5 渋沢栄一 (1840 ~1931)




~私利私欲に走らず日本の近代化をめざした埼玉の実業家~




 「日本資本主義の父」 と呼ばれる有名な実業家ですね。


 近年では中学校や高校の歴史の教科書でも大きく取り上げられるようになってきました。




 なぜでしょうか。




 経済的に成功した実業家は他にもたくさんいます。

 でも渋沢はそれにとどまらず、日本全体に限りない大きな影響を与え、現在にもつながっているからだと思います。




 さらに僕が注目していることは、この世界では傑出した人権感覚の持ち主だと考えられるということです。




 幕末に、渋沢は現在の埼玉県の豪農の家に生まれました。

 17歳のとき、時の領主から500両の御用金を差し出すように命じられました。




 父親の代わりとして代官所に出頭したとき、身分をかさにきた役人の傲慢な態度に正論で対抗しましたが、ひどい仕打ちを受けてしまいました。




 「あんなろくでもない人間が、ただ侍だというだけで威張り散らすのは階級制度が間違っているからだ」


 と、早くも身分差別の矛盾に気づきます。




 1863年、24歳の渋沢は 「世直し」 を意識し、尊王攘夷運動に参加します。




 過激ですが、尾高惇忠 (おだかあつただ) らとともに高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒すという計画を立てました。




 しかし、惇忠の弟・長七郎の懸命な説得により中止になりました。




 これが本当に実行されていたら、後の渋沢栄一はなかったかもしれませんね。


 1864年、一橋慶喜 (ひとつばしよしのぶ )に仕えることになりました。




 後の15代将軍徳川慶喜ですね。

 1867年、パリ万博に出席する将軍の弟である徳川昭武 (あきたけ) の庶務・会計係として随行しました。



 
 ヨーロッパ各地で先進的な産業などに触れるとともに、将校と商人が対等に交わる社会に感銘を受けました。


 西欧社会の人間平等主義は、その後の渋沢の生き方に大きな変化をもたらすことになります。




 人生の転機はここにあったのですね。




 時代は変わって、明治維新の1869年、大隈重信に説得されて大蔵省に入省していた渋沢は、人権の確立や四民平等の必要性を感じていました。




 江戸時代の被差別身分である穢多 (えた)、非人の呼び名を廃止する 「解放令」 の原案は、渋沢から大隈に提出されたものなのです。




 このことだけでも、彼らには人権感覚があり、新しい時代を築くきっかけを発案した人物であることがわかりますね。


 海外で学んだ資本主義を実践に移そうとしましたが、税制改革で大久保利通と意見が合わず結局退官しました。




 その後民間人の立場から、日本の経済の発展に努め、第一国立銀行を創設しています。

 そして、彼の信条です。




 「企業は国家や社会のために貢献するものでなくてはならない」




 たくさんの企業や社会事業に携わった目的は、日本の近代化にありました。

 日本社会の健全な育成に全力を注いだのでした。




 企業の経営や会社を大きく成長させることが目的ではありません。




 その証拠に、財閥は作っていませんね。




 彼は労働問題についても取り組み、工場法や労働組合の整備を主張しました。


 労働者という国民の立場に立っています。




 教育分野での功績も大きく、女子の地位向上を図るための女子教育を推進しています。

 寺社などの宗教団体には、宗派を超えて手をさし伸べ、国際親善のための国際団体にも協力しています。




 常に一般民衆の立場に立ち、国民の目線から精いっぱい活動した大実業家だと思います。




 彼の生き方に共感できる人は、全国にたくさんいるのではないでしょうか。
スポンサーサイト
4 大隈重信 (1838 ~1922)




~排除の差別を乗り越えて民衆とともに生きた首相~




 この時代の政治家の中では、最も国民に近い人だったのではないでしょうか。


 だから国民からの人気がとても高かったのだと思います。




 明治政府の役人でありながら、自由民権運動の大切さをいち早く認めたのは大隈重信です。

 そして自らもこの運動に参加しました。




 多くの藩閥政治家たちが自由民権運動を弾圧し、一部の政治家たちに都合のよい政策を展開していましたが、大隈は違いました。




 一般庶民の立場に立てる人だったのですね。




 1838年、佐賀藩士の長男として生まれました。

 父親は砲術長を務める上士でした。



 7歳のときに藩校である弘道館に入学し、儒教教育を受けることになったのです。


 しかし、人間の上下関係を重んじるところがある儒教に早くも反発し、藩校の改革を訴えています。



 騒動をきっかけに退学になりました。


 後に復学を許されましたが、弘道館には戻りませんでした。



 結局儒教、特に朱子学は、幕藩体制における支配者にとって都合のよい学問だったので、大隈は反発したのではないでしょうか。



 彼が熱心に学んだのは、国学と蘭学、そして英語でした。

 尊王攘夷運動に熱をあげて、志士の一人として活動します。



 そして1867年、15代将軍徳川慶喜に大政奉還を勧めることを計画し、脱藩して京都へ行きました。


 ところが佐賀藩に捕まり、捕縛されて佐賀に送還され、1か月の謹慎処分を受けてしまいました。




 波乱万丈の幕末でしたが、古い制度にとらわれず、新しい時代を作ろうとしていた強い意志が伝わってくるできごとですね。



 1869年、大隈は被差別部落の解放令に接します。

 当時大蔵大輔という役職にありました。



 渋沢栄一から提出された戸籍に関する草案は、後の解放令の原案だったのです。



 不十分ながら、公布されました。

 欧米諸国も身分制度廃止と平等を唱えていたのです。



 これで部落差別がなくなったわけではありません。



 課題は残りますが、少なくとも江戸時代の穢多 (えた)、非人という身分差別のよび名だけは法的に否定されたことになったのです。



 1881年、「明治14年の政変」 で大隈は政府を追放されます。

 佐賀藩出身であったため、薩長藩閥から仲間はずれにもされていました。



 排除の差別ですね。

 

 自由民権運動に同調したとして他の役人から圧力を受け、「国会開設の時期が早すぎる」 という意見の伊藤博文とも対立しました。



 しかし、これを機に、大隈は 「立憲改進党」 を結成し、本格的に自由民権運動を開始しました。



 全国の多くの国民の立場に立った活動ですね。

 イギリス流の二院制の議会政治を主張しました。



 1888年、大隈は黒田内閣の外相として、不平等条約の改正交渉も行っています。



 領事裁判権撤廃のために努力をしましたが、外国人判事任用の案があったことが知れわたるとテロにあって負傷します。



 右足を失って義足を使用することになりました。


 その後二度にわたり首相を務めました。




 特に短命でしたが、1回目の隈板内閣 (わいはんないかく) は板垣退助と組んだ日本初の政党内閣として有名です。


 あくまで藩閥政治と闘いました。




 また、1882年には自主独立の精神を備えた人材を育成すべく 「学問の独立」 を掲げて東京専門学校 (後の早稲田大学) を創設しています。




 大隈重信は楽天的な人柄で 「民衆の政治家」 として親しまれていました。



 数ある政治家の中で、彼ほど差別意識から解放され、国民の立場に立ち、国民の目線で活動した人権感覚豊かな人は稀ではないでしょうか。



 日本史上、特筆するべきで、なくてはならない人物だと僕は考えています。
3 板垣退助 (1837 ~1919)




~自由民権運動で藩閥政府と闘った高知の上士~




 国民の声が政治に反映される。

 現代の世界中の民主主義国家では国会が開設され、国民が議員を選んでいます。




 日本で初めてこの道筋をつけた人が板垣退助ですね。



 それまでの明治政府は、薩摩、長州出身者を中心とする一部の人たちによる藩閥政治で、憲法もなく専制政治だと批判されていました。



 革命という言葉はあまり使いませんが、彼が始めた 「自由民権運動」 は、日本史上の革命的なできごとだったのではないでしょうか。



 彼が生まれたのは幕末の土佐藩でした。

 上士という上級の武士で、幼いころから優等生でしたので、藩の要職を歴任しています。



 その反面、過激なところもあって、倒幕運動ではあくまで武力で江戸幕府を倒すことを主張しました。

 戊辰戦争では山梨県勝沼で新撰組を撃破しています。



 東北でも仙台藩や会津藩と戦い、大きな軍功をあげました。



 後に参議となって明治政府の中枢に入りましたが、朝鮮に武力を差し向ける過激な征韓論の主張は、さすがに受け入れられませんでした。



征韓論は、韓国を武力で従わせようとする主張ですから、差別的であることは明白です。



 この一件で板垣は参議をやめて高知に戻ります。



 しかし、自分の意見は通らなかったものの、このことはかえって板垣が冷静に考え、自由に活動できるきっかけになりました。



 1874年、板垣は後藤象二郎 (しょうじろう) らとともに 「民撰議院設立建白書」 を左院に提出しました。


 つまり、国会をつくれということですね。



 同年、高知に 「立志社」 をつくりました。

 僕は数年前、この立志社の跡地につくられた石碑の前に立ちました。



 僕の好きな言葉が、石碑に刻まれているからです。

 「自由は土佐の山間より出づ」



 歴史上有名な 「自由民権運動」 の始まりです。



 この人権感覚豊かな運動の背景には、板垣の東京での挫折があったのです。

 この立志社は後に大阪で 「愛国社」、さらに 「国会期成同盟」 に発展し、多くの国民から支持されることになります。



 1881年、自由党を結成しました。


 フランス流で、板垣の性格を反映して急進的です。



 一院制や主権在民、普通選挙を主張しました。

 まさに近代国家のポイントを絵にかいたような適格な主張ですね。



 国民の立場に立っていることは明白です。


 「自由新聞」 という機関誌も発行して、全国を遊説、民衆に訴えたのです。



 ところが、ピンチに立たされます。



 1882年、遊説途中の岐阜で暴漢に襲われます。

 突然、胸と右手を7か所刺されて、無残な血まみれの姿になりました。



 自由のための闘いは命がけですね。



 倒れた板垣は 「痛い、痛い」 とうめいていましたが、後にマスコミも味方したのでしょうか、この 「痛い、痛い」 が 「板垣死すとも自由は死せず」 という名言になって報道されました。



 詳細は不明ですが、幸いにも命を取りとめることはできました。



 1890年、さまざまな政府の妨害や紆余曲折があり、不十分ではありましたが、日本初の衆議院選挙が行われ、国会が開かれました。



 第1回帝国議会とよばれています。

 ここに国民の声が政治に反映される第1歩が始まったのです。



 1898年には、自由党と進歩党 (前の立憲改進党) が合同して憲政党を結成すると、伊藤博文内閣は政権を投げ出しました。



 隈板内閣 (わいはんないかく) という、日本初の政党内閣の成立です。


 首相は大隈重信、内務大臣は板垣退助でした。



 しかし、内部対立により、この内閣は短命でした。



 1900年、板垣は政界から引退します。

 その後19年、83歳まで生きました。



 すでに次の大正時代です。



 しかし、命がけの運動の成果は、21世紀の現在にまでおよんでいます。



 痛い目にあいながらも、人間の自由と平等を国民全体とともに勝ち取ろうとした板垣退助。



 彼こそ人権の視点からの歴史上、なくてはならない人物ではないでしょうか。

2 高松凌雲 (1837 ~1916)




~戊辰戦争で敵味方なく治療にあたった日本赤十字の先駆者~




 高松凌雲 (たかまつりょううん) をご存知でしょうか。


 ナイチンゲールの精神を、日本で医師として初めて実践した人です。




 敵味方や貴賤貧富の差別なく、純粋に医療活動を行った、日本の歴史上特筆すべき人権感覚の持ち主ではないでしょうか。



 明治維新のとき、政府から多数の役職に就く誘いがありましたが、それらをすべて断り、あくまで町医者として庶民とともに生きました。



 権威や肩書よりも人間を大切にした人だったのですね。



 凌雲は現在の福岡県小郡市で、庄屋の三男として生まれました。

 農業の傍ら読み書きを学んでいます。




 18歳で庄屋見習いをしますが、20歳のとき養子に出されてしまいます。

 三男は外に出ろ、ということでしょうか。




 出された先は、久留米藩家老の川原弥兵衛でした。

 つまり、武士として生きろということですね。




 この時代、お金で武士の身分を得るということは珍しくありませんでした。

 何か心に引っかかるものを感じますね。




 しかし、凌雲は武士の生活に失望します。

 家臣の家臣はいつまでたっても家臣の家臣という制度がありました。




 また、当時の藩内では佐幕と勤皇の2つの派閥が反目しあい、権力争いをしていたのです。


 これは自分のやりたいことではないと悟ったのでしょう。




 22歳になると、黙って養家を出てそのまま久留米を去りました。


 勇気ある脱藩ですね。




 凌雲は武士の身分に見切りをつけ、自分がやりたい医学を志して江戸に向かいました。


 江戸や大坂、横浜などでさまざまな人に学んでいますが、ここで僕が注目したいのは、緒方洪庵との出会いです。




 大坂の適塾で洪庵から学んでいるのです。

 医学だけでなく、貴賤貧富の差別なく患者を診るという人権意識も身につけたのだと思います。




 1865年、努力が実ります。

 凌雲は徳川氏の分家、一橋家から専属医師として抜擢されたのです。




 さらに一橋家出身の徳川慶喜が15代将軍になり、幕府から奥詰医師として登用されました。


 1867年、パリ万国博覧会が開かれました。




 凌雲はこの日本代表団の随行医としてフランスに渡り、その後もパリで留学を続けることができたのです。

 ここでオデル・デュウ (神の家) に出会い大きな衝撃を受けます。




 そこに併設された病院では貧富の区別をせず、貧しい人たちが無料で診察・治療を受けることができました。




 国からの援助を受けない民間病院です。

 この衝撃が凌雲のその後の生き方を決定づけることになります。




 帰国したときは戊辰戦争 (ぼしんせんそう) の真最中でした。

 最後の箱館戦争に野戦病院である箱館病院の医師として参加します。




 彼は自分を留学させてくれた旧幕府に恩を感じ、幕府側としての参加でした。

 敵兵である官軍の負傷兵が病院へ運ばれたとき、患者たちの中には




 「外に放り出せ!」

 と叫ぶ者、刀を抜いて襲いかかろうとする者がいました。




 凌雲は

 「負傷した者は私の患者だ。



 患者に敵も味方もない」

 と叫んで治療にあたりました。




 明治初めの日本にも、男性版のナイチンゲールがいたのですね。




 1879年、凌雲は 「同愛社」 を設立します。

 賛同する医師14人が社員の民間組織です。




 貧しい人々を無料で診察しました。

 その数100万人ともいわれ、後の日本赤十字社にこの精神は受け継がれていきます。




 赤十字の先駆者で、貧しい人々とともに生きた高松凌雲。

 僕はつい数年前まで、彼の名を知りませんでした。




 基本的人権の視点から見た日本史上に欠かせない人物として、もっともっと多くの人に知られてもよいのではないかと思います。
1 福沢諭吉 (1834 ~1901)




~人間の平等と独立自尊をめざして差別と闘った日本の啓蒙思想家~




 「天は人の上に人を造らず。

 人の下に人を造らず」




 国民に衝撃と感動を与えた福沢諭吉の言葉ですね。




 人間をすぐ上下関係で見る人、ランクをつけたがる人はたくさんいますね。


 僕などはこの言葉を自分につきつけられたら、思わずドキッとします。




 職場での仕事を遂行するための職務命令などは別としても、不必要なところでの上下関係は今も氾濫していませんか。


 彼は差別を乗り越えた、近代日本の人間の生き方の原点ではないでしょうか。




 では、諭吉はどんな差別を受けたのでしょうか。




 それは出身による極端な身分差別です。

 幕末の大分県中津藩では、上位の武士と下位の武士が厳然と区別されていました。




 この上下関係は子どもどうしのつき合いにまでおよびました。

 上から目線で馬鹿にされた少年諭吉も、この理不尽な差別に悔し涙を流したことでしょう。




 「学問も体力も自分より劣っていても、親の身分が高いだけでいばっているのはおかしい」


 これ以前に自由な町人の町、大坂にいた諭吉にはその違いがよくわかり、何とかならないかと悶々としていました。




 しかし藩では孤立し、生活は苦しく、将来に絶望したのでしょうか、諭吉は少年時代に飲酒の癖がついてしまいました。


 本人もその飲酒癖を何とかしたいと思って、12歳のときに、まず朝酒をやめようとしています。




 次に昼酒もやめようとしましたが、すんなりとはいきませんでした。


 他に不満のはけ口がなかったからです。




 しかし、14歳のときに学問に目覚めました。

 学問にはげんで、中津を脱出しようと考えるようになったのです。




 一筋の明るい光は、緒方洪庵との出会いです。


 18歳のときのペリー来航をきっかけに大坂に出て、彼の 「適塾」 の自由な雰囲気の中で、蘭学を学びました。




 1860年には、勝海舟とともに咸臨丸でアメリカに渡っています。


 1868年、江戸に英語塾を開き、慶応義塾と名づけました。




 「身分によって人を差別することはいけない。

 どんな仕事の人も、力を合わせて働くことが大切だ」



 と主張しました。


 ここが人生の大きな転機ですね。




 諭吉は平等と個人の自立を説いた教育者であり、思想家として生きました。




 一人一人が独立自尊の心を持つには、大勢の人の前で自分の意見を自由に述べることが大切です。

 そのため、慶応義塾内で三田演説会を開きました。




 やがて演説会は全国各地で開かれるようになりました。




 後の自由民権運動や大正デモクラシーにつながる、日本史上の革命的なできごとだと思います。

 若者を中心に多くの人々の心がこの活動を支持しました。




 男女平等も説いて、女性解放を主張しています。




 「女性はもっと社会に出て男女交際を楽しみ、自分の意志で結婚相手を決めるべきだ」




 そして

 「女性も財産権を持つべきで、男性はもっと妻を尊敬し、家事育児にも積極的に協力すべし」



 と力説しています。




 本人も家庭を大切にし、9人の子どもたちとも分け隔てなく育児に参加しました。

 現在話題になっている 「二世帯住宅」 や 「夫婦別姓」 にまで、すでにこの時代に言及していたのです。




 権威や肩書にはこだわりませんでした。




 現代の文部科学省にあたる機関からの表彰を断わり、政府からの爵位を与えるという話も、諭吉の意志を踏まえて家族が断わっています。




 彼は生涯、位階勲等の類は一切受けませんでした。




 これほど解放された人は、ほかにどれほどいたでしょうか。




 彼には学ぶことがとても多いですね。




 現在および将来にあっても、この自由な生き方に深い共感を覚える人は、ますます増えていくのではないかと思います。