9 緒方洪庵 (1810~1863)




~貴賤貧富の差別を乗り越え人間を大切にした幕末の医師~




 緒方洪庵 (おがたこうあん) が残した人権感覚豊かな言葉があります。



 「病人に対してはただ病人だけを見よ。


 貴賤貧富で人を差別してはならない。


 金持ちがくれる黄金と、貧しい患者が流す感謝の涙は、同じ値打ちがある」



 
 この言葉の背景には何があるのでしょうか。




 つまり江戸時代当時、医師と患者の医療行為の場面においても、貴賤貧富による差別が横行していたということではないでしょうか。




 こんな話があります。




 ある大名の夫人が病にかかりました。

 胸を患ったようです。



 早速医師が呼ばれ、診察を受けることになりました。


 ところが夫人は診察を拒否したのです。



 理由は、


 「自分は殿様の奥方であり、身分の低い医師に、胸を見せるわけにはいかない」


 ということです。



 結局この夫人は病気が悪化して、まもなく亡くなったそうです。



 差別はする側が不幸になるということの典型的な事例ですね。



 洪庵は病人がいればどんな時でもいやがらず、元旦だけは休むが、1月2日から早くも往診に出かけるような人でした。



 「医師は名利を求めず、ただ己を捨てて、人を救うことを願え」

 という言葉にも、彼の人柄がよく現われていますね。



 患者にとって、こんなありがたい医師はめったにいないでしょう。

 だから、天然痘という恐ろしい病気を予防する種痘の普及にも大きな功績を残すことができました。



 1810年、緒方洪庵は現在の岡山県、備中足守 (あしもり) 藩士の家に生まれています。

 16歳のときに大坂に出て、蘭学を学びはじめました。



 その後、江戸、長崎でも学び、大坂で医師になりました。

 同時に彼は優れた蘭学者、教育者でもありました。



 1838年、大坂で適塾という蘭学塾を開きました。

 その後、25年にわたって約3,000人の門弟が学んでいます。



 有名な福沢諭吉をはじめ、橋本佐内、大鳥圭介らもここで学んでいます。



 適塾では組織だった蘭学の教育をやっていました。

 同時に一人一人を伸ばすことも重視されていたのです。



 そのため塾則はゆるく、自由な雰囲気がありました。

 このような中で、福沢諭吉らの門弟たちも、伸び伸びと学ぶことができたのではないでしょうか。



 後の明治以後の新しい自由な啓蒙思想の原点の一つは、この大坂に既にあったのかも知れませんね。

 僕も、もしこの時代に生まれていたら、洪庵の適塾で学んでみたいと思いました。



 このころの江戸幕府には、13代将軍徳川家定 (とくがわいえさだ) がいました。

 病弱な将軍として知られていますが、脚気が重くなり悩んだようです。



 このため、1862年、洪庵は幕命により江戸に出ることになりました。

 奥医師、医学頭取という役職を命ぜられたのでした。



 しかし、この勤務は相当きつかったのでしょうか、洪庵は翌年の1863年、結核による喀血のため、急死してしまいました。


 この背景には、蘭方医派の地位を高めようとする他の医師の強引な誘いがあったのです。



 時代は大きく下って、今から数十年前のことです。

 僕の住む市内でも洪庵のような医師がいました。



 彼はNさんといいます。



 当時の市内の被差別部落の人たちは、部落民というだけの理由で、なかなか医師に診てもらえませんでした。



 しかしこのNさんだけは、わけ隔てなく被差別部落の人たちもきちんと診察したそうです。



 差別を乗り越えた医師の心豊かな行動は、緒方洪庵の精神を引き継いでいるのかもしれませんね。
スポンサーサイト
8 横井小楠 (1809~1869)



~共和制と世界平和を唱えた熊本の思想家~



 江戸時代に横井小楠 (よこいしょうなん) ほど開明的な思想をもった人物が、他のどれだけいたでしょうか。

 封建的世襲制や身分差別を否定して、身分を超えた討議が新しい政治の基盤になると考えました。



 また、外国との貿易をすすめることを大切にし、鎖国や幕藩体制を批判しています。



 さらに富国強兵の果てに来るであろう、他国侵略の危険性を警告し、世界平和を提唱しました。



 まさに現代および将来にも通ずる考え方で、人権感覚に優れた人でなければ出てこない、当時としては画期的な意見だったのではないでしょうか。



 小楠は熊本藩士の子として生まれ、幼いころから藩校の時習館で学んでいました。

 当時から優秀で、将来は藩校の教授にと期待されていました。



 31歳のときに江戸に遊学し、見聞を広めて頭角を現していきます。



 彼の鋭い理論と激しい議論は有名になりました。

 後に維新の三傑の一人として知られた木戸孝允 (きどたかよし) の言葉です。



 「横井の舌はまるで剣のようだ。緊張の連続だった」



 ところが、この江戸遊学はわずか1年ほどで中断させられてしまいます。

 小楠はある忘年会の宴席で、政治を批判する漢詩を作ったのです。



 このことが熊本藩の江戸留守居役の耳に入り、帰藩を命じられて、70日間の謹慎処分を言い渡されたのでした。



 保守的な藩の上層部のいじめがあったのでしょうか。



いずれにせよ、政治を批判する意見も言えないくらい窮屈な状態で、武士どうしもまた、強力な幕藩体制のもとで差別されていました。



 意外なことに、彼が謹慎中に一番苦しんだことは、「酒が飲めない」 ということでした。

 たまりかねた小楠は、神棚に供えられているお神酒 (みき) に手を出し、こっそり盗み飲みをします。



 ここで助け船が出ます。

 兄はこれを黙認し、兄嫁は酒をつぎ足してくれていたのです。



 この兄夫婦のさりげない好意に支えられ、小楠は謹慎生活を耐え抜くことができたのです。

 お酒大好きな彼は、大きなピンチを乗り越えることができたわけですね。



 1855年、小楠は私塾 「四時軒」 (しじけん) を開き、多くの門弟を養成します。

 ここには、後に幕末の風雲児として有名になる坂本竜馬や井上毅 (こわし) も訪問して学んでいます。



 福井藩主の松平春嶽 (まつだいらしゅんがく) は、小楠の理論を高く評価し、福井藩の藩政改革のために政治顧問として招いています。



 さらに春嶽の推薦で幕政改革にもかかわり、明治維新の新政府では参与として政権の中枢に入ることができました。



 特に進歩的なことは 「通商殖産」 を主張したことです。



 外国と商業取引をさかんにし、政府の官営模範工場や直営事業場を中心に、近代産業を育成しようとしたのです。

 また、好んでいたわけではありませんが、キリスト教も生き方の道標の一つとして認めていました。



 しかし、尊王攘夷派からは恨まれることになりました。

 共和制を主張して天皇制を否定し、攘夷派が最も嫌う外国との付き合いを推進しようとしたからと考えられます。



 1869年、小楠は京都の路上で暗殺されます。

 相手は奈良の十津川郷士ら6名で、駕篭から出て応戦しましたが、首をはねられました。



 61年の生涯でした。



 賛否両論はあってもまちがいなく言えることは、幕末の志士たちに多大な影響を及ぼし、新しい時代をつくる原動力の一つになったということです。



 戦争は最大の人権侵害です。

 罪もない人々を、次々に殺害していくからですね。



 戦争の撲滅を訴えて、世界平和を願うという小楠の意見は、全国の多くの人々の共感を得ることができるのではないでしょうか。
7 大塩平八郎 (1793~1837)




~一般民衆の立場に立ち幕府権力と戦った大坂の陽明学者~




 「大塩平八郎の乱」 という事件は、中学校や高校の教科書でもおなじみです。


 半日で鎮圧されたという記述も、多くの教科書や資料集等で採用されています。




 でも、この 「乱」 と 「鎮圧」 という言葉に違和感を覚えるのは僕だけでしょうか。




 幕府の立場から庶民を見下した、上から目線の言葉になっていないでしょうか。




 国民の立場からこの事件を見れば、 「一揆」 または 「解放戦争」 という言葉で表現することもできるのではないかと思います。




 大塩平八郎は大坂町奉行所の与力という役人でした。

 役職引退後は、洗心洞という私塾で陽明学を教えていました。




 陽明学は儒学の一派ですが、特に実行を重んじることに特色がある学問です。

 門弟は、奉行所の役人や近郊の富農が中心となっていました。




 このような中で天保の飢饉 (てんぽうのききん) がおこり、大坂の町はこの世の地獄と化したのでした。


 武士と一部の豪商たちだけ裕福で、多くの一般民衆は、飢餓の嵐に襲われたのです。




 背景には、大坂の蔵米を江戸に廻米し、幕府のごきげんとりをやっていたという、「庶民置き去りの政策」 という事実がありました。



 平八郎は息子の町与力、格之助を通して大坂の東町奉行に、蔵米を大坂の民衆のために使用するよう意見を申し出ています。



 しかし、「口出しをするな」 といった冷たい感覚で断られました。

 このときの大坂東町奉行は跡部良弼 (あとべよしすけ) といいます。



 天保の改革で有名な水野忠邦の弟にあたる人物ですね。



 平八郎の次の手は、豪商からの借金です。



 鴻池善右衛門 (こうのいけぜんえもん) にこのことを申し出ましたが、またもや跡部良弼の 「口出しをするな」 の一言で断られてしまいました。



 しかし幕府の無策で、大坂の一般庶民の困窮は目に余る状態になり、我慢も限界に達していたのです。



 ここに至って、平八郎は決起を決意します。



 決起の計画を立てながら、本屋の河内屋を呼んで、大量の自分の蔵書を処分しました。

 民衆には札を渡し、その札を河内屋へもっていけば、現金と交換できるようにしたのです。



 たくさんの民衆が喜んだのは言うまでもありません。



 ところが、この計画は事前に奉行所に漏れてしまいます。

 やむをえず、直ちに打って出ることになりました。



 1837年、2月19日の未明です。

 平八郎の門弟や農民ら300人余が、手製の大砲を引いて進撃しました。



 しかし、武力の差は歴然としています。



 大坂の町の約5分の1が灰になりながらも、わずか半日で強力な幕府軍の前に敗れ去ることになりました。



 平八郎は自刃して亡くなりました。



 元の役人の蜂起に、幕府はよほどショックを受けたのでしょうか。



 平八郎の死後も、彼の死体に対して執拗な攻撃を加えます。

 遺体を塩詰めにし、天下の重罪人として引き回し、磔 (はりつけ) にしました。



 数十回も槍で刺された死体は、もちろん反応はしませんが、ズタズタになりました。



 あげくのはてに、棺桶にいれたときも、腰から上が見えるようにし、人々の目にさらしたのでした。



 死人を相手にこれでもか、これでもか、という攻撃を繰り返していますね。



 しかし、平八郎の解放戦争はたちまち全国に知れわたります。



 越後の柏崎では、生田万 (いくたよろず) が一揆をおこし、摂津でも、佐渡でも、江戸でも次々と一揆や打ちこわしがおこり、全国に広がっていきました。




 それから30年、江戸幕府も大坂東町奉行も、この世から消え去ってなくなりました。



 国民の意思はどちらに賛成であったかは明白ですね。



 国民の本当の代表者は、いったい誰だったのでしょうか。
6 平賀源内 (1728~1780)




~豊かな才能を生かし自由自在に活動した天下御免の男~




 だれにもはばかることなく、堂々と振る舞ってよいことを「天下御免」といいます。



 平賀源内の生き方は、まさにこの一言で表現することができるのではないでしょうか。


 あるときは浪人、あるときは科学者、そして発明家、画家、作家、コピーライターなど、博学多才、あり余る才能の持ち主です。



 日本の 「レオナルド・ダ・ビンチ」 とまで言われました。




 江戸幕府、そして幕藩体制という強大な権力の締めつけが厳しく、不自由が多いこの時代に、数少ない自由自在に生きた貴重な天才です。



 1728年、源内は四国の讃岐国 (さぬきのくに)、高松藩の足軽の子として生まれました。

 20代はじめに高松藩に仕えています。




 しかし、長崎に遊学して蘭学を身につけると、小藩の役人としての堅苦しい勤めが不自由に思えてきました。

 元来、好奇心旺盛の彼です。




 家督を従弟に譲って、発明に没頭しました。




 1756年、29歳の源内はついに讃岐を出て大坂へ行き、さらに江戸へ向かいました。


 武士よりも自由人を選んだのですね。




 「浪人というものは気楽なものだ」

 源内は長屋暮らしをし、引越しも十数回しています。




 しかし、お金を稼ぐ必要もあったので、さまざまなことをやりました。




 まず、薬用植物を主に研究する本草学 (ほんぞうがく) です。

 1762年、江戸の湯島で薬用となる物産の展示会を開いています。



 解体新書で有名な杉田玄白をはじめとする蘭学者たちと対等に付き合っています。

 博物学の図鑑も出版しました。




 科学に関することでは、エレキテルとよばれる摩擦発電器を復元しました。


 有名な老中、田沼意次 (たぬまおきつぐ) は、源内の才能をいち早く見抜き、援助をして交流したと伝えられます。



 火浣布 (かかんぷ) という石綿で作った燃えない布を発明したり、タルモメイトルという温度計も作りました。


 また、水平を測定できる平線儀 (へいせんぎ)、万歩計にあたる量程器 (りょうていき)  なども発明しました。




 秋田へは鉱山の調査にも行っています。

 芸術に関することでは、油絵が有名です。




 「西洋婦人図」 は高校日本史の教科書に載るほどの傑作です。




 風来山人という名で、戯作者としても売り出しました。

 変わったところでは、焼き物の研究をしたり、大人のおもちゃも製作しています。




 源内は男性自身について詳しく述べた本も書いており、男女間のことにも精通していました。

 このおもちゃは、正月の市で縁起物として売り出したら大評判となり、たちまち売り切れる人気商品になったのです。




 このように、源内は何でもできる天才として、とても有名になりましたが、晩年はあっけない最期でした。




 酒に泥酔して、誤解からのつまらない人殺しをしてしまったのです。



 後悔して自殺しようとしましたが、制止されて入牢。




 最後は破傷風で獄中死したといわれていますが、他にも諸説があり、詳しいことはわかっていません。


 しかし、源内の生き方には学ぶところがあると思います。




 なぜ、彼は自由に伸び伸びと生きることができたのでしょうか。




 ポイントは家督を譲って故郷を後にしたことにあるでしょう。




 これは言い方を変えると、上から目線で自分を支配する人たちとの縁を切り、対等に自由につきあえる人たちとつき合ったことになります。



 迫りくる不合理な差別をしたたかにかわし、自由の道を選んだからこそ、源内の長所が存分に発揮されたのです。




 彼の死に方は、ちょっと残念で心残りですが、生き方には大いに共感できるところがあると思います。



 生活の安定はなくとも、スリル満点の毎日。




 21世紀に生きる僕たちにも、さまざまな場面で応用することができるのではないでしょうか。