1 田中正造 (1841 ~1913)




~農民とともに命をかけて公害と闘った栃木の代議士~




 その熱き生涯、波乱に富んだ人生。


 これほど住民とともに歩んだ衆議院が、ほかに何人いたでしょうか。



 田中正造が亡くなった時は無一文になっていました。

 理不尽で卑劣な冤罪 (えんざい) による拷問に耐え、死を覚悟した明治天皇直訴。



 彼の生き方は一貫しています。


 常に国民の目線で行動し、自由のために、時の権力と正面から闘い続けました。



 でも僕が彼のことを知ったのは、社会人になってからです。

 中高生のときには、正造の名前すら知りませんでした。




 1841年、正造は現在の栃木県佐野市の名主の家に生まれました。

 ところが、明治維新の1868年に投獄されています。



 主家の旗本である六角氏が江戸屋敷普請のために、巨額の先納金を割り当ててきたのです。

 実情を知らぬ暴挙として訴え、願書を出したところ、「身分をわきまえぬ行動」 として牢に入れられてしまいました。




 権力者の典型的な身分差別ですね。



 縦横高さともに1mほどしかない狭い過酷な牢で、翌年まで出所できませんでした。



 1878年、区会議員になり、栃木新聞が創刊されると、紙面上で国会の設立を訴えました。

 新聞の編集長としても、田中正造はこの時点ですでに自由民権運動をやっていたことになります。



 1880年には栃木県議会議員になり、立憲改進党が結党されると入党しています。



 やがて、当時の県令だった三島通庸 (みしまみちつね) と議会で対立しました。



 自由民権運動の激化事件の一つである加波山事件 (かばさんじけん) に関係したとされて逮捕されますが、三島の異動によって釈放されました。



 またしても逮捕ですが、あくまで自由と正義を貫き通しました。



 1890年、ついに国会が開設され、正造も立憲改進党の衆議院として参加します。

 この年、「足尾鉱毒事件」がおこりました。



 渡良瀬川 (わたらせがわ) の洪水とともに、上流にある足尾銅山から流れ出た鉱毒が、下流に甚大な被害をもたらしました。

 田畑の農作物は枯れ、魚類は死滅してしまったのです。



 正造は国会でこの問題をまっ先に取り上げ、鉱毒に関する質問を何回もしました。

 現地や東京でも演説を行って訴えています。



 また、農民とともに東京へ陳情に行き、特に1900年の陳情では警官隊と衝突して流血の事件となり、農民が多数逮捕されました。


 これは川俣事件と呼ばれています。



 この事件を国会で取り上げたとき、当時の総理大臣、山県有朋 (やまがたありとも) は 「質問の意味がわからない」 として答弁を拒否しました。



 1901年、正造はついに天皇直訴に出ます。



 場合によっては殺されます。

 命がけの決断でした。



 嘆願書を持って、天皇の馬車に突進して叫びました。

「お願いがございます。お願いがございます。」



 しかし、これも警官に取り押さえられ失敗に終わります。



 天皇はこのできごとには気付きませんでした。

 政府は世論の沸騰を危惧し、ただの発狂として罪も問わずに釈放したのでした。



 「何もなかったことにした」 ことは、山県の答弁と同じですね。

 1903年、政府の鉱毒調査委員会は栃木県南部の谷中村に、渡良瀬川の遊水池をつくろうとしました。



 これは問題のすり替えですね。



 公害問題を治水問題にすり替えたのです。

 谷中村に対する差別ともいえます。



 正造は谷中村に移り住み、住民とともに強制破壊当日まで断固として抵抗しました。



 後に足尾銅山は70年後の1973年に閉山されました。

 さまざまな差別を乗り越え、その身を削ってまでも住民とともに自由のために権力と闘い続けた田中正造。



 歴史上、もっと大きく取り上げられてもよい人物ではないでしょうか。
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8 植木枝盛 (1857 ~1892)




~憲法草案を作り国民主権と革命論を唱えた自由民権運動の理論家~




 「自由は土佐の山間より出づ」



 これは植木枝盛(うえきえもり)の言葉です。



 自由民権運動で有名な立志社に所属し、板垣退助のもとで、その36年という短い生涯を自由と平等にかけた活動家でもあります。



 僕が中高生のときは習いませんでしたが、近年では教科書や資料集でもおなじみの人物になりました。


 すでに明治時代に、現在の日本国憲法の基本的人権や国民主権の下敷きになった憲法草案を作った人として知られています。



 枝盛は土佐の中等の藩士の子として現在の高知市で生まれています。

 8歳から習字を学び、藩校の致道館でも学びました。



 1873年、土佐藩の海南私塾の生徒として抜擢されましたが、枝盛は私塾の陸軍士官予備門的な方針が不満だったのです。



 わずか半年で退学してしまいました。



 1875年、19歳で上京し、福沢諭吉の慶応義塾や三田演説会で自由な思想を学んでいます。

 これは彼にとって極めて大きな体験であったと考えられますね。



 ところが、とんでもないことがおこります。

 1876年、「郵便報知新聞」 に投書した彼の 「猿人君主」 が掲載されると、2か月間投獄されてしまったのです。



 その内容 は「言論の自由を制限する明治政府のやり方は人を猿にするのと同じだ」 というものです。



 政府を批判しただけで監獄に入れられてしまうのですね。



 上から目線で国民を見下している様子がよくわかります。

 はたして当時の明治政府は国民の代表といえたのでしょうか。



 しかし、いくら力で抑えつけても、多くの国民が本当に望んでいる 「自由」 への志は消滅しませんでした。

 枝盛は出獄後、早速 「人民の革命権」 を主張しています。



 さらに1877年、高知へ帰り、立志社に入ります。

 板垣退助の演説に感動したからです。



 さらに愛国社、国会期成同盟、大同団結運動にも参加し、遊説なども行って、本格的に自由民権運動で活躍しました。数々の執筆活動も行っています。



 中でも僕が特に注目しているものは、「東洋大日本国憲案」 という1881年の私擬憲法の草案です。


 220条からなる膨大なものです。



 その第42条には 「日本の人民は法律上において平等となす」 と明記されています。


 また第49条では 「日本人民は思想の自由を有す」 とあります。



 この8年後に日本史上名高い 「大日本帝国憲法」 が正式に公布されますが、国民のための憲法はどちらであるか、ここに書くまでもありませんね。



 そのほか、地方自治を尊重すること、立法権を全国民に属するものとすること、死刑制度の廃止なども明記されています。



 その後、男女平等や家族制度廃止についても新聞紙上で主張しました。



 中江兆民らとともに 「自由新聞」 の社説を担当したこともあり、1890年には、第1回衆議院議員総選挙に高知県から立候補して当選しました。



 しかしその2年後、第2回の衆議院選挙を前にして胃潰瘍が悪化し、わずか36歳の若さでなくなりました。



 あまりにも惜しい人物を亡くしたと考えるのは僕だけでしょうか。


 植木枝盛は若くして亡くなったために、死後長い間日本の歴史から忘れられていました。




 彼の業績に再び光が当てられ始めたのは、時代が昭和になってからです。

 鈴木安蔵や家永三郎の努力によってよみがえったのです。




 これから将来も、もっと大きく扱われるべき人物ではないでしょうか。




 基本的人権の視点から見ると、日本の歴史上なくてはならない重要な活動をした人だと僕は考えています。

7 小野 梓 (1852 ~1886)




~自由を求めて自ら平民になった土佐の武士~




 当時、この反対ならありました。

 お金を出して買ってまでも、士族の身分を欲しがる平民はたくさんいたのです。



 18歳の小野梓 (おのあずさ) はその逆をやりました。



 なぜでしょうか。



 自分が行きたい学校の選択の自由、学問の自由を勝ち取るためです。



 武士の身分のままでは、土佐藩から藩校に指定され、強制されてしまいます。

 わざわざ伯父の養子になって、平民になりました。



 勇気があり、心が解放されていたからこそできることですね。



 梓は幕末の土佐藩宿毛 (すくも) で、低い身分の武士の子として生まれました。

 武士どうしの歴然とした差別の中で少年時代を過ごしています。



 5歳のときから習字、9歳で儒学を学びますが、なまけてばかりいました。

 11歳のころに漢学校ができてから頭角を現し始めました。



 1869年、明治維新で東京に出て昌平校を選んで学びはじめました。

 しかし、藩からそれを否定され、帰国の命令により土佐へ送り返されたのでした。



 1870年、平民になって再び宿毛を出た梓は、大阪で英語を学びはじめ、後に海外留学をしました。

 清国やイギリス、アメリカに渡り、経済や法律の勉強を積んだのです。



 このときに学んだイギリスの立憲政治は、彼のその後を決定づけるものになったと考えられますね。



 帰国後、文化啓蒙団体である 「共存同衆」 を結成し、「共存雑誌」 を発行しています。



 日本で行われていた藩閥政治に多くの疑問をいだき、各省の情実や因縁による弊害を除去するために、会計検査院の設立を建言しました。



 30歳のとき、親友の大隈重信が参議たちからのけ者にされて辞職しました。

 このとき梓も会計検査官をやめて、自由民権運動を始めます。



 有名な「立憲改進党」 ですね。



 大隈重信に立憲改進党の結成を進言してその準備工作を行ったのは、主として小野梓だったのです。



 イギリス流の議会政治を主張して、当時の藩閥政府と闘いました。

 私擬憲法である 「国憲私案」 も起草しています。



 誰が国民の立場に立っているか、誰が自由のための闘っているかは明白ですね。



 「学問の独立」 も主張してその実現のために行動しました。

 当時の官立大学はまったく官僚の意のままで、独自の精神もなく諸外国の模倣に過ぎないと考えました。



 東京帝国大学では、日本人の教師までが英語で講義をしており、英語の講義でなければ学問ではないように考えられていたのです。



 梓は、次のように批判しました。


  「外国の文書と言語をもってのみ教育が行われていては、学問は独立できない」 



 この自由な学校を設立しようという意見が、大隈重信と一致しました。

 大隈は新しい学校設立の準備を小野梓に一任したのでした。



 梓はすでに若い学徒を集めて鴎渡会を組織し、政治経済の学術研究をしていましたが、このメンバーを中心にして、大隈の別邸に学校を開く準備をはじめました。



 こうして設立されたのが 「東京専門学校」 です。



 現在の早稲田大学ですね。



 教師が日本語で教育したことも、当時としては大評判になりました。



 1886年、小野梓は肺結核で倒れます。

 わずか35歳の若さでした。



 しかし、その短い生涯は一貫して国民の自由のためにあり、現在そして将来にも限りない多大な影響を及ぼしいくことでしょう。



 彼の生き方に共感できる人はたくさんいるのではないでしょうか。



 僕はもっと日本全国の多くの人々に知られてもよい人物だと考えています。
6 中江兆民 (1847 ~1901)




~自由と国民主権をめざして権威・権力と闘った東洋のルソー~




 フランスの有名な啓蒙思想家、ルソーの考え方を日本全国に広めたことで知られていますね。


 国民主権や政府への抵抗権は、自由民権運動の理論的根拠の一つになっています。




 服装、身だしなみにもこだわらず、さまざまな社会的な因習にも反逆をくりかえしたので、奇人としても噂になる人物でした。


 しかし、明治時代にこれほど差別意識から解放され、自由に行動できた人も珍しいのではないでしょうか。




 兆民は幕末に土佐の足軽の家に生まれています。

 坂本龍馬と同じ同郷の 「下士」 で、武士とはいっても 「上士」 たちから強烈な差別を受ける立場にありました。




 龍馬が長崎で海援隊を主宰していたころに、兆民は運命的な出会いをしています。

 限りなく自由でスケールの大きな生き方をする龍馬を、終生敬愛していたと伝えられています。




 龍馬のたばこを買いに走ったこともありました。

 その生きざまについて多くのことを学んだことでしょう。




 時代が明治になって、兆民は私塾の教頭をやっていました。

 英語やフランス語などの語学に優れていたのです。




 政府派遣の留学生になろうと切望しましたが、公式の選考に漏れてしまいました。

 そこで、大久保利通への直談判 (じかだんぱん) をやろうとします。




 屋敷を訪ねましたが、紹介状もなく、汚い身なりの兆民は会ってもらえず、何度も断られました。




 最後の手段です。




 大久保の馬車を強引に引き止め、直接留学を訴えたのです。


 「大久保さん!海外留学を官立の学校生徒に限るとは、いったいどういうことですか」




 にはじまり、大久保の、なぜ同郷の板垣や後藤などの先輩に頼まないのかという質問には毅然と言い返しました。


 「私は、そういうつてを利用するのは正しくないと思っています」




 この一言で大久保の心は動きました。




 結局兆民は、岩倉使節団に加わり、フランス留学を果たしたのです。

 この留学が、中江兆民のその後の生き方を決定づけたと僕は思います。




 ルソーの 「民約論」 に学び、帰国後は外国語学校の校長を経て、東京の自宅に 「仏蘭西(フランス)学舎」 を創立しました。




 35歳のとき、西園寺公望 (さいおんじきんもち) の創刊した 「東洋自由新聞」 の主筆になりました。

板垣退助の自由党の設立にも参画し 「自由新聞」 紙上で民権思想を訴え、薩長藩閥政治と闘いました。




 たくさんの国民から喝采を受けたのは言うまでもありません。


 国民の立場に立った、国民のための活動だからですね。




 1886年、自由民権運動の激化事件でおとろえていた運動を、再び高揚させました。


 星亨 (ほしとおる) や後藤象二郎らとともにおこしたこの民権運動は、特に 「大同団結運動」 と呼ばれています。




 4年後の1890年、ついに第1回衆議院選挙が行われました。

 日本史上初めてのことですね。




 兆民はこの選挙に大阪四区から立候補し、見事にトップ当選を果たしました。


 国民の本当の代表者は誰であるかが証明されたのですね。




 死に際も鮮やかです。




 「医学の進歩に貢献したいので、自分が死んだら解剖に使ってくれ」




 「葬式に宗教上の儀式はいらない。

 友人や親せき、知人などが集まって酒でも飲んでくれ」




 まさにこの通りに実行されました。

 このときに初めて 「告別式」 という言葉が生まれたのです。




 現在でも使われていますね。

 兆民らしい解放された最期です。




 新しい時代を一般庶民の立場から切り開き、差別や権威、権力と闘いぬきました。




 近代日本における抜きん出た存在で、自由と平等にかけた中江兆民。



 その生き方に共感できるのは僕だけではないと思います。