8 湯川秀樹 (1907 ~1981)





~外国人差別を乗り越えて世界連邦運動をおこした物理学者~





 日本初のノーベル賞受賞者として有名な京都の理論物理学者ですね。

 物質の最小単位である原子核内部の研究です。




 陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる「中間子」 の存在を理論的に予言しました。




 この理論の正しさは後に証明され、世界中から認められています。


 同時に、僕が彼の物理学と同じくらいに注目していることがあります。





 それは、豊かな人権感覚に基づいた「世界連邦運動」 です。





 1907年、湯川は東京の麻布で地質学者・小川琢治の三男として生まれました。

 1年と2カ月たつと父の仕事の都合で京都に移住しました。





 一時大阪や西宮に住んだこともありますが、人生の大半は京都で過ごしています。


 少年時代の湯川はあまり目立たない存在であり、物心がつくとほとんど口を利きませんでした。





 面倒なことはすべて「言わん」 の一言で済ませていたため、「イワンちゃん」 と呼ばれたこともありました。



 1929年、京都大学の研究室の副手になり、後に京都大学と大阪大学の講師を兼担するようになりました。




 教え子の間では、湯川は声が小さく講義はかなり難解であったと伝えられています。



 時代はちょうど、満州事変から日中戦争、第二次世界大戦へと突入していく戦中の時期にあたります。




 関係する国どうしで互いに外国人差別、民族差別が横行し、「敵国憎し」 が当たり前の時代だったのです。





 湯川も京大グループにおいて、日本の原子爆弾開発に関与した時期もあったほどです。


 戦後、ある一人の人間との出会いで、湯川は目覚めます。





 相手はアインシュタインです。





 「罪もない日本人を原爆で殺傷して申し訳ない」


 と涙を流して湯川に詫び、




 「核兵器の存在を許しておけば、人類は滅亡してしまうだろう」

 と強く訴えたのです。




 1955年、湯川は核兵器による人類絶滅の危機を訴えた「ラッセル=アインシュタイン宣言」 に共同署名しました。




 さらに国内では「世界平和アピール7人委員会」 を結成して平和運動を展開したのです。





 湯川は断言しています。




 「何が国益であるとか、何が正義の戦いか、というような部分的、相対的な価値判断を越えて、核兵器は人類全体に破滅的打撃を与えるが故に、絶対悪であると考えるほかなくなった」





 そして、核兵器による人類滅亡を回避するには「世界連邦」 を創設するしかないという信念のもとに世界連邦運動を進めました。





 「国家は一切軍備を持たず、主権の一部を世界連邦に移譲し、世界法に則って世界連邦が諸国を主導していく」 というものです。





 これが実現すれば、戦争も核兵器も必要なくなるでしょう。





 最大の人権侵害が回避できるということになりますね。

 僕はこの意見に深い共感を感じています。





 同時に、そのために必要なことの一つとして、一人一人の人間が、人種差別や民族差別、外国人差別などの「差別意識から解放」 されることが大切だと思います。





 21世紀現在の世界の現実から見ると長い時間がかかりそうですが、一歩一歩少しずつでも近づいていくべきだと考えています。





 「科学者はスペシャリストである前にヒューマニストであるべきだ」




 この一言に、湯川の基本的人権を大切にした生き方が凝縮されているのではないでしょうか。




 1981年6月、彼は第4回科学者京都会議を主催し、健康がすぐれないにもかかわらず、車椅子姿で出席して核廃絶を訴えました。




 同年9月、74歳で亡くなるまで訴え続けたのです。




 湯川やアインシュタインから学ぶことは、物理学だけではないと考えるのは僕だけでしょうか。
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7 白洲次郎(しらすじろう) (1902 ~1985)





~占領下の敗戦国でGHQと対等に闘った昭和の快男子~





 戦争に負けてしまえば、戦勝国に対して卑屈になり、ペコペコする。

 戦勝国は敗戦国の国民を見下し、差別的な態度で上から目線で接する。




 戦争を体験したことのない僕たちにも、容易に想像できることですね。




 そんな中でも人間の尊重を見失わず、日本占領下のアメリカを中心とするGHQ (連合国軍総司令部) に対して、対等に渡りあった快男子がいました。




 白洲次郎です。




 「クールジャパニーズ」

 「従順ならざる唯一の日本人」




 「マッカーサーと闘った男」

 などと、さまざまな形容詞で呼ばれた、さっそうとした国際人でした。




 兵庫県芦屋市の貿易商の御曹司として生まれた次郎は、野生児で不良だったといわれています。




 身長180センチメートルの長身で、10年間のイギリス留学時代は高級車2台を乗り回していました。




 しかし、このときに英国紳士のマナーや生活スタイルを身につけ、1928年、父が経営する白洲商店倒産とともに帰国し、英字新聞の会社に勤めました。




 太平洋戦争前年、日米開戦の不可避とその敗北を予測した次郎は、サッサと会社を辞めてしまったのです。



 「戦争になれば必ず日本は敗れ、空襲で東京も焼け野原になる。




 食料がなくなるから、田舎で農業をやる」

 こう言って、現在の町田市にあたる郊外の村に、わらぶき農家を購入して引っ越したのでした。





 彼の予想は見事に的中していますね。

 無謀な戦争に走り、日本史上最大の痛い目にあったことは皆さんご存じのとおりです。





 敗戦とともにすべてが終わったかのように思えますが、実は勝負はここからだったという考え方もあると思います。





 戦後、旧知の吉田茂外相から頼まれて、終戦連絡事務局参与という役目に就きました。

 GHQによる占領政策の中での対等の勝負が始まったのです。





 最高司令官マッカーサーの参謀で、GHQナンバー2であったホイットニー民生局長との初対面では、こんな話があります。





 彼が次郎を見下したような態度で言いました。

 「大変うまい英語ですね」





  次郎は即座に切り返しました。


  「あなたも、もう少し英語を勉強すればうまくなりますよ」

 



 1951年、次郎は歴史上有名なサンフランシスコ講和会議に、特別顧問として日本全権吉田茂の一行に加わって渡米することになりました。





 飛行機の中では全員スーツ姿でしたが、ただ一人次郎だけはTシャツ、ジーパンでした。




 「アメリカはたかだかTシャツ、ジーパンの国。

 たいしたことないよ」




  と言って笑っていたそうです。




 講和会議では、首相になっていた吉田茂が英語で受諾スピーチをする予定でした。




 しかし、次郎は


 「講和条約は対等の関係だ。





 日本語で演説をするべきだ」




 こう主張して、随員を市内の中華街に走らせ、筆と巻紙を買いました。

 そして日本語に書き直させたのです。




 1959年、白洲次郎は57歳になり、政財界の第一線から潔く退きました。

 いつまでも第一線にしがみつかない生き方を選んだのです。



 
 その後は「カントリー・ジェントルマン」 にもどって、農業をやりながら趣味に没頭しました。

 悠々自適の生活をして自由に生き、80年を超える、当時としては長い人生を全うしたのです。




 彼の遺言は一言でした。




 「葬式無用、戒名不要」




 徹底して解放された人だったのですね。





 差別意識から解放されていたからこそ、世間体や窮屈な常識にとらわれない、自由な生き方を貫き通すことができたのだと思います。




 敗戦・占領下という困難な時代にあっても、戦勝国からの差別に負けないで、自分という人間の意思を大切にした白洲次郎。





 痛快な生き方として共感できると思いませんか。
6 杉原千畝(ちうね) (1900 ~1986)





~ユダヤ民族差別を乗り越えて6,000人の命を救った外交官~





 「上司の一つの職務命令」  と 「罪もない6,000人の命」  どちらが大切でしょうか。




 命令に背いて自分はクビになっても、6,000人の命を救った外交官がいます。

 第二次世界大戦の混乱の中、この勇気ある決断をした人が杉原千畝です。




 彼の行動は政府や外務省から否定され、長い間あまり知られていませんでした。

 しかし、死後になってその名を広く知られるようになりました。




 近年、歴史の教科書や資料集でも取り上げられるようになった杉原千畝とは、いったいどんな人物だったのでしょうか。




 1900年、彼は岐阜県で生まれています。

 父親は「医者になれ」 と命じますが、千畝は英語が得意で、英語教師を志していました。




 命に背いたため父親を怒らせ、大学時代は上京しますが苦学せざるをえませんでした。



 この父親は職業差別をしていたと考えられますね。




 そんなとき、外務省の官費留学制度があることを知り、応募して合格しました。

 1924年、外務省の書記生として、ハルビンの日本領事館の満州外交部に派遣されました。




 しかし35年、彼の率直な感想は、以下の通りです。

 「軍人たちの狭い了見による判断を目の当たりにして、嫌気がさした」




 昇進の可能性も棒にふって、あっさりと本国の外務省に復帰してしまいました。



 父親といい軍人といい、彼は権威をふりかざす人間に対して反発し、自分の信念をもって生きる人だったのですね。




 現在の官僚には「多くないタイプ」 だと思います。



 第二次世界大戦が始まると、ヒトラー率いるドイツのナチスはユダヤ人の迫害をはじめます。




 「ユダヤ民族である」

 ただそれだけの理由で、次々に捕えては強制収容所に送り、毒ガスで容赦なく殺しました。




 恐るべき民族差別です。




 1940年、当時千畝がいたリトアニアの日本領事館に、たくさんのユダヤ人たちが押しかけました。




 日本を通って「ユダヤ人迫害のない国へ逃れるためのビザの発行」 を求めて殺到したのです。


 領事代理だった千畝は、日本の外務省にビザ発行の許可を求めました。




 答えは「NO」 です。




 同盟国のドイツに気を使っていたのですね。




 「外務省の命令に背いてもビザを出す」



 これが千畝の結論でした。




 朝早くから夜遅くまで昼食もとらず、万年筆が折れても必死でビザを書き続けました。


 署名で手が疲れるとゴム印をつくり、ユダヤ人の代表者にも書類作りを手伝ってもらいました。




 こうして、領事館の閉館時間を延長して作業をしました。


 1941年8月3日、新しくできたリトアニアのソビエト政権は、領事館を即刻閉鎖するよう千畝に厳命しました。





 家族とともにカウナス駅を離れる千畝は、一人でも多くの人にビザを発給しようと、汽車の窓からビザ発行の書類を渡そうとしました。




 すごい信念ですね。




 この風景が目に浮かんでくるようです。




 できることなら、僕もその場に行ってお手伝いをしたかったです。


 しかし、当然のことながら千畝は外務省をクビになりました。




 戦後、百貨店やNHK、貿易会社など他の職業を転々としています。


 最終的に一家は鎌倉に定住しました。




 そのころから恩を忘れないユダヤ人たちが、次々に千畝を訪ねています。




 イスラエル政府は彼をたたえ「諸国民の中の正義の人」 という賞を贈り、記念切手に千畝の顔を載せました。





 2000年10月、当時の河野洋平外務大臣は、「人道的で勇気ある判断だ」 と言い、千畝の行為を正式に認め、外務省の対応を謝罪したのでした。





 彼の死後14年たっていました。




 「もっと早く認められていたら」





  こみ上げるような無念の思いに駆られます。




  このように思うのは、僕だけでしょうか。
5 宮崎松記 (1900 ~1972)





~インドのハンセン病と闘った日本のシュバイツァー~





 インドに生き、インドで死んだ日本人医師です。


宮崎松記(まつき) はハンセン病の治療にその生涯をかけた数少ない人物の一人でした。




インドでは、今でも彼は次にように呼ばれ、尊敬されています。



 「ドクター・サァブ (大医者さま)」 



 「日本のシュバイツァー」





 長い間「不治の病」 として恐れられ、数々の誤解から病気差別の対象になっていたハンセン病。

 松記は治療可能な病であることを実証した人でもありました。




 そもそもハンセン病とはどんな病気なのでしょうか。




 古くは「癩病」(らいびょう) ともよばれた誤解を生みやすい病気です。



 その症状が顔に出たり、背中に潰瘍が出たり、掌がない、指がないなど、一目でただ事ではないと感じられる目立つ症状が特徴です。



 「絶対治らない」 「遺伝病」 「感染力が強い怖い病気」



 このような偏見を多くの人々にもたれたため、法律により強制隔離され、正面から取り組む医師も、決して多くはありませんでした。




 宮崎松記は熊本県八代市の井上家の3男として生まれました。

 その後、宮崎家に養子に出されています。




 高校時代に、学校の裏にあった回春病院で、ハンセン病患者の診療に献身的に働いていたハンナ・リンデル女史に出会いました。




 高校の英語教師でもあるリンデルが、「私の子どもたち」 と患者を慈しみ、献身的に看護しているその姿に感動したのです。




 この出会いが、松記をハンセン病に一生を捧げる決意をさせたのです。

 1941年、黒髪校事件が起こります。




 当時、回春病院である熊本県菊池恵楓園の園長だった松記は、粘り強い交渉の末、患者の子ども58名を一般の小中学校へ通学できるようにしました。




 ところが同校PTAの一部の者により入学が阻止されたのです。




 無知と偏見がなせる差別事件ですね。




 インドではもっと深刻な状況がありました。

 日本ではハンセン病患者が減り始め、1万人になりましたが、インドでは250万人もいたのです。




 1959年、松記はインド行きを決意しました。

 これには多くの寄付金が集まり、ネルー首相からも引き続きインドでの医療活動を要請されました。




 松記はついに定住します。

 病院だけでなく、車で移動しながら各地をまわる「移動診療」 も開始しました。





 診療一筋に生きた人なのですね。




 ある日の風景です。

 順番待ちの患者が、長い列をつくって十重二十重に取り囲んでいます。




 真ん中にはきちんと蝶ネクタイをつけた服装で、白髪をふり乱し、患者の体のあちこちに触れている宮崎松記の姿がありました。




 素手で潰瘍だらけの背中をおさえ、血膿を拭き取り、顔を寄せて診療に熱中していました。

 まわりでは掌がない、あるいは指がない患者たちが医師の姿を見上げて合掌しているのです。




 多い時は一日500人もの患者を診療しました。

 10年間で延べ80万人ものハンセン病患者と正面から向き合ったのです。




 差別意識から解放された人でなければ、とてもできることではありませんね。




 しかし1972年、不幸にも松記は日航機の飛行機事故により、デリーで突然その生涯を閉じることになったのでした。




 近年日本では、ハンセン病患者に対して、ホテルの宿泊を拒否する事件が起こっています。




 差別はまだなくなっていません。




 後世に生きる僕たちは、宮崎松記の解放された生き方に学ぶべきことがたくさんあるのではないでしょうか。