6 謝花 昇(じゃはなのぼる) (1865 ~1908)




~自由と平等のために民族差別と闘った沖縄自由民権運動の父~




 訪問者の皆さんは、「沖縄」 と聞くと、どんなイメージをもたれるでしょうか。


 青い空、白い雲、透き通る海とサンゴ礁。





 僕は長い間、こんなふうに沖縄をイメージしていました。


 しかし、美しい自然と同時に、歴史上欠かせない事実があります。




 それは、沖縄県の人々が、他府県の人々から差別されてきているということです。




 この差別に正面から向き合い、全財産を投げ打って闘った人が、謝花 昇 (じゃはなのぼる) です。




 そもそも沖縄は江戸時代まで 「琉球王国」 という独立国でした。


 誇り高き独自の文化をもっていましたが、薩摩藩による武力支配で、王国は滅ぼされてしまいました。




 明治政府は、その支配を追認するかのように 「琉球処分」 を実施します。

 廃藩置県で一方的に 「沖縄県」 としたのです。




 高校の日本史の教科書では、この事実を教えています。




 でもその記述内容は、支配者である明治政府の立場からのものだと感じているのは僕だけでしょうか。




 昇は沖縄本島にある東風平間切 (こちんだまぎり) の貧しい農家に生まれました。

 幼いころから勉強が好きで、農作業をしながら地面に字を書いて学ぶような少年でした。




 しかし、学校には行きたくても行かせてもらえませんでした。

 それは、父親が 「百姓に学問はいらぬ」 と譲らなかったからです。




 だから、昇は父親に隠れて学校へ行き、教室の外から先生の話を聞いていました。



 すごい努力家ですね。



 僕にはとてもまねはできません。




 母親は昇の才能を見抜きました。

 夫を説得したので晴れて学校に行けるようになったのです。




 17歳になると、沖縄師範学校に進学します。

 ここの生徒はほとんど士族の子どもたちで、昇は 「いなか者」 と馬鹿にされ、差別されながらも勉強に励みました。




 やがてその成果が出ます。




 1882年、留学生に選ばれて上京することになったのです。

 学習院や帝国農科大学 (現在の東京大学農学部) で学ぶ機会を得ることができました。




 在学中に、中江兆民や幸徳秋水に出会います。




 「長い間、しいたげられてきた農民を救うために闘うのだ」

 という言葉に昇は感激し、自由民権運動を沖縄のためにささげようと決心しました。




 卒業後、沖縄県庁の技師として就職しましたが、ここでまた差別にあいます。

 知事をはじめ、県庁で働く人々はほとんど他府県の人で、沖縄をまるで植民地のように考えていた人が多かったのです。




 その証拠に、当時の沖縄には参政権がありません。

 これはイギリスの植民地時代のアメリカと同じですね。




 県庁を辞職した昇は、1899年、「沖縄クラブ」 を結成して自由民権運動を起こします。

 本土からの支配的な県政、土地問題、参政権の獲得が三本柱です。




 仲間との遊説や機関紙 「沖縄時論」 (おきなわじろん) を発行して訴えたのです。

 同じ日本国民なら、沖縄県民が選挙権をもつことは当然の権利でしょう。




 しかし、鹿児島出身の知事は、新聞社を味方につけ沖縄クラブをつぶしました。

 明治政府にも訴えましたが、時期尚早ということで、事実上却下されました。




 条件付きながら沖縄県民の参政権が実現したのは、昇の死後8年たってからのことでした。




 ウチナーンチュという言葉をご存知でしょうか。



 沖縄から近畿地方などへ移住している数万人の人たちはこう呼ばれ、就職差別をはじめ、現在でもさまざまな差別を受けています。



 最大のアメリカ軍基地が沖縄にあるのもなぜでしょうか。



 謝花 昇は自由と平等にかけた人として、もっとたくさんの光を当てられるべきだと思いますがいかがでしょうか。

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5 石井十次 (1865 ~1914)




~孤児たちとともに生き生涯を捧げた宮崎の教育者~




 「かわいそうだから助けてあげる」

 このくらいの気持ちでは、あそこまでできないのではないでしょうか。




 石井十次 (いしいじゅうじ) は 「孤児の父」 「社会福祉の先駆者」 などとよばれる、明治の傑出した教育者です。


 日本で初めて 「孤児院」 を作り、生涯で3,000人もの孤児とともに生きました。




 この時代の孤児は浮浪者と見なされ、偏見や差別にさらされていました。


 そこに正面から向き合った十次の生き方には、僕はとても共感できます。




 1865年、宮崎県の高鍋というところで生まれました。

 当時は貧しい村で、同じ年頃の友だちの多くが、日々の食べ物にも困るような暮らしをしていました。




 16歳で結婚し、小学校の教師や警察官をしていました。

 病気で入院したときに、院長を通して医学とキリスト教に出会いました。




 退院後は、岡山県甲種医学校に進学し、医学の勉強に励んでいます。

 両親や郷里の人々も将来は立派な医師になると期待されていました。




 ところが、1887年、医学部4年生のときのことです。

 診療中に、夫を失い途方にくれる四国巡礼の貧しい母子に出会いました。




 長男の養育をすがるように懇願されたのです。




 十次の生き方が変わった瞬間ですね。




 その長男を預かり育てる決心をしました。




 その背景には、以前に同じように両親を失った他人の子供を育てた自分の母親の姿があります。




 また、新島襄 (にいじまじょう) の同志社大学設立趣意書、入院中に入信したキリスト教の人類愛の精神があったことも明白です。



 同年、十次は 「岡山孤児院」 を作って、51人の孤児を引き取りました。


 午前中は勉強、午後からはいろいろな仕事に励む教育方針で、「学ぶことと、働くこと」 が二本柱です。




 しかし、当時の世間の目は、孤児に対して偏見をもっていました。




 「浮浪者を集めて何かをたくらんでいるのではないか」

 こんなふうに捉えられ、政府や県、そして市民もまったく無関心でした。




 孤児たちも十次も、被差別の立場にあったといえますね。




 預かる孤児が増えてくると、医者になるための勉強かほとんどできなくなりました。

 両親をはじめ、郷里の人々の自分に対する期待を思うと、十次は悩み、苦しみ続けたのです。




 1889年、ついに6年間学んだ医学書をお寺の境内で燃やしてしまいました。


 「人間は二人の主に仕えることはできない」




 彼の生き方に決定的な影響を及ぼした聖書の言葉です。




 「医者を志す者は他にもいる。

 自分の使命は孤児とともに生きることだ」




 これが十次の結論です。




 1898年、孤児救済の応援をしてもらうために、音楽隊を連れて全国を回り始めます。

 入場券や聖書を買ってもらうことにより、資金を集めたのでした。




 さらにアメリカや台湾などでも、活動を展開していきました。

 この間、濃尾地震や日露戦争、東北地方の大凶作などから孤児の数はますます増え、1,200人もの大家族になっていました。




 1910年、「自分たちの生活に必要なものは、自分たちの手で作り出すこと」

 この理想を実現するために宮崎県の茶臼原 (ちゃうすばる) へ孤児院を移転しました。




 宿舎、学校、集会場などが、みるみるうちに茶臼原の広野に出現したのです。




 「教育院にして養育院にあらず」・・・十次の言葉です。




 でも、子どもとともに食事をし、満腹になるまで食べさせることも実践しました。




 これほど貧しい孤児たちに本気で寄り添った人物が、他に何人いたでしょうか。




 その真剣な生き方には、ただ脱帽ですね。
4 景山英子(かげやまひでこ) (1865 ~1927)




~女性解放運動に命をかけた東洋のジャンヌ・ダルク~




 景山英子がフランスのジャンヌ・ダルクと似ているといわれるのはなぜでしょうか。

 ジャンヌは10代の少女でしたが、フランスの自由のために侵略してくるイギリス軍と紅一点で戦いました。




 英子も18歳のとき、清 (当時の中国) の傘下にあった朝鮮の独立を助けようと、爆弾事件を計画して、紅一点で闘ったのです。



 後に逮捕・投獄されていることも共通点ですね。


 ともに自由のために命をかけた少女だったのです。




 1865年、英子は漢学者の父と女学校教員の母との間に岡山で生まれました。

 15歳で助教員も務めることができた才女でした。




 1882年、岸田俊子の演説に感激して、自由民権運動を志す決心をしたのです。




 翌年には母とともに、女性が学べるように夜間部のある私塾 「蒸紅学舎」 を設立し、演説会も開いて 「人間平等論」 を力説しました。




 しかし、集会条例に違反したとして、学舎は1年でつぶされてしまいました。


 明治政府による自由民権運動の妨害の典型的な例ですね。




 このころ、18歳の英子はすでに婚約していました。

 相手は民権論者の小林樟雄 (くすお) です。




 この小林と自由党急進派の大井憲太郎は、1885年、大阪事件を起こします。


 朝鮮の独立を助けようとする計画でした。




 英子もこの計画に加わり、女ならあやしまれないと、汽車で爆弾を運ぶ役目を買ってでたのです。


 しかし、事前に発覚し、逮捕・投獄されてしまいました。




 これはちょっと過激でしたね。




 4年間の獄中生活で、大井憲太郎は英子に熱烈なラブレターを送ります。

 見張りの目を盗み、愛を綴った紙片を彼女に送り続けたのです。




 1889年、大日本帝国憲法発布の大赦により、大阪事件の逮捕者は出獄することができました。

 大井は婚約指輪を贈り、求婚します。




 英子は意を決して小林と絶縁し、大井の内縁の妻になり、子どもも一人生まれました。

 大井とともに全国を遊説して歩きましたが、彼の浮気により、結局離婚しました。




 1892年、アメリカ帰りの自由主義者福田友作と恋愛し結婚します。

 3人の子どもも生まれました。




 彼女が 「福田英子」 と名のったのはこのためです。

 しかし、1900年、友作と死別してしまいました。




 波瀾万丈の人生ですね。




 それでも英子の自由のための活動は続きます。

 「女は経済的に自立すべきだ」



 という持論を実践し、角筈 (つのはず) 女子工芸学校を設立しました。



 その後、日本初の社会主義女性新聞である 「世界婦人」 を刊行したり、弾圧と生活に苦しみながらも、女性の結社権を禁じた治安警察法5条改正を議会に請願する運動を起こしました。



 この治安警察法という法律が女性差別であることは明白ですね。



 さらに、婦人選挙権獲得のための活動や、田中正造を後援して、足尾鉱毒事件の犠牲者となった谷中村民救済支援なども行い、自由と平等一筋に生きています。



 晩年の英子の言葉です。



 「男は駄目ね、位階や勲章に目がくらむから」




 確かに激しくて過激なところはありましたが、英子のまっすぐな生き方に共感できるところがあると考えるのは僕だけでしょうか。



 自由民権運動と女権拡張のために闘いぬいた信念は本物だと思います。



 「女性解放運動の先駆者」 として、もっと多くの人からたくさんの光が当てられるべき、明治の数少ない女性の一人ではないでしょうか。
3 留岡幸助(とめおかこうすけ) (1864 ~1934)




~身分差別を乗り越えて非行少年と向き合った家庭学校の創始者~




 留岡幸助をご存知でしょうか。



 日本史上の有名人物として広く知られているとはいえませんが、基本的人権の視点から見れば、その生き方に学ぶところが大いにある人物だと僕は考えています。



 体を張って差別を乗り越え、自由と平等にかけた人ではないでしょうか。



 犯罪者差別に苦しむ非行少年と正面から向き合った、明治の歴史では特筆するべき生涯を送った数少ない人間の一人だと思います。



 幸助は現在の岡山県高梁市 (たかはしし) の理髪業を営む父・吉田満助の次男として生まれました。

 生後まもなく、分家で米の小売商を営んでいる、子どものいなかった留岡金助・勝子の養子に出されています。



 留岡夫妻は幸助をたいそうかわいがり、大切に育てました。

 近所の侍の家まで母乳を分けてもらうために、額を地べたにこすりつけて必死に懇願したほどです。



 しかし8歳のときに、幸助は過酷な身分差別に遭います。




 「おい幸助、おまえ商人のくせになぜ寺子屋に来る、生意気な、商人は商人らしく家で働いておれや」

 高梁川 (たかはしがわ) の河原でのことでした。




 士族の子どもは腰に木刀を差し、殴りかかってきたのです。

 「痛って!」 




 殴られた幸助は思わず士族の子の右手に噛みつきました。




 反撃されることに慣れていなかった相手は、驚いて泣きながら帰って行きました。

 明治になったとはいえ、まだ江戸時代の長い風習は簡単には変わっていなかったのですね。




 翌日、父親の金助は武家屋敷に呼び出され、米をはじめとする商業の取引を一切差し止められてしまいました。

 幸助は父親から何度も殴り飛ばされるという激しい折檻 (せっかん) を受けました。




 何か、大人たちの方が大人げないですね。




 その後、小学校の退学、家出、座敷牢への監禁、行商の強制など、苦難の少年時代を送っています。

 典型的な身分差別に苦しみながら、幸助は自分の納得する生き方を探し続けました。




 転機は16歳のときに訪れます。




 「武士の心も、農民の心も、商人の心も、神の前では皆同じ。

 人は生まれながらにして皆平等である」




 キリスト教ですね。




 幸助は洗礼を受けました。



 1888年には、同志社神学校に入学し、新島襄 (にいじまじょう) からも学んでいます。

 卒業後は、京都の北にある丹波教会の牧師として活動を開始しました。



 彼が特に力を入れたことは 「家庭教育」 です。




 「教育とは誰もが平等に受けることができるべきものです。

 家柄や身分、職業によって親が自分の意向のみで押しつけることはよくありません」




 道理をわきまえた愛をともないながら、家庭教育の大切さを訴えたのです。

 1891年、幸助は教誨史 (きょうかいし) になりました。




 教誨史とは、監獄への収容者、受刑者の徳性の育成や精神的な救済を行う人です。


 北海道で 「この世の地獄」 を見たからです。




 囚人たちは過酷な労働、体罰、その場での射殺もあり、わずか6か月間に300人のうち、145人が眼病、72人が死亡しました。




 犯罪者差別ですね。




 彼は監獄の改良とともに 「家庭学校」 を作り、非行少年らと正面から向き合いました。

 現在の児童自立支援施設の始まりです。




 まちがいなく言えることは、犯罪者だって 「人間」 です。


 幸助は、家庭的愛情を重視して犯罪者差別にも立ち向かったのでした。




 近年では、留岡幸助を取り上げた中学校歴史の教科書も出てきました。




 日本史上、もっと広く知られてもよい人物ではないでしょうか。

2 岸田俊子 (1863 ~1901)




~男女平等を主張した京都の女性民権家~




 女性差別に正面から向き合った日本史上初の女性ではないでしょうか。



 38年という短い生涯の中で、自由民権運動で男女平等を訴えて精力的に活動し、多くの人々に限りない影響を及ぼした女性が岸田俊子です。



 すでに海外ではJ.Sミルが、日本では福沢諭吉が女性解放を唱えています。


 俊子は

 「女性自身による女性解放運動の先駆者」



 として、もっと注目されるべき人物ではないかと僕は考えています。




 彼女は京都の呉服商小松屋を営む岸田茂兵衛の長女として生まれました。

 小さい時から秀才の誉れが高く「京の神童」と呼ばれて周囲からもてはやされていました。

 


 この背景には母タカの教育があります。

 母は日蓮の立正安国論や中国の漢詩を読み書きするなどしていて、俊子にも3歳のころから教えはじめました。




 浄瑠璃 (じょうるり) や芝居も見学させ、かなり早くから自らの手で学問教養を身につけさせる教育をしていました。

 女子師範学校まで進みましたが、病気で退学することになりました。




 その後1879年、宮中女官に抜擢されます。

 これは平民女性としては初めてのことで、当時相当な栄誉だったのでしょう。




 皇后に漢学を進講する仕事などをしましたが、長続きはしませんでした。

 1年あまりで病気を理由に辞任しています。

 


 後の俊子の自由な活動から考えると、宮廷生活というものは、どう見ても彼女の性分には合わなかったのではないでしょうか。




 1881年、土佐旅行をきっかけに自由民権運動に参加します。


 弁舌にも優れている俊子は、全国を遊説して歩きました。




 彼女の演説をたった一度きいただけでそのことばにうたれ、自分もまた語りだし、歩み始める女性も出始めました。


 男女平等論や一夫一婦論、女子教育論、藩閥政治批判などに熱弁をふるい、人気を集めました。




 論理的な説得力を持っていたので、男女を問わず共感できた人々が増えたのではないかと思います。




 しかし、彼女の前にも藩閥政治の権力が立ちふさがります。

 1883年、滋賀県大津での演説 「箱入娘」 が政治演説とみなされ、集会条例違反で罰金、投獄されてしまいました。




 国民の目線から見れば、この集会条例そのものが、不自由で理不尽であることは明白ですね。




 自由民権運動を妨害するための、政府のための決まりだったのです。


 翌年、男性の理解者になるのでしょうか、自由党の中島信行と結婚して、中島俊子と名のりました。




 1884年、自由党系の新聞 「自由燈」 (じゆうのともしび) に10回にわたり連載記事を発表します。


 題名は 「同胞姉妹に告ぐ」 です。




 この中で彼女は訴えます。


 「男尊女卑は野蛮な欲心からでるもので、男女の関係は愛憐をもってせよ」 




 男本位の社会や民権運動の中の女性差別も鋭く指摘しました。




 その後、「女学雑誌」 に女性の地位向上をめさす評論、随筆、漢詩を次々に発表し、女性解放のために新しい意識をもつ進歩的女性になりました。




 女性差別が多くの場合、「男性の問題」 であることは言うまでもありません。

 差別はいくつかの例外を除いて、される側ではなく、「する側の問題」 だからです。



 しかし、俊子は知人にこんな本音も漏らしています。

 「私は実は女が大嫌いさ、つまらん外部ばかりの話をしてな、どうも疲れるよ。」



 この言葉の背景にはいったい何があるのでしょうか。




 女性差別は大きな人権侵害の一つです。


 その解放のために歴史上の第一歩を踏み出した岸田俊子。




 僕は新たに教科書に載せるべき人物の一人ではないかと思います。