3 牧野伸顕(まきののぶあき) (1858 ~1954)





~国際会議で世界初の人種差別撤廃を提案した日本全権~





 明治維新の三傑の一人として有名な大久保利通の次男です。




 今日 「世界人権宣言」 により、人種差別をはじめとするあらゆる差別が不幸をもたらすことであることは、広く世界で認められつつあります。




 この世界人権宣言の先駆けとなった画期的な提案をした人が牧野伸顕ではないでしょうか。



 彼は第一次世界大戦後に行われたパリ講和会議の席上で 「人種差別撤廃」 を強く発言しました。




 世界で初めての、時代を先取りする内容だと思います。




 伸顕は牧野の姓を名のっています。

 鹿児島で大久保利通の子として生まれていますが、生後間もなく養子に出されたからです。





 11歳のときに父や兄とともに岩倉使節団に加わってアメリカに渡りました。

 1880年には、イギリスのロンドン大使館に赴任しています。





 確かに薩摩閥により人脈が豊かなこともありましたが、彼の政治姿勢は生涯にわたって民主主義・自由主義で、対外協調的な外交を大切にすることは徹底していました。





 第一次世界大戦の講和会議はパリで開かれました。

 この会議に日本の次席全権大使として出席したのが牧野伸顕です。





 主席は西園寺公望 (さいおんじきんもち) でしたが実質的には伸顕が采配を振っています。



 ここで歴史上有名な 「国際連盟」 が成立します。




 アメリカのウィルソン大統領が提案したことも世界中で広く知られていますね。

 国際連盟規約委員会で規約などの話し合いが行われましたが、注目すべき議題が提案されています。





 すでに固まっていた14カ条に加えて、伸顕は 「第15条」 として 「人種差別撤廃条項」 を提案したのです。



 イタリアやフランスは賛成してくれましたが、イギリスの全権大使ロバート・セシルが大反対します。




 これでは

 「イギリスは人種差別によって繁栄している国です」




 と言っているのと同じですね。





 アメリカもそうです。

 黒人だけでなく、先住民のインディアン、日本人に対しても人種差別が横行していました。





 イギリスは海外に広大な植民地をもち、

 「日本が軍事的に力をつけようが我々と対等ではない」




 と公使が公言するような状態でした。



 まさに差別を絵に描いたような発言ですね。





 紛糾する会議場で、伸顕は突っぱねました。

 「この案は日本国民の揺るぎ無い総意である」





 16カ国で多数決をとった結果、11対5で法案が可決したと思われた矢先のことでした。




 突如、議長のウィルソン大統領が発言しました。

 「全会一致を見なかったので、不採決」




 これに対し伸顕は声を荒げます。

 「ここまではすべて多数決だったのにも関わらず、何故だ」




 この一連のやり取りを皆さんはどのように受け止められるでしょうか。



 結局、人種差別撤廃案は歴史の闇に葬り去られましたが、世界で大きな反響が起こることになります。





 アメリカの黒人協会は、次のように称賛しました。


 「全米の黒人は日本国に最大の敬意を払う」

 



 さらにはアジア、アフリカの主導者たちからも多くの喝采を受けることになったのです。



 少なくとも考えられることは、この時点でアメリカとイギリスの代表は 「人権感覚が豊かであったとは言えない」 ということです。





 帝国主義による植民地政策が、列強諸国によって強引に正当化されていた時代にあって、人種差別、民族差別は権力者のための支配の道具でした。




 僕たちの日本も例外ではなく、この道具を使っていったことは、その後の日本史が証明しています。




 このような中で、牧野伸顕の言動が、暗闇を照らす一筋の光のように見えるのは僕だけでしょうか。
スポンサーサイト
2 尾崎行雄 (1858 ~1954)





~第一次護憲運動で藩閥内閣と闘った衆議院~





 これは世界記録ではないでしょうか。



 連続当選25回、議員歴63年。

 他に聞いたことがありませんね。




 なぜ尾崎行雄はこのような長い間、衆議院を続けることができたのでしょうか。


 それは、終始一貫して民衆の側に立って、藩閥や軍閥と闘ったからです。




 彼の雄弁は天下に鳴り響き、第一次護憲運動がおこると 「憲政の神様」 と呼ばれました。


 また、「議会政治の父」 とも呼ばれ、常に国民の目線でその熱き生涯を生き抜きました。




 神奈川県に生まれた行雄は、意外にも幼少のころはひどく臆病な子でした。


 おどおどした態度がいじめっ子たちの標的になり、からかわれたり石を投げられたりして 「いじめ」 にあいます。




 被差別の立場に立たされてしまったのですね。




 裁判関係の仕事をしていた行雄の父は、何とかしようとして罪人の拷問や斬首を見せたりしましたがこれは大失敗。

 かえって逆効果になってしまいました。




 そんな彼も慶応義塾で学んだことや、その後のいくつかの仕事の経験を通して努力を続け、語尾を強調するいわゆる 「尾崎調」の弁論術を確立していきました。




 1879年には福沢諭吉の推薦で 「新潟新聞」 の主筆になりました。




 1882年には立憲改進党の結成に参加し、87年になると後藤象二郎のもとで自由民権運動の一つである 「大同団結運動」 を推進しました。




 しかし、政府の弾圧政策である保安条例により東京退去を命じられ、アメリカとイギリスに渡って、民主主義の進んだ外国の刺激を受けることになりました。




 1890年、第1回衆議院総選挙が行われました。

 日本初の選挙として有名ですね。




 行雄は三重県から立候補して当選しました。

 以後1952年まで驚異的に連続当選します。




 1913年の国会での演説は特に有名です。




 「ことがあるたびに忠君愛国、忠君愛国とくり返している者がいる。

 しかし、実際には天皇の名を借りて反対派を攻撃し、自分勝手な政治を行っているだけだ。




 このような卑劣なやり方をしているのは、桂首相、あなただ」




 これは憲政擁護運動、すなわち第一次護憲運動のクライマックスですね。




 国会の周りは自由を求める多くの国民が取り囲んでいます。

 まもなく桂内閣は退陣に追い込まれました。




 その後、普通選挙を求める運動の先頭に立ち、第二次護憲運動では治安維持法制定に反対しました。


 時代が昭和になって、1942年に出された、東条英機首相に対する公開質問状も有名です。





 「大政翼賛会は国家の金で選挙を行っている。

 明らかな憲法違反であり、これでは官が選んだ議員が政治を行う “官選議員” を作り出すではないか。




 直ちに暴挙を止めよ」




 このとき行雄は 「不敬罪」 という天皇に対する罪で逮捕拘留されましたが、大審院では無罪になりました。




 その後の選挙でも彼は当選し続けます。

 国民の立場から、きちんと国民の声を発言し続けているので、心ある国民の代表になっていたのですね。




 ちなみに、このとき政府は戦争を始めていました。


 あの有名な 「太平洋戦争」 ですね。




 二度とあってはならないことであることは、その後の歴史が証明しています。




 基本的人権尊重の視点から、この大正時代前後の歴史を見ると、尾崎行雄はなくてはならない人物ではないでしょうか。




 彼の生き方から学べることはたくさんあります。


 高校の教科書で、それほど大きく取り扱われていないことが不思議なくらいです。





 僕は国の内外を問わず、もっと多くの人々に知られるべき人物ではないかと考えています。
 
1 北里柴三郎 (1852 ~1932)





~学閥と闘い伝染病予防に尽くした日本細菌学の父~





 破傷風の免疫血清療法やペスト菌を発見した世界的な伝染病研究者として有名です。




 北里柴三郎の研究所からは、黄熱病の研究で知られる野口英世、赤痢菌発見者の志賀潔、梅毒薬サルバンサン開発者の秦(はた) 佐八郎などが次々に巣立っています。




 しかし、科学的な実績もさることながら、柴三郎は常に一般民衆の目線に立ち、官僚や学閥主義と闘った人でもあったことをご存知でしょうか。




 意外なことに、彼は少年時代、医者にだけはなりたくないと思っていました。




 では何になりたかったのでしょうか。


 「武士」です。




 時代が明治になっても兵学校へ進みたいと考えていました。


 ところが親が強引に、熊本に新設された医学校に進学させてしまいました。




 柴三郎は自分の希望とは違う学問をさせられたのですが、一人の人間との出会いによって、医学の道を本気で志すことになったのです。




 その人の名は、オランダ人のマンスフェルトです。




 こんなこともあるのですね。


 一人の人間との出会いで人間には何が起こるかわかりません。




 1875年、東京医学校 (現在の東京大学医学部 )に進学し、卒業後は内務省衛生局に就職しました。




 1885年にはドイツのベルリンに留学し、ロベルト・コッホのもとでめざましい研究の成果を上げていきました。



 そのため、ケンブリッジ大学やペンシルベニア大学からも柴三郎を招く話がありましたが、彼はあえて断り日本へ帰国しました。




 1892年のことです。



 理由は、はっきりしています。



 「自分は日本の伝染病予防のために尽くしたい」




 しかし、帰国はしたものの就職先がありません。


 ここであの福沢諭吉が強力な援護を行います。




 諭吉は柴三郎のために私財を投じて 「伝染病研究所」 を設立し、さらに政府にかけあって研究所を公的な機関に昇格させたのです。




 管轄は内務省でした。

 北里柴三郎が日本の医学発展に欠かせない人物であることを見抜いていたのですね。





 諭吉は1901年に亡くなりましたが、この好条件のもとで、伝染病研究所が次々に大きな成果を出していったことは、全国に広く知られている通りです。




 ところが1914年、柴三郎は突然、文部省から衝撃的な通告を受けます。


 「伝染病研究所を内務省から文部省の所管に移し、東京大学医学部の付属機関にする」





 これは何を意味するのでしょうか。





 一言でいえば、「文部省と東京大学の傘下に入れ 」ということです。





 もっと言ってしまえば、

 「研究所は優れた実績を上げたので、権威ある文部省と東京大学が部下として認めてやる。




 今後とも権威ある指導者のもとで研究に励め」

 ということですね。





 上から目線で、差別的な扱いをして支配下に置こうとしていることは明白です。





 世の中にはたくさんの学閥、派閥があり、差別が横行しているのも事実ですね。

 柴三郎は激しい怒りを覚え、学閥や官僚主義と闘う決心をします。





 彼の結論は、研究所長の 「辞職」 でした。





 驚いたことに、所員たちも全員一斉に辞職したのでした。





 差別に負けなかったのですね。

 大変な勇気ある闘い方だったと思いませんか。





 そして同年、私設の 「北里研究所」 を立ち上げます。


 この研究所はその後発展し、北里大学病院になりました。





 1917年、柴三郎は請われて、慶応義塾大学に医学部を創立しました。





 なぜ慶応なのでしょうか。





 もうおわかりですね。



 故福沢諭吉の恩に報いたいということでしょう。




 とても自由で、人間味のある柴三郎の人生に共感できる人は僕だけではないと思います。
11 森 律子 (1890 ~1961)





~職業差別を乗り越えて自らの意志を全うした女優~





 「家名を汚したらこれで死ね」


 森律子は、父親からこう言われて短刀を渡されました。




 娘の命よりも家名のほうが大切なのですね。

 それこそ彼女が女優になったのは命がけだったのです。




 大胆で愛嬌のある演技で、多くの観客を魅了した帝国劇場のスター女優です。

 律子の名前は 「帝劇全盛時代」 を築いた人として、同劇場の歴史にしっかりと刻み込まれました。




 それなのに、父親のこの仕打ちは大きな疑問です。




 いったいなぜなのでしょうか。




 1890年、律子は弁護士であり、代議士でもあった森肇 (はじめ) の二女として東京で生まれました。

 父親は松山から上京して、苦学の末に弁護士試験に合格し、その後代議士にもなりました。




 法曹界の名物男で、長髪がトレードマークの熱血漢。

 癇癪 (かんしゃく) を起こすと、自宅で銃や日本刀を振り回すこともありました。




 何とかならなかったのでしょうか。




 これはちょっとあぶなくて恐ろしいですね。

 当たったら大変です。




 律子は、当時格式の高い良家のお嬢様が多く集まる跡見学園女学校 (後の跡見学園女子大学) を卒業し、その後女子語学校専科で英語を学んでいました。




 ところが、彼女が 「女優になりたい」 と言い出すと、父親を始めとして家族から猛反対されました。


 今でこそ 「女優」 という職業は華やかな印象を持たれていますが、このころはまだ社会的地位が低かったのです。




 つまり職業差別で被差別の状態にあったわけです。

 だから、冒頭の父親の 「死ね」 という言葉が出できたわけですね。




 プライドが許さなかったのでしょうか。




 彼女の弟は第一高等学校 (後の東京大学教養学部) に通っていました。

 「姉が女優になるのが耐えられない」




 弟の言葉です。

 自殺してしまいました。




 これも 「差別はする側が不幸になる」 典型的な事例と考えられますね。

 息子を自殺で亡くした父親もまた不幸だといえるでしょう。




 差別意識から解放されなかった人々の悲劇がここにもあります。


 しかし、律子は差別に負けませんでした。




 自分の意志を貫き通して、1908年、「帝国女優養成所」 に第1期生として入所し、3年後には卒業しました。




 1911年、帝国劇場で 「頼朝」 に浦代姫役としてデビューです。

 「女優・森律子」 誕生の瞬間ですね。




 父親は意外な行動に出ます。

 自分の 「断髪式」 をやりました。




 息子の死をきっかけに改心したのか、ますます癇癪をおこしたのかは本人にしかわかりません。




 後に律子は、自らの著書で次のように述べています。

 「父は自分の愛する髪の毛まで犠牲にして、私に成功を祈ってくれたのです」




 母校の跡見学園女学校はどう出たのでしょうか。

 律子の女優デビューを祝福してくれたと思いますか? 




 とんでもない。




 答えはノーです。

 一難去ってまた一難です。




 彼女の母校は、

 「河原乞食なんぞもってのほか」




 と、卒業した学校の同窓会名簿から、森律子の名前を除籍してしまいました。


 そこまでする必要があったのでしょうか。




 これでは

 「私たちは職業差別をやる差別者です」




 こんなふうに、全国に公言しているのと同じですね。


 ここでもまた、排除の差別を受けていたのです。




 彼女のまわりは差別者だらけです。


 その後も、さまざまな誹謗・中傷を受けましたが、律子はあくまでも女優として活躍し続けたのです。




 とても自由で、意志の強い人ですね。




 彼女の生き方には学ぶところが多く、とても共感できます。




 芸能界の歴史において、森律子はなくてはならない人だったと考えるのは僕だけでしょうか。