12 知里幸恵 (1903~1922) 





~民族差別を乗り越えて文化を復興させたアイヌの少女~





 死を覚悟して上京した19歳の少女です。


 知里幸恵(ちりゆきえ) は、その後二度と生きて、故郷の北海道の土を踏むことはありませんでした。




 アイヌ民族差別と持病の心臓弁膜症と闘いながら、その短い生涯を民族の自由と平等にかけた人です。




 差別を乗り越える、民族の誇りを取り戻す、そして


 「人間の本当の豊かさとは何か」



 を死の間際まで問い続けました。




 彼女の命と引き換えに出版された一冊の本が 「アイヌ神謡集」(しんようしゅう) です。




 「その昔、この広い北海道は私たち先祖の自由の天地でありました」


 これは高らかな 「先住民族宣言」 ですね。




 1903年、幸恵は北海道登別市で生まれました。

 富国強兵をめざす当時の明治政府は、アイヌが暮らす土地を次々に奪い取っていたのです。




 日本語を強要され、名前も日本式に改めさせられ、幼いころからアイヌは劣った民族だと教え込まされていました。



 典型的な民族差別ですね。




 文字はありませんでしたが、祖母が謡うアイヌの叙事詩「カムイユカラ」 を聞きながら、言語と感受性にすぐれた少女に成長していきました。




 1910年、7歳になった幸恵は、旭川の小学校に入学しました。

 ここは、アイヌの子どもを教育により和人に同化させるための 「旧土人学校」 でした。




 この言葉自体が差別的であることは一目瞭然ですね。




 幸恵は、見下されることのない立派な日本人になろうと努力し続けますが、ただアイヌというだけで、和人からの差別にさらされるのでした。




 1917年、14歳になった幸恵は、旭川の女子職業学校に合格しました。

 しかし、初めての唯一のアイヌの生徒である彼女は、同級生に受け入れられず一人孤立します。




 「ここはあんたのくるところじゃないわよ」




 冷たい排除の差別ですね。




 幸恵の日記です。

 「目に見えない厚い壁が築かれている。くやしい・・・」




 それでも必死に学び、作文と習字が特に得意な、成績優秀な生徒に成長しました。

 もちろんアイヌ語も日本語も自由に話すことができ、ローマ字も習得しました。




 日本語は彼女にとっては外国語と同じですね。




 1918年、一人の人間との出会いが、幸恵の生き方を変えます。

 東京から旭川にやってきた言語学者、金田一京助(きんだいちきょうすけ) です。




 彼は幸恵の祖母からアイヌの文化を必死に学んでいたのです。




 「あなたたちアイヌの伝承は、貴重なものです。

 あなた方が決して劣った民族ではないという何よりの証拠なのです」




 この言葉がきっかけになり、幸恵は金田一の下で、一冊の本を出版して世に問うために上京することになりました。




 1922年5月、東京で幸恵が見たものは、物に振り回され、余裕を失って忙しそうに歩きまわる人々でした。



 8月、無理を重ねた幸恵は心臓発作を起こしますが、アイヌ語をローマ字で表記し、日本語に訳す執筆を続けます。




 9月18日、原稿の最終チェックをすべて終え、「アイヌ神謡集」 がついに完成しました。




 そして、正にその日の夜、幸恵の容態は急変し帰らぬ人となったのです。

 あまりにも短すぎる、わずか19年の生涯でした。




 金田一京助の回想です。




「語学の天才」


「天が私に遣わしてくれた、天使のような女性」




 アイヌの心豊かなカムイユカラの叙事詩は、その後フランス語、英語、ロシア語にも翻訳されました。




 まぎれもなく、アイヌは北海道の先住民族です。




 そして同じ日本に住む、同じ人間です。




 互いに学びあえることが、現在もそして将来も、たくさんあるのではないでしょうか。
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11 西光万吉 (1895~1970)





~自由と平等を求め部落差別に立ち向かった水平社宣言の起草者~





 「差別はどこまでも追いかけてくるのか。

 ならば、このまま逃げていてもだめだ」




 西光万吉(さいこうまんきち) の生き方が変わった瞬間です。

 一時は差別に悩み、自殺まで考えたこともありました。




 しかし逃げずに、仲間とともに自由と平等のために、部落差別に立ち向かう生き方を選んだのです。




 近年、高校日本史の教科書で取り上げられるようになった彼は、日本で最初の 「人権宣言」 とよばれる 「水平社宣言」 を起草した人物です。




 万吉は本名を清原一隆といい、奈良県御所市で生まれました。

 家は西光寺という寺院でした。




 山と川にはさまれた被差別部落で、せまい道が曲がりくねり、くずれかかった家が軒を寄せ合うように建っていたところです。


 現在はお寺もきれいに修築し、手前には 「水平社博物館」 が建っています。




 彼は幼いころから絵や読書が好きで、小学校では特に国語と図工が得意でした。

 しかし、万吉や同じ部落の子どもたちにとって、小学校は決して楽しいところではありませんでした。




 クラスの同級生たちからは、遊びの時も勉強時間でも 

 「お前たちはあっちへ行け」 




 と言って仲間に入れてくれませんでした。



 典型的な 「排除の差別」 ですね。




 中学校では友達ができても、万吉が被差別部落出身と知っただけで、「おはよう」 とあいさつしても、返事もしてくれません。



 あげくの果てに、教師も万吉に出会うと、ぷいと横を向いてしまうことがありました。




 だから奈良県の中学校は2年であきらめ、京都の中学校に転校しました。

 しかし、京都の学校でも、さらに美術を学びに行った東京でも部落差別を受けたのです。




 差別のない新天地を求めて、海外移住を計画したこともありました。


 病気をきっかけに阪本清一郎に連れられて奈良にもどった万吉は、仲間たちとの学習会に参加するようになりました。




 ここで大事なことに気づきます。




 差別は 「する側の問題であって、される側の問題ではない」 ということです。




 「差別に負けてはならない。

 みな同じ人間ではないか。




 人間が人間を大切にしていく世の中をつくろう」




 仲間たちとともに立ち上がって、部落解放運動のための組織を立ち上げることになったのです。



 これが 「全国水平社」 です。




 1922年、3月3日、京都の岡崎公会堂に数千人の人々が集まり、万吉が起草した 「水平社宣言」 が読み上げられました。




 この宣言は現在、中学校や高校の教科書で扱われ、水平社の精神も部落解放同盟の活動に受け継がれています。




 この宣言の中で僕が特に重要だと思うことの一つは 「融和運動」 のまちがいを指摘している点です。




 「部落の人たちは貧しいから助けてあげる」

 という考え方のこの運動は問題がありました。




 これでは部落の人たちを見下し、他人事として 「同情という名の差別」 をしていることになります。



 水平社宣言ではこのことを明確に指摘しています。




 僕自身の反省も含めて、たくさんの人たちが長い間なかなか気づかなかったことですね。

 部落差別はまちがった偏見によるものということは、国際連合からも指摘されています。




 今でも全国で約300万人もの人たちが、この不合理な差別の当事者になっています。



 しかし、現実には部落外の人たちの中には、「自分たちの問題」 であることに気づかないでいることが多々あります。




 就職差別や結婚差別も、毎年後を絶ちません。




 「人の世に熱あれ、人間に光あれ」




 としめくくった水平社宣言から学ぶことはたくさんあるのではないでしょうか。
10 市川房枝 (1893~1981)




~治安警察法と闘い女性の解放をめざした熱き婦人運動家~




 その飾らない人柄。

 素朴で化粧は一切しない。



 口に出したことは必ず実行する。

 できなければ責任をとる。




 女性の解放に生涯をかけた、まっすぐな熱き情熱に、時代を超えて多くの人々から共感されています。




 叙勲を固辞したことでも有名ですね。




 婦人参政権は現在では当たり前になりましたが、その獲得になくてはならない人物が市川房枝です。


 差別を乗り越えて、自由と平等のために闘った、本物の数少ない女性運動家だと思います。




 愛知県一宮市の農家で生まれました。

 「もう女はたくさん、生まれてこなくてもよかったのに」




 とよく言われたことを本人が語っています。




 6人の子どもの中で4番目。

 姉も二人いました。




 父親は気が短くかんしゃく持ちで、母親を握りこぶしや薪の棒で、たびたび殴りつけました。

 泣きながら母親をかばうことになるのです。




 母親の言葉です。




「今までに何度里へ帰ろうと思ったかしれないが、おまえたち子どもがかわいいから耐えているのだ。

 女に生まれたのが因果だから」




 ここに市川房枝の解放運動の出発点があります。




 「なぜ女に生まれたのが因果なのか、なぜ女は我慢しなければならないのか」

 という疑問です。




 1912年、房枝は名古屋に新設された愛知県女子師範学校(現在の愛知教育大学) に入学しました。



 新校長が力を入れようとしたのは 「良妻賢母教育」 でした。



 ところが彼女は反発します。


 同級生28名とストライキを起こし、授業には出るが無言で答弁しない、試験があったら白紙で出す。




校長には28箇条の要求書を提出しました。




 すごい行動力ですね。




 校長も要求のいくつかを取り上げて、改善せざるをえませんでした。



 卒業後は小学校教員や新聞記者などをしましたが、上京して1919年、平塚雷鳥らと新婦人協会を設立しました。




 女性の集会結社の自由を禁止していた、治安警察法第5条の改正を求める運動を展開したのでした。




 しかし、第二次世界大戦中は国民精神総動員のもと、大日本報国言論会などの活動に従事して、戦争に協力する側に立っていました。



 このことが、終戦後GHQにとがめられることになります。




 戦争に協力したということで、3年と7か月の公職追放に処せられました。

1947年から50年にかけてのことです。




 講演や執筆を禁じられ、わずかな収入を断たれます。

 家のまわりを耕して野菜をつくり、自給自足の生活を余儀なくされました。




 内職をしたり、豆炭やあめを売ったり、台所のゴミだけで飼えるからと、アヒルも飼いました。


 極貧に近い生活の中で、一時は死さえも考えました。




 でも、共に闘ってきた女性たちの厚い信頼で、この逆境を耐え抜くことができたのです。

 追放解除の署名は17万人にも達し、中にはアメリカやカナダの女性の名もあったほどです。




 追放前の1945年から、すでに婦人参政権を要求する活動を展開し、売春防止法の成立にも活躍していました。




 これらはご存知の通り後に成立し、女性解放に大きく貢献していますね。

 参議院議員として5期25年勤めています。




 国際連合の 「女子差別撤廃条約」 の批准については先頭に立って活動しました。




 この成果は、彼女の死後、「男女雇用機会均等法」 や 「家庭科の男女共修」、「男女共同参画社会基本法」 となって現れています。




 これらの法律は、中学校の社会科公民の教科書では当然のように書かれています。


 しかし、その土台を、自らの生涯をかけて築きあげた人がいることを忘れないようにしたいですね。




 戦時中の活動は、人権侵害につながったという意味で大きな問題があったと考えられます。



 戦前や戦後の市川房枝の信念をもった生き方には、とても学ぶことが多いのではないでしょうか。
9 阪本清一郎 (1892~1987)




~部落差別を乗り越えて自ら立ち上がった全国水平社の命名者~




 今では中学校や高校の歴史の教科書でもおなじみになった、自由と平等のための組織の一つが 「全国水平社」 です。


 人間の平等を水の平らかさに例えて 「水平社」 と名付けた人物が阪本清一郎です。




 「あらゆる尺度というものは人間が作った。

 そしてその尺度によっていろいろな差が出てくる。




 絶対に差のできないものは水平である」




 大正デモクラシーの民衆運動の中から生まれた水平社宣言は 「日本で最初の人権宣言」 と呼ばれています。




 清一郎は、奈良県御所市の被差別部落で生まれました。


 彼が穢多(えた) という差別用語を知ったのは7~8歳のころでした。




 部落外の上級生や学校の教員からも嫌われたり、いじめられたりしました。




 なぜなのか母親に聞くと、自分たちの先祖が穢多だったからということを涙ながらに聞かされたのでした。




 すでに明治政府の 「解放令」 により、穢多、非人という江戸時代の呼び名は廃止されていましたが、具体的な部落解放政策は何も行われていませんでした。




 むしろ新たに 「新平民」 などと呼ばれ、差別は厳しくなっていたのです。


 家業は膠(にかわ) 製造業でした。




 膠というのは、獣の皮や骨、腱などから作る、一種の接着剤です。


 地元の商業学校卒業後、家業を継ぐために東京の工科学校で化学を学ぼうと上京しました。




 一時は中国を放浪したり、差別のない南洋のセレベス島への移住を計画したこともありました。



 しかし、これでは差別から逃げることになりますね。




 東京では、同郷の後輩である西光万吉 (さいこうまんきち) が病で倒れたので、これを機に万吉を連れて故郷に戻りました。



 1920年、清一郎は故郷で 「燕会」 を結成します。




 この中で部落問題研究部を発足させ、若者たちが社会科学の学習を積み重ねたり、討論をしたりしながら、懸命に部落解放の理論づけや方向性をさぐりました。




 こうしてメンバーは、差別からの解放は自分たちの生活態度の改善や一般の人々の同情に頼ったものではなく、被差別者自体が連帯して挑戦しなければならないという結論に達しました。




 ここがポイントですね。




 「同情という名の差別」 という言葉があります。


 かわいそうだけで終わり、「自分は彼らのようでなくてよかった」 と思うような同情は、相手を見下していますね。





 「融和運動」 では、差別の原因は部落の劣悪な環境や教育水準にあるとして、富裕層の力を借りて部落の経済的向上を目指しました。




 僕も長い間このような考え方をしていましたが、近年は考えが変わりました。




 これでは差別の原因が部落の人々にあると言っていることになりますね。


 差別の原因はあくまで 「する側」 にあるのです。




 そして、「する側」 によく見られる言い分は、「差別の正当化」 です。


 「される側にも責任がある」 と問題をすり替える例は後を絶ちません。





 僕もそうでした。





 女性差別が多くの場合、男性の問題であるのと同じように、部落差別は根本において 「部落外の人」 の問題なのです。





 だから近年は、学区内に被差別部落が存在しない小・中・高等学校でも、人権教育・同和教育が重視されるようになりました。





 1922年、京都の岡崎公会堂に全国から約3,000人の被差別部落の人々が集まりました。


 ついに 「全国水平社」 が立ち上がったのです。





 清一郎はその中心メンバーの一人でした。


 宣言の最後は 




 「人の世に熱あれ、人間に光あれ」 




 という言葉でしめくくられています。




 僕はこの水平社宣言にとても共感しています。


 一人一人の人間が尊敬されれば、差別は少しずつ解消されていきます。




 この意味で、阪本清一郎の生き方は、後世に生きる僕たちに大切なことを教えているのではないでしょうか。




 いじめを含めてあらゆる差別問題は、すべて他人事ではなく、自分自身の問題としてとらえることが欠かせないと思います。