8 平塚雷鳥 (1886~1971)




~男尊女卑と闘い女性解放運動に尽くした青鞜社の太陽~




 「元始、女性は太陽であった。

 真性の人であった。



 今、女性は月である。

 他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」




 日本で最初の女性による女性のための文芸誌 「青鞜」(せいとう) の発刊宣言です。




 平塚雷鳥(らいてう) はその波乱に満ちた生涯の中で、いじめや女性差別を乗り越えて、自由と平等のために闘った人権感覚豊かな人です。




 その原点になるのが、この有名な 「女性宣言」 でした。




 雷鳥はペンネームで、本名は平塚 明(はる)といいます。

 東京で三人姉妹の末娘として生まれました。




 父親は会計検査院次長でした。

 生まれつき声帯が弱く、声の出にくい体質でした。




 幼少のときは、1年半欧米を視察巡遊した父の影響で、自由な環境で育つことができました。

 しかし、小学校を卒業すると父の意思で、国粋主義教育のモデル校の高等女学校に入学させられてしまいました。




 雷鳥はここで早くも 「反乱」 を起こします。




 修身の授業をサボる 「海賊組」 を組織して、学校の教育方針に抵抗したのでした。

 1908年、日本女子大学在学中の22歳のときに 「塩原事件」 を起こします。




 これは心中未遂事件です。




 相手は森田草平という名の夏目漱石の弟子で、妻子ある男性の作家でした。


 不適切な恋愛になったのでしょうか、雪の塩原を逃避行しましたが死にきれず、世間を騒がせることになったのです。




 雷鳥は新聞に顔写真を掲載され、色情狂とののしられ、あることないことを次々に書き立てられました。




 これは 「いじめ」 ではないでしょうか。




 しかし、雷鳥はこのバッシングを乗り越えます。

 1911年、青鞜社(せいとうしゃ) を立ち上げました。




 女性解放運動の始まりですね。




 女性の読者からは共感の手紙が殺到し、自宅まで訪ねてくる読者もいました。


 新しい女性論を展開して、自由恋愛を主張した文芸誌 「青鞜」 はジャーナリズムの脚光を浴びました。




 しかし、男性の読者や新聞などでは冷たい視線が多く、青鞜社を揶揄(やゆ) する記事が書きたてられました。




 しばしば権力による発禁処分も受けています。

 自宅には石を投げ込まれることもありました。




 これも 「いじめ」 ではないでしょうか。




 当時の民法により、家父長制の下で女性は男性に従属させられていたのです。

 男性だけに都合のよい法律です。




 女性差別は、基本的にその多くは男性の問題ですね。




 時には、女性が女性を差別するということもあるそうですが。


 1914年、彼女は5歳年下の画家、奥村博史と同棲します。




 正式な結婚ではなく、戸籍を入れない同棲を選んだのは、既成の家族道徳への挑戦という意味がありました。




 博史との間には2人の子どもが生まれましたが、従来の結婚制度や 「家」 制度を良しとしませんでした。




 平塚家から分家して戸主となり、2人の子どもを私生児として自らの戸籍に入れたのです。

 18年には結婚という形をとりましたが 「新しい女」 として注目されました。




 1919年、市川房枝らとともに 「新婦人協会」 を結成しました。

 ここでは特に、婦人参政権の獲得を主張して活動しました。




 大正時代は男性にだけ選挙権があり、女性にはなかったのです。


 これも明らかな女性差別ですね。




 この運動は、結局昭和時代になって第二次世界大戦が終わってから実を結ぶことになります。




 さまざまな紆余曲折はありましたが、人間として人間らしく生きることをめざして闘った平塚雷鳥。




 自ら燃えて、自ら光を放ち続けたその一生は、まさに月ではなく太陽のようですね。




 その熱き生き方。




 日本史上注目すべき女性だと僕は考えています。
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7 鈴木文治 (1885~1946)




~働く人々の自由と平等にかけた日本労働運動の父~




 「どうせやるなら、納得のいくいい仕事をしたい」

 「自分の持っている良さを生かして、社会に貢献し、社会から必要とされる人になりたい」



 僕自身を含め、世界中の多くの労働者の願いではないでしょうか。



 こうなるためには、一人一人が労働者として大切にされていること、ある程度の働くにふさわしい環境が整えられていることが必要です。



 資本家も労働者も同じ人間です。

 このために、労働者の立場に立って人間を大切にした人が鈴木文治 (ぶんじ) です。



 1885年、文治は宮城県北部の栗原市で生まれました。



 中学時代は同県の古川で過ごし、上京して東京帝国大学を卒業後、秀英社、東京朝日新聞社の記者になりました。



 クリスチャンとして、キリスト教の伝道も行っています。

 当時は明治の終わりから大正時代にあたり、労働者の地位は低いものでした。



 新聞記者として、数々の労働者の貧しくすたれた生活に接することになりました。

 このころの労働者は、まるでいやしい者のような目で見られていたのです。



 資本家が労働者を支配する形がほとんどで、休む暇もなく残業させられたり、物価に見合った賃金も支給されず、



 「ただただ、働け!」 

 の一点張りの企業が多かったのです。




 21世紀の現代でも 「ブラック企業」 が社会問題化していますね。




 労働者をことごとくこき使い、残業手当も支給せず、休ませないで若い労働者をつぶして使い捨てにするというような報告が後を絶ちません。




 僕の知り合いでは、60歳前の現役で亡くなった人が4人います。




 確実な証拠はありませんが、過労死が関係していたかもしれないといわれれば、否定することもできません。




 「何とかしなければ」

 文治はこう考えて行動をおこします。




 「労資協調」 という考え方です。




 まず、労働者が一層の努力をし、技術を向上させるなどしながら、資本家と共に協力して労働者の地位向上を目指したのです。


 こうして生まれたのが 「友愛会」 です。




 最初はたったの15人でしたが、1918年には、会員数が30,000人にふくれあがりました。


 しかし、これでは資本家と労働者が対等ではなく、いざとなればやはり支配に屈してしまうことになります。




 文治の考えが変わったのは、アメリカに渡ってからです。

 労働組合というものが存在し、資本家と労働者が対等に交渉し、話し合うことができるのです。




 いざとなれば、ストライキをすることもできました。

 友愛会はその後何度も変化し、1946年には 「日本労働組合総同盟」 に発展しました。




 その間、数々の労働争議に駆けつけ、調停も行っています。

 日本の歴史上でいう 「大正デモクラシー」 の中の大きな一つの運動になったのです。




 僕も労働組合に入っています。




 仕事柄、労働組合法ではなく他の法律が適用されるため、さまざまな制限を受けていますが、本当に組合に入っていて良かったなと思うことがあります。




 過去に何度か上司のパワーハラスメントを受けました。

 そのうちの1回は人権侵害と判断し、行動を起こしました。




 パワハラとして、新潟県教職員組合と新潟県人権同和センターに訴えたのです。

 内容の詳細については個人が特定されてしまうので、記述は控えさせてください。




 両組織とも共感的に理解してくれ、教育委員会に訴えました。

 さらに組合は、直接僕の上司と面会して交渉し、パワハラを撤回させてくれました。




 課題を共有したこの行動がなければ、僕は病気になっていたかもしれません。


 これは、鈴木文治の友愛会から始まる労働運動の延長線上にあるできごとです。




 だから、文治にはとても感謝しています。




 基本的人権尊重のために差別を乗り越え、時には仲間とともに闘い生きることが健康の秘訣であることを痛感しています。
6 美濃部達吉 (1873~1948)




~議会重視の立場から国家と天皇を区別して軍部と闘った憲法学者~




 天皇機関説を主張した大正デモクラシーの代表的な理論家として知られていますね。


 大日本帝国憲法を、できるだけ国民の立場で解釈し、国民の意思が政治に反映するようにしようとした憲法学者です。




 反対者から脅迫され、暴力を受けて命をねらわれても、ひるまずに信念を貫き通しました。




 当時の天皇や多くの国民からも受け入れられ、日本のデモクラシー発達に貢献した人物として歴史上にその名を残すことになりました。



 達吉は兵庫県の漢方医の家に生まれました。

 幼少のころから優秀で神童と呼ばれていました。




 高校1年のときにチフスを患い、一年間まるごと休学になってしまいます。

 しかし、2年への編入試験に及第し、そのまま2年に進級することができました。



 
 東京帝国大学法学部を2番で卒業し、ヨーロッパに留学して憲法学者になった人物です。




 1912年、「天皇機関説」 を発表します。

 これは一言で言えば、統治権は天皇ではなく、「国家そのもの」 にあるんだという学説です。




 天皇をはじめ、内閣も国会も国民も、みんな国家の 「機関」 の一つであるとしました。




 天皇はこの中で最高機関ですが、内閣の意思を無視できず、内閣は国会の意思を無視できず、国会は国民の意思を無視できない拘束関係にあるものとしたのです。




 結局、天皇は国民の意思を無視できないということになりますね。




 最高機関ではあっても、天皇は絶対君主ではないという憲法解釈になるわけです。

 この学説は軍部を中心に猛反発を受けることになりました。




 天皇を 「機関」 と呼ぶことはけしからんということで強烈な攻撃の嵐になります。


 軍部にとっては、天皇が絶対無限の権限をもっていたほうが都合がよかったのです。




 なぜなら、天皇の名において自由に行動できる、国会を無力化できる、国民の権利をはく奪できる、という軍部によるファシズムが可能になるからです。




 この通りになったことは、その後の歴史が証明していますね。




 達吉は天皇に対する 「不敬罪」 で告訴され、著書は発禁処分、貴族院議員も辞職に追いこまれました。


 1935年、ついに 「美濃部達吉博士襲撃事件」 がおこります。




 達吉の自宅にはすでに脅迫状が多数届くようになっていましたが、二・二六事件の数日前、元右翼団体に所属していた人物に自宅を襲われました。




 彼が放ったピストルの弾丸は、達吉の右大腿部に命中し、重傷を負いました。




 まさに命がけです。




 それでも達吉は

 「私の学説をひるがえすとか、自己の著書の間違っていたことを認めたかという問題ではない」 




 という所信を新聞紙上で述べています。




 暴力という人権侵害に負けなかったのですね。




 ちなみに、当時の大正天皇は

 「天皇機関説を挙げた達吉の言うことは正しい」




 と受け入れています。




 昭和天皇も達吉を認め、議員の辞職や襲撃事件などの一連のできごとを 「学問の自由の侵害」 ととらえました。




 結局 「不敬罪」 は、疑いはあるが情状を酌量して 「起訴猶予」 という決定になりました。

 この天皇機関説からは、内閣と国会が重要になってきます。




 藩閥や軍閥ではなく、政党内閣が必要になります。

 そして国会が国民の正しい代表であるためには、普通選挙が必要になります。




 どちらも基本的人権の視点から、欠かせないものであることは明白ですね。




 命をねらわれ、身を危険にさらされても 「学問の自由」 を貫き通した憲法学者。




 美濃部達吉こそ国民の視点に立った勇気ある学者として、特筆するべき人物ではないでしょうか。
5 吉野作造 (1873~1933)




~民本主義を主張し大正デモクラシーに貢献した大学教授~




 大正デモクラシーの理論的指導者として、中学校や高校の教科書でもおなじみの有名人ですね。

 デモクラシーを 「民本主義」 と訳して提唱し、普通選挙制や政党内閣制の実現も説きました。




 海外の動きについても、朝鮮の独立運動や中国の辛亥革命 (しんがいかくめい) にも共感して弁護しています。




 常に一般民衆の目線で、講演や論文などを通して活動した作造は、多くの国民から支持され、

「日本における民主主義の父」




 と呼ばれています。




 幼少のころは気の弱い子どもで、芝居小屋の太鼓の音に驚いて泣き出したことがありました。

 高校時代は人前でブルブル震えて、なかなか話をするのが容易でありませんでした。




 大学生になっても、作造にとって人前で話をするなどとんでもないことだったのです。




 こんな状態でしたが、政治学者になって社会に出てからは、数々の講演をこなし、公衆の前で自分の考えを自由に話し、時には言いすぎて危険な目に遭うこともあるようになったのです。




 自分の生き方に自信をもつと、人はこれほど変われるものなのですね。




 1916年、「中央公論」 の新年号に論文を発表しまします。




 民本主義というのは

 「政治とは国民全体の幸福を中心に考えるべきだ」




 という主張で、「民衆」 を政治の根本におく考え方のことです。




 この背景には、当時の政府の官僚たちが国民の幸せより、一部の人たちの都合を中心に政治を動かそうとしていたことがあります。



 天皇のそばで政治を操作していた枢密院や軍部の存在もこの傾向にありました。




 民主主義という言葉をあえて使わなかったのは、大日本帝国憲法が天皇主権の憲法だったからです。




 当時の憲法に違反することなく、天皇制をきちんと認めた上で、国民の考えも重視し、国民の考えに基づいて政治がおこなわれるべきだと主張したのです。




 ですから、国民が選んだ国会議員が中心になって、日本の政治を行っていくという考えにつながるわけです。




 この意味で、大正デモクラシーは明治の自由民権運動の延長線上にありますね。


 普通選挙制と政党内閣制の主張も注目に値するものではないでしょうか。




 大正時代のほとんどは制限選挙です。

 これでは高額納税者の男性にしか選挙権がありません。




 貧しい人々や、女性全員が被差別の状態に置かれていることになります。


 また、軍閥による政府も一部の軍人たちの思うがままで、一般の国民の意思とはかけ離れやすくなります。




 上から目線の政治ではなく、国民目線の政治が大切であることを作造は強調したのです。




 1923年、関東大震災がおこりました。




 その甚大な被害はさまざまな本などで詳しく紹介されていますが、僕がここであえて取り上げたいことは、この時に起こった 「朝鮮人虐殺」 の事実です。




 災害のときに無責任なデマが飛び、たくさんの罪もない朝鮮人が次々に殺されたことです。




 この背景には民族差別があることは明らかですね。




 作造はこの虐殺についても批判論文を発表しました。


 日本の帝国主義政策に対して批判的であったため、憲兵に自宅を急襲され、命を狙われたこともあります。




 命がけの活動だったのですね。




 朝鮮で起こった 「三・一独立運動」 について、当時の多くの日本の世論は、次のようにとらえていました。




 「植民地で起こった暴動」




 作造はこの独立運動を、「正しいこと」 ととらえ、道徳的に評価できると弁護しています。




 彼の人間を大切にする豊かな人権感覚に、学ぶところがたくさんあると考えるのは僕だけではないと思いますがいかがでしょうか。
4 宮崎滔天(とうてん) (1871~1922)





~世界革命をめざし辛亥革命で自由のために闘った孫文の盟友~





 滔天がめざした「世界革命」 とはいったい何なのでしょうか。

 


 それは、貧困と差別的な帝国主義を一掃することです。


 あらゆる国で富が公平に分配され、すべての人が平等に、そして自由で豊かに暮らす世界をめざしました。




 アジア解放はその一環であり、アジアの自由と人権を取り戻すには、中国の興亡盛衰がカギであると判断しました。




 当時の中国である清 (しん) 王朝は列強諸国の餌食になり、半植民地化されていました。


 滔天が中国の辛亥革命 (しんがいかくめい) に孫文とともに命をかけたのは、ここに理由があったのです。




 滔天は本名を宮崎寅蔵 (とらぞう) といい、熊本県の郷士の家に生まれました。

 11人兄弟の末っ子で8男でした。




 15歳の時に、徳富蘇峰の大江義塾の寄宿舎に入り、自由民権運動を学びました。




 その後、東京専門学校 (後の早稲田大学) でも学んでいます。

 長崎へ行ったり、兄とともに上海や香港に渡航したりもしました。




 1897年、運命的な出会いが訪れます。

 横浜で亡命中の孫文に出会ったのです。




 滔天は、孫文がアジア解放になくてはならない本物の革命家であることを見抜きます。




 彼が熱く語る三民主義 (民族の独立、民権の伸長、民生の安定) に胸を撃たれ、生涯をかけることを決心しました。




 99年にはフィリピン独立戦争に協力します。

 これも帝国主義からアジアを解放しようとする行動の一つです。




 民族差別との闘いですね。 




 アメリカ相手に苦戦するフィリピン独立軍のために、武器の援助を行いましたが、このときの船が台風で沈没してしまい、目的は達成できませんでした。




 1902年には 「三十三年の夢」 という本を出版して、孫文の志を広く紹介しています。




 清王朝の重税に不満をもつ人々を中心に、中国全土に孫文の名が広がっていったことは言うまでもありません。




 孫文の日本での活動は滔天が徹底的に支援し、中国でのいくつかの蜂起にも参加しています。

 武器の調達は滔天が行いました。




 まさに全財産を投げ打って孫文にかけたのです。




 1905年、ついに 「中国革命同盟会」 を結成させることに成功します。




 革命がおこることが決定した歴史的瞬間ですね。




 辛亥革命の活動拠点は日本だったのです。




 革命が必要と考える中国人の団体はいくつもありましたが、これらを一つにまとめる働きをした人が、実は日本人である宮崎滔天だったのです。




 1911年、世界史上有名な辛亥革命がおこりました。

 アジアで最初の共和国の成立です。




 孫文が臨時大総統になり、「中華民国」 が成立したことは、歴史上よく知られていますね。

 滔天自身もこのとき革命成功のために中国に渡り、活動に参加しました。




 実はこの後、袁世凱 (えんせいがい) からも声がかかっています。

 袁は孫文の次に臨時大総統になった人物です。




 しかし、革命成功の功として、滔天に中国米輸出権を与える代わりに、袁を支持してほしいという内容のものでした。




 滔天はこれを断固拒否しています。




 上から目線で 「自分が皇帝になるので協力しろ」 と言っていることを見抜いていたので、この拒否は当然ですね。



 
 地位も名誉もなく、家族も財産も投げ出して、すべてを帝国主義という差別との闘いにかけた人権感覚豊かな日本人。




 宮崎滔天こそ日本史のみならず、世界史上でももっとたくさんの光があてられてもよい人物ではないでしょうか。