、木浦共生園からは3,000人を超える子どもたちが社会に旅立ち、施設は現在も受け継がれています。





 千鶴子が亡くなったのは1968年。

 葬儀では、3万人の人々が彼女を見送りました。





 戦争孤児たちは被差別の立場にあります。

 彼らとともに生きる課題を共有して、生涯をかけてともに闘った田内千鶴子。





 日本では、まだあまり知られていませんが、僕はもっと多くの人々に知ってほしい、熱き生涯をおくった女性だと思います。