13 坂本龍馬 (1835~1867)




~自由と平等の近代国家の基礎を築いた土佐の下級武士~




 あまりにも有名な日本の歴史上の人物ですね。

 織田信長とともに、最も好きな人物として、全国で人気を二分している人です。




 僕も、信長には大きな魅力があると感じています。

 郷土名古屋の英傑でもありますし、小さいころから信長に関係する史跡にもたくさん行きました。




 でも、はっきり言って僕は龍馬派です。




 なぜでしょうか。




 それは、坂本龍馬は国民の自由と平等のために命をかけた人だと思うからです。




 龍馬の少年時代は、身分差別にさらされていました。



 土佐 (高知県) の郷士の家に生まれましたが、この郷士という身分は完全な武士ではなく、上士という上級の武士たちから強烈な差別を受けていたのです。



 土佐藩ではこの上下関係が非常に厳しく、龍馬はいつも上士から見下され、生活の至る所で、まるで奴隷のような屈辱的な扱いを受けていました。




 おまけに夜尿症がなかなかとれないので馬鹿にされ、悔しい思いをさせられることが日常茶飯事でした。


 そんな龍馬がなぜ、日本の歴史を変える 「大政奉還」 という大きなことができたのでしょうか。




 第1のポイントは 「脱藩」 です。



 1862年3月、土佐藩を脱藩して江戸に出ました。

 自由な国をつくるなら、まず自分自身が自由になることが必要です。




 この勇気ある脱藩によって、龍馬は藩の支配から離れ、自由に動くことができるようになったのです。


 出身だけで決まる身分差別から解放され、上士のいじめからも解放されました。




 第2のポイントは 「勝海舟との出会い」 です。



 1863年、尊王攘夷運動に燃える龍馬は、勝海舟の屋敷を訪問します。

 この訪問の目的は、開国の考えを持つ海舟殺害であったともいわれています。



 しかし、海舟の堂々たる態度、世界的視野からの的確で進んだ日本の将来に対する自由な考え方に、龍馬は目から鱗が落ちたのでした。



 解放された海舟の知識と人柄に一気に引かれ、攘夷という外国を敵視する考えを捨てたのでした。




 第3のポイントは 「海援隊」 です。



 1865年、最初は 「亀山社中」 という龍馬が作った長崎の貿易会社でした。

 メンバーは医者や農民など、出身はさまざまでしたが、みんな平等に扱われていたのです。



 給料もみな同じ金額でした。約20人の若者たちが、自由で平等な雰囲気の中で、好きな仕事をして、大切だと思う勉強もしながら働きました。



 やがて、土佐藩の後藤象二郎から帰藩の誘いがありました。



 これに対し、彼は答えます。




 「藩に仕えるのではなく、海運業をやって土佐を助ける。

 そのかわり、資金面などで協力してもらいます」

 


 あくまでも対等の線はくずさなかったのです。




 ここが大切なところですね。




 そして、第4のポイントは 「薩長同盟」 です。



 実力者の長州と薩摩に激しく迫ります。



 「木戸ォ!わしゃ言うたはずぜよ。

 くだらんメンツらあ捨て去れち。



 この期におよんで何が立場じゃ。

 何が恥辱ぜよ!



 薩長連合は革命統一の道程じゃいか。

 どこに恥じることあるぞ!」




 さらに

 「西郷さん、おまはんも長州と一緒に毎日馳走 (ちそう) ばあ喰ろうてハラがふやけたかよ?



 口ほどにもない男じゃおんしも!

 ここまで来てやはり藩の体面が大事か!?



 長州の苦境をわかってやれんおんしじゃなかろうが!」




 勝負ありました。




 江戸幕府滅亡が決まった瞬間ですね。




 こうして木戸孝允も西郷隆盛も、それまでのしがらみから解放されたのです。




 自由と平等の近代国家の第一歩は、身分差別から解放された坂本龍馬から動き出したのです。




 近代日本の夜明けではないでしょうか。
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12 松平春嶽(まつだいらしゅんがく) (1828~1890)




~相手の身分に関係なく人に会った越前・福井藩主~




 「普通の殿様ではありません。身分よりも人物を見抜いたのです」



 これは、福井市のある博物館職員の方の言葉です。

 彼はさらにこう続けました。



 「幕府の大老にも匹敵する政事総裁職という重職でありながら、いち早く議会制民主主義を説いた人でもあります」



 幕末四賢侯 (しけんこう) の一人とまで謳われ、領民からも愛され続けた藩主です。

 しかし、春嶽は時の権力者により隠居・謹慎を命じられて幽閉されています。



 いったいなぜなのでしょうか。



 春嶽は幕末の1828年、江戸城内の田安屋敷で生まれました。

 彼は12代将軍徳川家慶 (いえよし) の従弟で、御三卿 (ごさんきょう) 田安家の出身です。



 御三卿というのは享保の改革で有名な8代将軍徳川吉宗から分かれた分家です。



 ところが1838年、福井藩主が若年で病死し、後継ぎがいなかったため、急きょ春嶽が養子となり、福井藩主を継ぐことになったのです。



 福井藩は徳川家康の次男、結城秀康を祖とする親藩だったからですね。



 彼の妻は勇姫 (いさひめ) といいます。

 熊本藩主の三女でした。



 彼女は7歳のとき、当時13歳だった春嶽と婚約します。



 ところがその後、猛威をふるっていた天然痘に罹患してしまいました。

 一命はとりとめたものの、顔に 「あばた」 が残ってしまったのです。



 熊本の細川家はこれを憂い、婚約の辞退を申し出てきました。

 これに対して春嶽は



 「心が美しければ、いささかも気に留めることはない。

 相手がどんな身体になろうとも結婚する」



 婚約実行です。



 とてもいい話ですね。



 彼の人柄がこの一言に凝縮されているのではないでしょうか。

 結婚後、春嶽が勇姫を大切にしたことは言うまでもありません。



 藩政も熱心に行いました。

 財政の立て直しを図る藩札の発行や、洋学教育を刷新するため、明道館という学校も作りました。



 「国際社会の中でどう生きるか」 

 を視野に入れていたのです。



 優れた人材は家柄にかかわらず登用しました。



 中でも熊本藩士の儒学者、横井小楠 (よこいしょうなん) を政治顧問に迎えたことは歴史上広く知られています。



 極めつけは坂本竜馬でしょう。



 春嶽は、当時脱藩浪人だった竜馬と正面から向き合い、5000両という大金を貸しています。

 現在のお金に換算すると約11億円になります。



 びっくり仰天ですね。



 竜馬の器を見抜いたからです。



 「この男は日本を変える男になるに違いない」

 ということですね。



 身分や家柄にこだわっていては、このようなことはできません。



 春嶽は後に、こう言い切りました。



 「坂本竜馬から懇切丁寧な忠告を受けた。

 まことに感激にたえない」

 

 残念ながらその詳細はわかっていませんが、竜馬も春嶽の度量の大きさを見抜いていたのでしょう。



 勝海舟に紹介状を書いて、竜馬を会わせたのも春嶽です。

 竜馬はすぐに勝の弟子になりますが、実は最初は勝を殺そうとしていたのです。



 驚くことに、春嶽はこの危険な事実を知りつつ会わせたのでした。

 勝海舟に対する絶大な信頼が、危険な出会いを実現させたのですね。



 そして、雄藩連合政権樹立に向けて前進していきます。



 新しい時代の幕開けです。



 ところが1859年、時の大老、井伊直弼 (いいなおすけ) によって隠居・謹慎を命じられ、江戸霊岸島に幽閉されたのです。



「安政の大獄」 と呼ばれる事件です。

 身分差別を背景とした強権で痛い目にあいましたが、これに耐え62年に復帰します。



 政事総裁職という現在の総理大臣に相当する立場でした。



 歴史を変えた勝や竜馬を陰から支えた見逃せない歴史上の人物。



 僕は春嶽こそ、もっと多くの人に知ってほしい逸材だと考えています。
11 楠本イネ (1827~1903)




~二重の差別を乗り越えて医学の道をまっとうした日本の女医第1号~




 二重の差別とは何でしょうか。



 一つは女性差別であり、もう一つは混血児に対する排除の差別です。



 近代医学の世界は男社会であり、女性の医師は誰もいません。

 さらに楠本イネの父親は、ドイツ人医師のシーボルトです。



 母親は長崎の遊女でした。



 日本初の女医をめざすイネは、その過程で男性から暴行され、未婚の母になります。

 混血児は当時稀 (まれ) で、偏見のまなざしで見られ、社会から冷たく扱われて差別されていました。



 イネが生まれた時代は幕末で、まだ鎖国中でした。

 父のシーボルトはオランダ商館の医師として、長崎の出島に滞在していました。



 彼は鳴滝塾 (なるたきじゅく) を開いて、日本人医師に西洋医学を指導していたのです。

 出島で遊女の楠本たきに出会い、妻として迎え結婚しました。



 しかし、父は日本地図を国外に持ち出そうとしたこと (シーボルト事件) で、幕府から国外追放の処分にされてしまったのです。



 イネはまだ幼く、3歳でした。

 母のたきはその後再婚し、イネもその再婚先で生活することになります。



 父親のいない連れ子という逆境の中にありました。



 しかし、父親ゆずりの明せきな頭脳と美貌を持ち合せた娘に成長し、医学を志すようになったのです。



 ドイツに帰国したシーボルトは、その後も何回も手紙を書いたりして、たきとイネには精いっぱいの愛情と誠意を注いでいます。



 30年後には再来日も果たし、感激の再開をすることができました。


 シーボルトの人柄が伝わってくるようなできごとですね。



 イネの医学への志は、父の教え子たちによってその扉が開かれます。

 まず、伊予 (愛媛県) 宇和島に住む二宮敬作です。



 四国に渡り、ここで医学の基礎をしっかりと学び、日本初の女医への第一歩をふみ出しました。



 イネは女性だったからでしょうか、産科医を専門に学ぶことを二宮から勧められて、やがて石井宗謙 (そうけん) について学ぶことになりました。



 彼もやはり父の教え子だったのです。

 イネは当時19歳で、石井を紹介されて岡山へ渡りました。



 ここで7年間学んでいます。



 ところが、ここで大きな人権侵害にあいます。

 岡山に訪ねてきた母たきを見送って帰る小船の中で、イネは石井にレイプされてしまったのです。



 さらに不運なことに、このレイプにより妊娠し、25歳で未婚の母になりました。



 産科医を目指すイネは堕胎を嫌ったのです。

 無事に女児を出産しましたが、医学は中断です。



 失意に暮れ、娘を連れて故郷の長崎に帰りました。

 石井は後に鳴滝塾の同窓たちから、破門同然の制裁を受けました。



 この人権侵害を知った二宮は責任を痛感し、イネを再び宇和島へ招いています。



 後には、やはりシーボルトの教え子だった大村益次郎 (ますじろう) の知遇を得ることになりました。

 大村は外科医で、イネは大村について外科医の勉学にも励むことができました。



 彼について江戸に出たイネはついに開業医になり、志を果たすことができました。

 福沢諭吉の支援も受けて、その後医師として大いに活躍しています。



 小さいころからさまざまな差別にさらされ、身も心もズタズタにされたこともありました。



 女医誕生までの道は、まさにいばらの道でした。



 その逆境を自らの信念と志で見事に乗り越えて自立した楠本イネ。



 僕は彼女こそ、もっと広く多くの人に知ってもらいたい人物だと思います。
10 勝 海舟 (1823~1899)




~身分差別を乗り越えて対等な外交を主張した幕臣~




 この時代に、彼ほどスケールの大きな人物がいたでしょうか。


 現在、および将来にも通ずる世界観の持ち主だったと僕は考えています。




 海舟の一生の晩年にあたる1894年、日清戦争が起きています。

 このとき彼は、次のように発言しています。



 「伊藤博文をはじめとする政府高官たちは、日本を欧米と並ぶ文明国として、アジア諸国を一段下に見ている。

 日本だけが優越意識を持ち、アジア諸国を蔑視して戦争を進めようとするのは愚の骨頂」



 また、大政奉還直後の有名な 「江戸無血開城」 では、官軍の西郷隆盛に対し

 「江戸の町でいくさが始まれば、いちばんひどい目にあうのは武士ではなく、江戸を脱出することもできない庶民です」



 と発言し、江戸城の総攻撃を思いとどまらせています。




 身分は幕臣という幕府側の立場にありますが、民衆のことを第一に考えていることは明白ですね。


 いずれも優れた人権感覚の持ち主であるからこそできる発言だったのではないでしょうか。



 ただし、一つだけ例外があります。



 妻の民子の立場から見れば、海舟の人権感覚に疑問をもたざるをえない行動がありました。

 このことは、第4集で、「勝民子」 として書く予定ですので、ここでは詳述を避けます。



 1823年、勝海舟は旗本の子として江戸で生まれました。

 しかし、旗本とは名ばかりの貧乏所帯で、一日三食もままならない状態でした。



 少年時代は麟太郎 (りんたろう) という名で、9歳のときには野犬に睾丸を噛まれて、手術をしています。


 オランダ語の辞書を買う金がないので、友人から全58巻の辞書を借りて写本を作って勉強しました。



 驚異的な努力家ですね。



 その甲斐あってか、幕府の翻訳係をすることができました。



 1854年、長崎に海軍伝習所がつくられ、オランダ人の指導と訓練を受けるようになりました。

 ここでは身分に関係なく、有能な者たちをとりたてる努力をしました。



 6年後の1860年、海舟は咸臨丸 (かんりんまる) に乗って船酔いに悩まされ苦しみながらも、37日かけてアメリカのサンフランシスコに渡ることができました。



 この体験で彼は確信したのだと思います。


 「攘夷 (じょうい) は無謀である」 ということですね。




 この 「夷」 という文字も、外国を最初から敵、野蛮人という意味にもとれる差別的な言葉です。


 海舟が海軍に力を入れたのは、外国と対等につき合うためで、見下したり侵略しようというものではありません。



 ペリーの黒船来航のときのように、おどされることがないようにする考えから来るものです。

 当時の中国である清 (しん) のアヘン戦争の二の舞にならないようにすることが必要と考えたのです。



 その上で海舟は見抜いています。



 「西郷さん、もう今の幕府はみえをはるだけで、どんな問題も解決できる力はありません。

 今の日本で幕府だ、薩摩藩だ、長州藩だのともめているときではありません。



 これからは、力のある雄藩が連合を組んで、国政を運営する。

 これしかねえな」



 周知の通り、この意見は後に実行されましたね。



 明治維新の三傑の一人である西郷隆盛の生き方を変え、新しい時代へと動かしたのは勝海舟だったのです。



 明治維新の新政府では、海軍大輔 (たいふ) として迎えられました。

 さらに参議兼海軍卿や元老院技官にもなりましたが、すぐに辞職して、以後政治にはかかわりませんでした。



 薩長人脈で占められた新政府に嫌気がさしたからです。



 地位や肩書にこだわらず、旧幕臣で生活に困っている人たちのために活動しました。


 海舟は刀剣類をはじめ、焼き物や書、絵などを預かって売り、彼らを救済したのでした。




 新しい日本に向けて理論的指導者の役割を果たした勝海舟。



 教科書でもっと大きく取り上げてもよい人物ではないでしょうか。