4 滝川幸辰(ゆきとき) (1891 ~1962)




~学問の自由のためにファシズムと闘った岡山の刑法学者~




 「汝の道を進め、人々をして語るにまかせよ」



滝川幸辰(ゆきとき) の信条です。

自由主義に基づいた学説で、多くの大学の教授たちや学生たちからも信頼されていました。



大学の総長も務めた法学博士で、昭和を代表する学者の一人です。



その彼が休職処分を強制されて大学を追われてしまいました。

さらに、その著書も発禁処分にされてしまったのです。




これはいったいなぜなのでしょうか。




 1891年、幸辰は岡山市で生まれました。

しかし、父親は彼が7歳のときに腸チフスで病死してしまいました。



幼くして不幸に直面しています。



やむを得ず、父のたった一人の弟である叔父に引き取られて育ちました。

家の都合で中学校は神戸、その後大阪の中学校へ転入学しています。



1912年には京都大学に入学し、卒業後は助教授、ドイツ留学を経て、同大学の教授として活躍していたのです。



 ところが、事件は突然起こります。



1933年、当時の政府は幸辰の著書「刑法読本」 を発禁処分とし、当時の小西京都大学総長に対して、幸辰の罷免を要求したのです。



小西総長はこの要求を拒否しましたが、文部省は文官分限令により、強引に幸辰を休職にしました。



これに抗議して、多数の教授たちが辞職し、1,300人もの学生たちも京大を退学しました。



すさまじい抵抗ですね。




これは歴史上「滝川事件」 と呼ばれています。



 では、当時の文部省はいったい幸辰の何を問題にしたのでしょうか。




1 「犯罪は犯人の生活状態を改善しなければ少なくならない。

  刑罰によって犯罪をなくすことは不可能」


2 「姦通罪について、妻の姦通罪だけを犯罪にし、夫の姦通を不問に付すのはよくない」


3 「国家は革命家を敵として取り扱うのはよいが、道徳的に下等な人間として処置してはならない」




このほかに、トルストイの説を肯定しています。



その内容は

 「犯人への報復的な刑罰を科すよりも、同情と理解をもって人道的に扱うべきだ」

 というものです。




 犯罪で、被害者に対して思いを寄せ、温かい視線を向けることは第一であり、最優先であることは言うまでもありません。





 しかし、ともすると加害者が制裁を受け、精一杯の償いをしても、人間であるということを忘れられ、基本的人権までもが無視されたりすることが多々あったことも事実です。




 問われるのは人権感覚です。




ジャヤワルダナの言葉です。




 「憎しみを憎しみで返しても解決にはなりません。

 愛で解決することが必要です」




 この言葉のおかげで、僕たちの日本は太平洋戦争の敗戦後植民地にされず、賠償金も取られずに、独立を回復することができたのです。




 さて当時の文部省は、幸辰の主張を「共産主義的な危険思想」 として、発禁と休職を断行しました。




はたして、危険なのはどちらなのでしょうか。




この年1933年、日本政府は国際連盟を脱退します。

世界から孤立していくわけですね。




その後、日中戦争、太平洋戦争という「戦争」 という名の、最大の人権侵害を繰り返しました。

そして国内、国外をあわせて数千万人の尊い命が犠牲になりました。




最悪の事態です。




 危険なのは当時の政府・文部省であることは明白です。




 その証拠に、政府はつぶされ、幸辰は戦後再び復活して、京大の総長として活躍することになったのです。




  背景にあるのはファシズムですね。




 軍部による独裁をもくろんでいるわけですから、軍部にとって都合の悪いもの、目障りなものは何でも排除されてしまったのです。




共産主義も、自由主義も排除です。

研究の自由、学問の自由も、上から目線の権力で押さえつけたのです。




 この滝川事件は、日本の「反ファシズム運動の最後の輝き」 と言われています。




幸辰とともに自由のために闘ったたくさんの学生や教授たち。

多くの文化人やマスコミも味方でした。




とても大切なことが学べる歴史上の大きな事件の一つではないでしょうか。
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3 柳 宗悦(むねよし) (1889 ~1961)





~朝鮮民族差別を乗り越えて白磁の美を見いだした民芸館長~





 「朝鮮の独立運動は正しい。

  愚かなのはそれを暴力で弾圧して人権侵害をくり返す日本の方である」




 この勇気ある発言をした人は、柳宗悦といいます。




 1919年、日本の植民地にされていた朝鮮半島で、歴史上有名な「三・一独立運動」 が起こりました。




 当時朝鮮を「遅れた国」 「貧しい国」 としか見ない、差別的な日本人が多数派でした。

 そんな中で、相手の立場に立ち、人間を敬愛し、尊重する態度を堂々と示した数少ない日本の知識人の一人です。





 宗悦は東京都港区で生まれ、1910年、志賀直哉、武者小路実篤ら学習院の仲間たちと、文芸雑誌「白樺」 の創刊に参加しています。




 1914年、韓国で小学校教師をしていた人から土産としてもらった朝鮮陶磁器に注目しました。



 その美しさに魅了され、後に 「素朴な器にこそ驚くべき美が宿る」 と語りました。





 白磁はその代表です。





 プロの芸術家ではなく、無名の職人による誠実な手仕事を「民芸」 と名付けました。





 1916年以降、宗悦はたびたび朝鮮半島に渡り、朝鮮工芸に親しみました。

 朝鮮の人々に敬愛の心を寄せ、当時植民地だった朝鮮に対する日本政府の施策を批判しました。





 外国語である日本語を学校で強制、氏名を日本風にさせる「創氏改名」、労働者としての強制連行、従軍慰安婦など、人権侵害のオンパレードです。





 このような状況で、朝鮮の人々が黙っているはずがありません。



 1919年、独立運動が起こったのは当然のことですね。





 200万人以上が参加し、日本軍や警察との衝突で死者8,000人、負傷者16,000人、逮捕者53,000人におよぶ大事件だったのです。




 残念なことに、当時の日本国民は、その多くが朝鮮半島で起こった単なる「暴動」 と見なしていたのです。



 民族差別を乗り越えて、人間としての自由と平等を求めた戦いであったことは明らかですね。




 「三・一独立運動」 は起こるべくして起こった運動なのです。




 1921年、宗悦は日本で最初の「朝鮮民族美術展覧会」 を開催しました。

 24年にはソウルに「朝鮮民族美術館」 を開設しています。




 そして、36年には東京・駒場に「日本民芸館」 を開設しました。




 ここではアイヌ文化や沖縄文化の尊重も説き、沖縄から北海道まで全国各地を巡り、陶磁器、染織、金工、紙など、さまざまな分野の中から、魅力的な品々を集めました。




 どれも名の知れぬ民衆によって生み出されたものです。




 アイヌも沖縄も、朝鮮民族と同じように被差別の立場に立たされた人々です。

 柳宗悦はこれらの人々を対等に扱い、同じ人間として尊敬し同じ目線で敬愛しました。





 人権感覚豊かな人だったのですね。





 彼は言います。



 「吾々とその隣人との間に永遠の平和を求めようとなれば、吾々の心を愛に浄めるべきである。

 しかし日本は不幸にも刀を加え、ののしりを与えた。




 これが果たして相互の理解を生み、協力を果たし、結合を全うするであろうか。




 いや、朝鮮の全民が骨身に感じるところは限りない怨恨である、反抗である、憎悪である、分離である。




 独立が彼らの理想となるのは必然な結果であろう。

 彼らが日本を愛し得ないこそ自然であって、敬い得るこそ例外である。




 人は愛の前に従順であるが、抑圧に対しては頑強である。

 日本はいずれの道によって隣人に近づこうとするのであろう」





 僕が現在居住する新潟県の我家では、過去3回にわたって、延べ6人の韓国の少女たちや大人たちのホームステイを受け入れてきました。




 寝食を共にした彼女らは皆、明るくさわやかで礼儀正しく、思いやりのある愛すべき人たちです。

 日本の良さについても、一生懸命学ぼうとしていました。





 とてもよい隣人であり、仲間たちだというのが僕の実感です。

 国際理解を大切にすることで、戦争という最大の人権侵害を防ぐことができます。





 柳宗悦の生き方に共感できる人は僕だけではないと思います。





 近年歴史の教科書にも登場しはじめ、大いに学ぶべきことがたくさんある人物ではないでしょうか。
2 今村 均 (1886 ~1968)




~民族差別を乗り越えてインドネシア独立運動に貢献した日本の軍人~




 第二次世界大戦中の軍人というと、僕は正直言って、良いイメージを持てる人物があまり浮かびません。



 しかし、今村 均(いまむらひとし) は別です。




 いわゆる「戦争犯罪人」 でありながら、人権感覚豊かな人だったと思うのです。


 実力がありながら、常に被差別の人々の立場に立ち、ともに苦楽を享有できる人物でした。




 その証拠に、恨まれることが多い日本の軍人の中でも、彼は今でもインドネシアの人々から尊敬されているのです。




 均は宮城県仙台市で生まれています。

 9歳まで夜尿症を患っていました。




 そのせいか、青年期になっても夜に何度もトイレに立つことからくる睡眠不足に苦しんでいました。



 学校での授業中に睡魔が襲ってくるので、小刀で自分を突いたり、唐辛子をこっそり噛むなどしましていました。




 旧制の新発田中学校(現在の新潟県立新発田高校) を首席で卒業し、陸軍大学校も首席で卒業して、最終的には陸軍大将になった優秀な軍人です。




 日中戦争では中国大陸を転戦し、太平洋戦争ではインドネシアのジャワ攻略戦に臨みました。

 当時のインドネシアは、オランダの植民地支配を受けていたのです。




 帝国主義による民族差別に苦しめられていたことは明白ですね。




 後のインドネシア大統領スカルノも、オランダ軍に拘束されて、政治犯として監禁状態にありました。



 このとき均は、たった4万の兵で10万の連合軍を降伏に追い込み、ジャワ占領に成功したのです。




 均は直ちにスカルノをはじめとするインドネシア人の政治犯を釈放し、彼らの意思を尊重しながら統治にあたりました。




 「われわれ日本民族の祖先の中には、この国から船で渡ってきた人々もいるのです。

 あなたがたと日本人は兄弟です。




 われわれはあなたがたに自由を得させるために、オランダ軍と戦うのです」





 多くの日本軍人が高圧的な態度で、占領した地域の住民を押さえつけていましたが、均は住民を同胞としてわけ隔てのない政策を進めました。




 差別意識から解放された人でなければできることではありませんね。




 やがて均は、南太平洋のラバウルに転戦し、そこで終戦を迎えることになります。




 日本軍不利な状況の中で持久戦に持ち込み、ここで孤立していた日本兵を救い、7万人の人々を帰国させることができました。




 持久戦では自給自足のために、ジャングルや草原を耕し、均も一緒に開墾しました。

 大将が率先して労働し、将兵たちは一致団結してアメリカ軍の攻撃を防ぐことができました。




 常に部下とともにある陸軍大将だったのですね。




 日本の敗戦により、均はオーストラリア軍に捕えられ、ジャカルタの刑務所に収容されました。



 均はマッカーサーに手紙を書いています。




 「B、C戦犯となった私の元部下らは、巣鴨よりずっと環境の悪いパプアニューギニアのマヌス島の刑務所に入れられているのに、私一人がここでこんな待遇を受けることはできない。




 願わくば、部下たちと同じ刑務所に移送してくれないだろうか」




 この手紙にマッカーサーは脱帽し、即刻許可したのです。




 1954年、やっと釈放されました。

 しかし、その後も元部下たちの支援に尽力し続けました。




 戦争という逆境の中で、敵の連合軍からも現地の住民からも慕われた軍人。




 大本営をはじめ、日本軍幹部からの非難をはねつけ、




 「人間を人間として大切にする」




 このことを徹底して貫き通した生き方に共感できる人は僕だけではないと思います。




 今村均は、もっと日本や世界に広く知られてもよい人物なのではないでしょうか。
1 犬養 毅 (1855 ~1932)





~憲政擁護会を組織し閥族からの差別と闘った首相~





 歴史上有名な、「五・一五事件」 で暗殺された総理大臣ですね。


 「問答無用」 の一言で、拳銃を撃たれたと伝えられています。





 犬養 毅(いぬかいつよし) は、満州事変に対して明確な反対の姿勢を示した首相です。





 この姿勢が正しかったことは、その後の歴史が証明していますね。




 この事件以来、軍部主導の政治が強化され、「15年にわたる戦争」 を経て、日本は二度とくり返されてはならない破滅のどん底を味わう結果となってしまいました。





 毅は岡山県の大庄屋の次男として生まれました。


 16歳のとき、倉敷にあった藩校・明倫館に入学し、その後、西洋の先進的で合理的な学問に興味を抱くようになりました。




 21歳で上京して「郵便報知新聞」 に寄稿し、その原稿料で慶応義塾に学ぶことができました。




 あの有名な福沢諭吉の教えを受けたわけですね。


 犬養毅の人権感覚はこのときに養われたのではないかと僕は考えています。




 1882年、大隈重信の立憲改進党の創立に参加し、87年には、後藤象二郎の大同団結運動に参加しています。



 つまり、国民の立場に立って、自由民権運動に参加していたのですね。





 衆議院議員に当選すると、藩閥政府攻撃の一勢力として議会で活躍し、雄弁家として知られるようになりました。



 1912年の第一次護憲運動では先頭に立って活動し、尾崎行雄とともに「憲政の神様」 とまで呼ばれるようになりました。





 1924年の第二次護憲運動では、普通選挙の実施と政党内閣制の一般化を求めて活動し、大正デモクラシーをけん引しました。




 尾崎行雄とともに結成した「憲政擁護会」 は議会主導の民主政治を主張するものでした。





 これだけでも、犬養毅が国民の自由と平等のために闘った人物であることが容易に理解できます。



 基本的人権の視点から見て、日本史上なくてはならない政治家だったのではないでしょうか。




 1931年、ついに内閣総理大臣になって犬養内閣を発足させました。

 しかし同年、満州事変が勃発するのです。




 この事件は、関東軍による中国侵略であり、人権侵害です。


 中国が黙って見ているはずはありません。




 戦争になることは目に見えていました。

 毅は戦争をしてはいけない理由として、次のように明確に述べています。




 「徴兵で国民の自由を拘束し、秘密政治で国民の知る権利を奪うからである」




 さらに、主張しています。

「民主主義政治は、言論の自由と議会政治を通して初めて実現できる」




 1932年5月15日夕刻、海軍急進派の青年将校たちが首相官邸に乱入します。


 この突然の暴挙に首相は落ち着いて対応したといわれています。




 「まあ、せくな。撃つのはいつでも撃てる。

 あっちへ行こう。まあ、靴ぐらいぬいだらどうか・・・。



 話を聞こう」




 しかし、青年将校たちの返答は無情の一言 「問答無用」 でした。


 これでは話になりませんね。




 犬養毅は首相官邸で、無念の死を遂げることになったのです。




 僕が気になっていることは、歴史の教科書の記述です。




 この重大なできごとを、




 「軍部が台頭し、ファシズムが進行する中で、首相があっという間に暗殺された」


 という事実を淡々と述べている記述が多いことです。





 これではたまたま殺された悲運の首相という印象だけが残ってしまいますね。





 相手の立場に立って考えられる犬養毅は、人権感覚豊かな首相だったのではないでしょうか。




 彼から学ぶことはたくさんあると僕は考えています。
13 小林多喜二 (1903~1933)





~労働者解放の立場に立ち身分差別と闘ったプロレタリア文学の旗手~





 「蟹工船」 で有名な、プロレタリア文学の代表的な作家ですね。


中学校や高校の国語・歴史の教科書によく登場するので、作家名や作品名を知っている人は多いのではないでしょうか。




ペンを武器に、その優れた文学作品を通して、一般庶民の立場から、自由と平等を求めて権力と闘い続けました。




しかし、最後は「リンチ殺人」 に等しい拷問で命を奪われていたことをご存知でしょうか。




この時代はペンをとるのも命がけだったのです。


 多喜二は1923年、秋田県大館市で生まれました。




家は貧しい農家だったので、親を楽にさせるために苦学して、北海道の小樽で銀行員になりました。




21歳のときには、実家に仕送りをすることができる、安定した生活を営めるようになっていたのです。


ところが1928年、「3・15事件」 が起こります。




彼の日記は、次のように語っています。




 「雪に埋もれた人口15万に満たない北の国から、500人以上も引っこ抜かれていった。

 これはただ事ではない」




全国で数千人の反戦主義者が逮捕される、大弾圧事件だったのです。



 時は満州事変、日中戦争が起ころうとしている時代で、政府は着々と軍国主義の強化を進めていました。




多喜二は 「1928年3月15日」 という題名の小説を発表しました。


このことにより、国民は「特高警察」 の事実を知ることになります。




特別高等警察の略称で、政府に反対する思想や言論、行動を取り締まることを専門にした秘密警察です。




目を覆うような残虐な拷問をくり返し、たくさんの人々が一方的に殺されました。


 翌1929年、代表作の「蟹工船」 を発表します。




北洋でタラバガニを大量に水揚げする船は、そのまま船内で缶詰にすることができる 「走る洋上の工場」 です。


ところが労働者たちは奴隷のようにこき使われ、病気や死者が続出しました。




階級的な身分差別の結果ですね。




このような中で、労働者たちが権力者たちの人権侵害に対して立ち上がります。

一致団結してストライキを行い、労働者の権利を勝ち取っていくという内容の作品でした。




プロレタリア文学は、働く人々の自覚と要求に基づいた文学です。

しかし、当時の支配者、権力者にとっては都合の悪い作品だったわけです。




 1933年、多喜二はついに特高警察に捕まります。



 天皇への 「不敬罪」 だそうです。




当時共産党員でもあり、民主主義の実現と侵略戦争反対を掲げていたので、早々と目をつけられていたのです。



3時間におよぶ拷問により、29歳の若い命が奪われました。




 全面的な皮下出血、ぐらぐらになりわずかについている歯、コメカミの5~6か所の打撲傷。


 首に一周される深い溝、ばっちり割れそうにふくらみ上がった皮膚、破れた皮膚から顔を出した肉。




 釘を打ち込んだ15~16か所の穴の跡、指が逆になるまで折られた、作家の命である右の人差し指。




 凄惨な死体です。

 これらはいったい何を物語っているのでしょうか。




 特高の発表は、以下の通りです。

 「決して拷問したことはない。あまり丈夫でない身体で必死に逃げまわるうち、心臓に急変をきたしたもの」





 はたして、そうでしょうか。




その後、東大、慶応大、慈恵医大に圧力をかけ、遺体解剖を拒絶させました。




あげくの果てに、葬儀に来た人を次々に参列させないように拘束したのです。

そして特高の一人は、天皇からの叙勲を受けました。




 小林多喜二は、とても勇気をもって生き続けた人です。




この事件は二度とあってはならないことで、彼の死を無駄にしてはいけないと考えるのは僕だけではないと思います。