10 与謝野晶子 (1878 ~1942)




~戦争に反対し自由主義的教育運動を推進した女流歌人~




 与謝野晶子ほど言いたいことを言い、やりたいことをやった女性がどれほどいたでしょうか。




 歌集 「みだれ髪」 で知られる女流歌人として有名な才女ですね。


 明治の優れた文学者として国語の教科書ではおなじみです。




 ところが近年、中学校の歴史の教科書でも、写真つきで彼女が堂々と登場しはじめていることをご存知でしょうか。




 戦争が最大の人権侵害であることは明白ですね。

 罪もない多くの人々を次々に殺していくからです。




 晶子はそこを鋭く指摘し、有名な反戦の詩を大胆に発表しているから写真つきになるのです。




 晶子は現在の大阪府堺市で生まれました。

 家は駿河屋という老舗の菓子商で、父親の姓から独身時代は鳳晶子 (ほうあきこ) と名のっていました。




 彼女の結婚は 「略奪結婚」 と言われています。

 相手の男性は与謝野鉄幹 (よさのてっかん) です。

 


 妻のいる鉄幹を積極的に歌で攻めたてました。

 現在でいう逆ナンパに当たるのでしょうか。




 おかげで鉄幹は、晶子との結婚のときにはすでに2度も離婚をしていたのです。

 情熱的な恋愛として、世の注目を浴びました。




 1899年、晶子は夫の鉄幹とともに東京新詩社をおこし、翌年、雑誌 「明星」 を発刊しました。




 晶子の代表作 「みだれ髪」 はここで評判になりました。

 大胆な自由恋愛の表現が、新鮮なショックになり、当時のたくさんの人々の話題を呼んだのです。




 1904年には、戦争に行った弟を案ずる詩が、明星で発表されました。


 題名は 「君死にたまふことなかれ」 




 この詩が歴史の教科書や資料集で大きく取り上げられている作品です。




 「ああ、弟よ。私はあなたを思って悲しんでいます。



 あなたは決して死んではならない。

 末っ子として生まれたあなただから、親はいっそうかわいがって育ててきたのです。



 私たちの親は、あなたに刃をにぎらせて、人を殺せと教えたでしょうか。

 人を殺して自分も死ねと、そんなつもりで24歳まで育てたでしょうか。」

 


 ここでいう戦争とは、あの 「日露戦争」 のことです。

 肉親の身を案ずることを通した、明らかな戦争に反対する詩ですね。




 さらに、この詩の2番では、次のようにうたっています。

 「戦えというけれど、天皇ご自身は戦争に出てきません」

 



 これは明治天皇に対する批判になりますね。





 当時は大日本帝国憲法のもとで主権は天皇にあり、これに触れることは大変なことでした。




 当然のことながら、政府をはじめ、右翼、それに天皇を尊敬し、敬愛する多くの国民からバッシングを受け、非難ごうごうの嵐にさらされることになったのでした。




 場合によっては命すら危ぶまれます。




 しかし、晶子は負けませんでした。

 これらの非難に対する彼女の返答は短くて痛快です。




 「おなごというものは古来、戦 (いくさ) ごとを好みませぬ」




 1921年、晶子は文化学院の設立に参加し、39年には 「新約源氏物語」 を完成するとともに、自由主義的教育運動を推進しました。




 母性は女の天職とすることに反対し、男女の本質的平等や女性の経済的自立、高等教育、職業開拓などを主張しました。




 とても自由で先進的な考え方ですね。




 そして自分自身が生んだ11人の子どもたちも、5人の息子はすべて大学に入れ、6人の娘もすべて高等女学校へ進学させる教育熱心さでした。




 時代が作りだした社会常識や固定観念、政府をはじめとする男性たちの上から目線に惑わされることなく、自由に生きた与謝野晶子。




 人間が人間らしく生きることの大切さを、身をもって実践した数少ない女性だったのではないでしょうか。
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9 吉岡弥生 (1871 ~1959)




~女性差別を乗り越えて日本初の女子医大を創設した女医~




 「女性の地位向上の問題は、女性の問題というより、実は男性の問題です。

 男性が家庭の中でよく女性を理解することが、女性の本当の力を発揮させるのに不可欠です」




 この吉岡弥生の言葉は問題の所在を的確に述べていますね。

 女性が女性を差別する場合も確かにあります。




 しかし、長い間女性を差別してきた主体は男性であり、女性差別は多くの場合、男性の問題なのです。




 男尊女卑の風潮が強かった明治時代にあって、これをたくましく乗り越え、女性に閉ざされた医学を志す道を開いた人が吉岡弥生です。




 弥生は現在の静岡県掛川市で生まれました。

 生家の鷲山家は造り酒屋と醤油屋を営んでいました。



 
 ですから少女時代は鷲山弥生と名のっています。

 ここに医者であった弥生の父が婿養子に入っていたことが医学との接点の第一歩だったのでしょう。




 勉強だけでなく、家事もよくでき裁縫もやりました。

 染色を除けば蚕を飼うところからつむぎ、機織り、裁断も含めて全部一人で着物を作ることができました。




 家族の着物もたくさん作っています。


 17歳の時、医者になりたいとの願望を父に告げました。




 父は反対です。


 弥生はあきらめず、反抗する冷戦状態を2年間続けながら何度も説得し、ようやく願いをかなえました。




 1889年、上京して済生学舎に入学しました。

 ここで弥生は女性差別を受けます。





 当時女子学生は珍しく、男子学生の冷やかしや悪質ないたずらが絶えませんでした。


 医学教育の場合、実習では学生が順番に患者役となって模擬診察や模擬治療を受けることが必要です。





 女子学生は大勢の男子学生の前で身体をさらすことになるのです。




 もうおわかりでしょう。




 男子学生たちの口から発せられる言葉は、あえてここに書く必要はありませんね。




 弥生は 「女医学生懇談会」 を組織して反撃に出ます。

 講堂で演説もしました。




 差別に負けずに闘い、勉学にも励んだ結果、1892年、22歳の女医、鷲山弥生が誕生したのです。


 1895年、医師の吉岡荒太と結婚し、彼が院長を務める 「東京至誠医院」 の女医になりました。




 ところが1900年、かつて弥生が学んだ 「済生学舎」 は女子生徒の入学を許可しないことを決定したのです。




 理由は 「風紀が乱れる」 というものでした。




 またしても女性差別ですね。

 これでは医学の道を志す女性の道が閉ざされることになります。




 ならば、女子だけの医学教育の場を作るしかありません。




 この考えに即座に賛成した人物が、夫の吉岡荒太でした。

 差別意識から解放された人でなければできることではありませんね。




 こうして至誠医院の一室に、日本初の女医学校である 「東京女医学校」 が作られました。

 後に専門学校として認められ、さらに大学として発展していきます。




 これが現在の東京女子医科大学です。




 しかし、この間にもさらなる差別が立ちはだかっていました。

 専門学校の設置認可のとき、官学優先の文部省は、申請書をわざとずっと放置するという差別的な扱いをしています。




 このときも弥生は一切の財産を投げ出して血みどろの交渉をしています。


 さらに東京女医学校の第1回卒業式の来賓の中にからこんな言葉が出てきました。





 「女子に高等教育を受けさせるのはよくない」



 「結婚の時期が遅れる」



 「手術で平気で血を流すような殺伐な女が増えたら日本は滅ぶ」





 訪問者の皆さんはこれらの発言をどのように受け取られますか。




 僕は吉岡弥生こそ、人権史観から見た日本の歴史上、なくてはならない人物だと思いますがいかがでしょうか。
8 幸徳秋水(こうとくしゅうすい) (1871 ~1911)




~帝国主義に反対し身分や貧富の差をなくそうとした社会主義者~




 日露戦争で日本がロシアに勝ったことは歴史上よく知られていますね。



 特に203高地の戦いや、東郷平八郎元帥で有名な日本海海戦の勝利は、教科書をはじめとする多くの歴史書でも取り上げられています。



 しかし、この戦争で203高地だけでも日本人6万人が死亡し、戦争全体で22万人の戦傷者を出し、国家予算の7年分の戦費を費やしたことをご存知でしょうか。




 この日露戦争に終始一貫して反対し続け、帝国主義を批判した当時の一般国民の少数派の一人が幸徳秋水です。




 秋水は高知県四万十市に生まれ、本名を伝次郎といいました。

 生家は薬種業と造酒業をいとなむ旧家で、4人兄弟の末っ子でした。




 わずか1歳のときに父を亡くし、「父なし子」 と罵られて育ちました。




 早くも差別にあっていますね。




 幼児の秋水は虚弱で、胃腸障害のため少しも太らず成長が危ぶまれました。

 しかし頭は明敏で、母の懐で乳をまさぐりながら、母の胸に指で字を書いていました。




 頭脳明晰を絵に描いたような風景ですね。

 少年時代から自由民権運動に関心をもち、15歳の時に 「自由新聞」 の読者になっています。




 16歳で東京に出ますが、中江兆民ら570名とともに都内から追放されてしまいました。

 自由民権運動を弾圧する、明治政府の 「保安条例」 による 「危険人物」 の東京退去命令です。




 ここで 「危険」 というのは明治政府の権力を行使することにとっての危険です。




 権力者の目線ですね。




 国民の目線に視点を移せば、国民の自由な言論を弾圧し、ロシアに帝国主義の戦争をしかけ、朝鮮を植民地にしようとしていた当時の明治政府のほうがもっと危険だと思うのは僕だけでしょうか。




 1901年、秋水は 「20世紀の怪物 帝国主義」 を刊行して帝国主義を批判します。

 これは当時、国際的に見ても先進的なものでした。




 ロシアのレーニンよりも早いのです。



 「戦争で利益をえるのは、軍人や資本家だけである。

 多くの人民が不幸になる戦争には、絶対反対しなければならない」




 「軍隊の力で領土を拡張するのはまちがっている」




 この考えは海外からも評価され、フランスのある大学教授は、フランス語に翻訳して紹介しました。




 秋水が所属した日本初の社会主義政党である社会民主党は、8時間労働制や普通選挙制、さらに身分や貧富の差をなくし、人民が直接政治に参加できる民主的な社会の実現を主張しました。




 しかし、資本、土地の公有化をはじめとする社会主義の考え方は受け入れられず、明治政府によって直ちに解散させられてしまいました。



 1910年、日本史上有名な 大逆事件 (たいぎゃくじけん) がおこります。




 明治天皇暗殺計画を立てた首謀者は幸徳秋水だとして捕えられ、秋水を含めて12人が裁判の結果、絞首刑にされて殺されました。



 ところがこの裁判には、当初からいくつかの疑問がもたれていました。


 傍聴人どころか証人を一人も立てない密室裁判です。




 求刑からわずか6日後という異例の早さで処刑が実行されています。

 その3ヵ月後に韓国併合が行われ、朝鮮が日本の植民地になりました。




 そして事件から51年後の1961年、次のことが発覚しました。

 拷問による調書のねつ造、ほぼ全員が事件と無関係だったこと、明治政府が裁判所に圧力をかけていたことです。




 この背景にはいったい何があるのでしょうか。




 後世に生きる僕たちにとって、多くの学ぶべきことがあるできごとだと思いませんか。
7 夏目漱石 (1867 ~1916)




~権威にとらわれず自由に生きた明治の文豪~




 あまりにも有名な人ですね。



 「坊っちゃん」 「吾輩は猫である」 をはじめとする数々の名作は、明治時代から現在まで、全国のたくさんの人々から愛読されています。



 中学校や高校の国語や社会の教科書でもおなじみの人物です。



 また、千円札の肖像画にもなったことがあり、その顔も広く知られています。

 むしろ、夏目漱石の名前を聞いたことがないという人のほうが珍しいと思えるほどの有名人ですね。



 日本を代表する文豪として、不滅の光を放っている夏目漱石。

 才能に恵まれ、東京帝国大学 (現在の東京大学) を卒業し、ロンドンに留学。



 一見エリートコースまっしぐらのようにも見えますが、はたしてそうでしょうか。



 実は、彼は兄弟差別をはじめとする被差別の立場にあったのではないでしょうか。



 たぐいまれなる文才もさることながら、漱石はさまざまな差別を乗り越え、自分の自由意思を大切に生き抜いた人だと僕は考えています。



 まず、彼は望まれて生まれた子ではありません。




 金之助という名で生まれた漱石は、夏目家の5男3女の末っ子で、予定していた子どもではありませんでした。


 父はすでに52歳、母は40歳でした。だから、彼はすぐに、東京・四谷にある古道具屋に里子に出されてしまいました。




 あげくのはてに、赤ん坊の漱石は、夜は 「がらくた」 と一緒に小さなザルの中に入れられ、店の前に並べられていたのです。




 これはひどいですね。




 さすがに漱石はいったん実家に戻されますが、すぐにまた別の家へ養子に出されました。

 養子先は内藤新宿の名主をしていた塩原家です。




 だから漱石は少年時代は 「塩原金之助」 と名のっていました。

 ところが、塩原家の夫婦離婚により、またしても実家に戻されます。





 居場所がなかったのですね。





 結局、彼が夏目姓を名乗ることができたのは、成人後のことだったのです。

 まさに、身の置き場がない、波乱の少年時代を過ごしたのでした。





 しかし、彼には学問の才能がありました。

 不遇を解消して、ぐんぐん力を伸ばしていきました。





 東京師範学校や松山の中学校の教師、ロンドン留学も果たしました。





 1907年、東京大学教授に内定しましたが、漱石はこれを辞退して朝日新聞に入社しました。


 作家として名が知られてくると、1911年、当時の文部省は文学博士の学位を贈りましたが、彼はこれも辞退しています。





 この行動には、権威にとらわれない漱石の信念が見えますね。





 また、雑誌 「太陽」(博文館発行) が行った人気投票で、漱石の作品が一等になったとして金杯を贈られましたが、このとき彼は金杯返却のために同社を訪れました。





 なぜでしょうか。





 この背景には、国家権力や大衆の人気投票などが 「人間そのものの価値」 までも決めつけるような姿勢で、相手を格付けする態度は許さないという考え方があるのです。





 僕は、世の中にあるたくさんの表彰制度を、今一度吟味してみる必要があるのではないかと考えています。


 誰が、どのような目線から、どんな意味で表彰するのか。





 もし、人間そのものの差別につながるようなものがあったとしたら、それは権力者や支配者が、「支配のために差別を巧みに利用している」 ということになるかもしれませんね。





 夏目漱石は、自らの信念を貫き通し、自由に生きた人だったと思います。





 すぐれた文学作品とともに、彼自身の


 「権威にとらわれない生き方」





 この事実に注目するべきものがある、と考えるのは僕だけではないと思います。