5 大竹与茂七 (1675~1713)




~民衆とともに身分差別と闘った越後の義民~




 大竹与茂七 (おおたけよもしち) をご存知でしょうか。


 現在の新潟県にある新発田藩(しばたはん)中之島組の名主です。



 村人から常に慕われ、こう言われていました。

 「いつもおらのような水呑百姓 (みずのみびゃくしょう) のことを第一に考えてくだされてありがたいことじゃ」



 農民でしたが、学問、剣術にすぐれ、名主の寄合でも、その発言力や人柄が評判でした。

 新発田藩は与茂七を中之島組62か村の筆頭名主に命じたのです。



 広く信頼されている文武両道の農民ですね。



 1704年、信濃川などの川があふれ出し始め、大洪水の危機になりました。

 責任者である東西2名の庄屋は病気と不在。



 緊急に与茂七が指揮をとることになりました。



 彼の判断は以下の通りです。

 「自分の山の松を100本、庄屋の星野儀兵衛親方の松山から70本、お上の山から杉を130本切る」



 反対意見に対しては、きっぱりと答えました。

 「62か村の命がかかっている。責任は自分がとる」



 こうして、村は洪水から守られたのでた。



 1705年、無数のウンカやぬか虫による病虫害が発生しました。

 飢え死にする者まで出はじめたのです。



 またしても与茂七はむずかしい対応を迫られますね。

 「どうだろう、みなの衆!この際、儀兵衛親方から金を借りたら・・・」


 ということになりました。



 中之島組13か村の名主連盟の借用書で金額は150両。

 当時では米800俵が買える大金でした。



 しかし、2割の利息をつけて、翌年の秋にはきっちりと借金を返すことができました。



 これも前回に続いて見事な対応と言えますね。

 またしても村は救われたのです。



 ところが、問題が発生します。


 借金を返しに行った代表、茂助と喜平太の2名は酒を飲まされ、証文を受け取れずに帰らされたのです。



 これでは借金を返した証拠がないことになってしましますね。



 当然のことながら、翌日2名の代表と与茂七は、庄屋の儀兵衛にかけあいに行きました。

 そのころ、なりゆきを心配した農民たちが、庄屋屋敷の前にぞくぞくと集まってきました。



 庄屋の答えは 「ノー」 です。



 ついに裁判で決着をつける以外にないと考えた与茂七たちは、新発田藩奉行所へ訴え出ました。



 裁判は23回にもおよび、7年の月日が流れました。



 ここで家老の梶弾右衛門 (かじだんえもん) が決定的な発言をします。



 「判断の基本は、お殿様のご安泰、ご繁栄すなわち、わが新発田藩の安泰と繁栄に役立つものを正となし、妨げになるものを邪となすところにござる。



 今ここで与茂七とやらの言い分を認め、庄屋を牢に入れたらどういうことになるか。

 百姓は名主に従い、名主は庄屋に従い、庄屋は武士に従い、武士はお殿様に従う、これが政道の基本。



 百姓の言い分がどうの、庄屋の言い分がどうのは問題にすることではござらぬ。

 百姓を認めれば、大騒動に発展し、結果は藩のおとりつぶしにつながる」




 これは、強烈な身分差別です。




 1713年、白州 (しらす) には、与茂七をはじめ34名の名主と百姓が腰縄を打たれて引き出されました。




 与茂七は 



 「おそれながら申し上げます。

 一揆徒党とはわれらに身に覚えのないことでございます。




 証文返済の件についてのお裁きをお願いいたします」

 と最後の抵抗をしました。




 しかし、歯を一本一本抜かれる拷問の上、打首獄門で処刑されました。




 36年という短い生涯でした。




 これはあまりにも残酷で、言葉に尽くせない無念です。


 二度とくり返されてはならない典型的な 「差別裁判」 だと思います。




 時は6代将軍徳川家宣 (いえのぶ) の下で、新井白石による 「正徳の治」 が行われていた時代にあたります。



 裁判とはいったい誰のためにあったのでしょうか。




 とても考えさせられるできごとですね。




 藩主や家老の名はあまり知られていませんが、与茂七の名は今でも新潟県で広く知られています。




 遥かな地平線まで続く、豊かな美しい越後平野。


 ここで収穫されるおいしい米は、今でも全国の人々から愛されています。




 国民の目線から見れば、62か村の人々の尊い命を救った与茂七の名は、もっと広く知られてもよいのではないでしょうか。




 新発田駅の近くにある諏訪神社には、「義民与茂七の碑」 と書かれた大きな石碑が今もあります。


 僕も何度か足を運びました。




 また、処刑から300年もたつのに、市内西部にある道路の一角には 「義民与茂七処刑の地」 と書かれた標柱が残り、地蔵の前にはいつも花が添えられています。




この事実はいったい何を物語っているのでしょうか。
スポンサーサイト
4 天草四郎 (1621~1637)




~信仰の自由のために命をかけて戦った熊本の少年~




 蓑踊り (みのおどり) という踊りをご存知でしょうか。


 これは、 「踊り」 などではなく、残虐な 「拷問・処刑法」 です。



 年貢を納められなかった百姓の手をしばり、ワラでできた蓑(みの) を着せて、生きたまま火をつけるものです。

 あまりの熱さに跳びあがってもがき苦しむ様子を、支配者の武士たちが楽しみながら見ていたのです。




 江戸時代初期、九州の天草や島原地方で、キリシタンや年貢を納められなかった百姓たちは、さまざまな迫害、弾圧が容赦なく加えられていました。



 キリシタンの人々は、活火山雲仙の地獄池に生きたまま突き落とされたり、火あぶりの刑で残酷に処刑されました。

 女性は水牢に死ぬまで入れられました。



 生きたまま海に投げ込まれたり、逆さ吊りにされた者もいました。

 これらのあまりにも激しい迫害のため、首を吊ったり、餓死する人も多数出たのでした。



 宣教師も次々に海外へ追放され、キリスト教徒は仏教への改宗を強制されました。


 天災と凶作が相次ぐ中、領民たちの我慢も限界に達していました。




 このような中で、百姓の人間らしい生活と、キリシタンの信仰の自由のために、リーダーとして立ち上がったのが天草四郎です。




 本名は益田四郎時貞といい、現在の熊本県宇土市で生まれました。

 父はキリシタン大名として知られる小西行長の元家臣です。




 四郎は生まれながらにしてカリスマ性があり、大変聡明で、慈悲深く、容姿端麗だったといわれています。

 幼少期から学問に親しみ、すぐれた教養もありました。




 1637年、日本史上有名な、「天草・島原一揆」 がおこります。

 古くから 「島原の乱」 ともよばれ、現在は両方の言葉がさまざまな本で使用されています。




 僕は自分が生徒のときは後者で習いましたが、今はあえて前者の言葉を使います。




 理由は 「一揆」 という場合は百姓をはじめとする一般民衆の立場から見たニュアンスが強く、「乱」 という場合は、どちらかといえば支配者の立場から見たニュアンスが強くなると思うからです。




 当時の領主は、天草が寺沢広高、島原が松倉勝家でした。




 なぜ、こんなむごい拷問や処刑が行われたのでしょうか。




 もちろん、領主たちとその部下の武士たちの性格もあるでしょう。




 しかし、ここで見逃せないのが、3代将軍徳川家光をトップとする江戸幕府の圧力です。

 幕府は諸藩に対して本来より多い石高を設定していたのです。




 天草も島原も実際の石高の2倍前後の石高を設定されていたため、本来よりも年貢が非常に高くなります。

 当然その負担は百姓に来ることになり、無理な取りたてが横行することになっていました。




 キリスト教の禁止も幕府の命令によるものですね。

 天草四郎は一揆軍の精神的支柱となり、3万7千人で幕府連合軍12万人と勇敢に戦いました。




 しかし、力の差は歴然です。




 強権を誇る幕府軍は、8千人の死傷者を出しながらも、一揆軍を全滅させました。

 女性や子どもも含めて、3万7千人が全員殺されたのです。




 これは、江戸幕府という名の独裁者による 「人権侵害の嵐」 と表現することができます。




 このとき、四郎はわずか16・7歳だったといわれます。


 少年ですね。




 日本で初めて農民が武士に戦いを挑んだ、日本史上最大の農民一揆であり宗教一揆だったのです。


 こうして、自由と平等を求めた天草・島原一揆は終わりました。




 このとき確かに一揆軍は敗れましたが、江戸幕府はその後300年とたたずに滅亡し、この世からなくなりました。




 しかし、キリスト教はその後も江戸時代を通して、隠れながらもなくならず、現在までたくさんの信仰が続き、さらに発展しています。



 たとえ肉体は滅ぼされても、心までは滅ぼされなかったことの何よりの証拠です。




 これはいったい、なぜなのでしょうか。

3 シャクシャイン (1606?~1669)




~民族差別に立ち向かい自由と平等のために命をかけたアイヌの首長~




 自分が生まれ、育ち、今なお生活している大事な場所をよそから来た人に侵略されれば、何らかの形で抵抗することは世界中どこへ行っても当然のことですね。



 北海道の先住民は、まちがいなくアイヌ民族です。



 江戸時代の初期、和人の侵略に抵抗し、アイヌの自由と平等のために命をかけて戦った英雄がシャクシャインです。

 ここではアイヌ民族と区別するためにアイヌ以外の日本人のことを 「和人」 と呼ぶことにします。



 僕は自分が中学生、高校生のとき、シャクシャインについて習った記憶がないのです。

 ただ忘れただけなのでしょうか、あるいはアイヌが無視されていたのでしょうか。



 今では中高の歴史の教科書では、おなじみの人物になっています。



 僕が教員になりたてのころは、教科書に沿って 「シャクシャインの乱」 という言葉で生徒に教えた記憶があります。


 ところが現在では乱ではなく 「シャクシャインの戦い」 と言葉が普通になっています。



 「乱」 という言葉では、松前藩や江戸幕府が 「上から目線」 でシャクシャインを見下した言葉になるでしょう。


 その背景にはアイヌ民族差別があることは明白ですね。



 その点、「戦い」 ならば対等の立場で使える言葉ともいえます。


 さらに差別されたアイヌの人々の立場に立てば、「解放戦争」 や 「松前藩の侵略」 という表現もできると思います。



 結論を先に言えば、この戦いでアイヌの人々は自分たちの土地を奪われ、奴隷のような厳しい生活を余儀なくされることになったのです。



 このできごとには、かの有名な徳川家康が一枚からんでいるのをご存知でしょうか。



 古くからアイヌの人々は、北海道だけでなく東北地方などとも広く自由に交易をおこなってきました。


 ところが1604年、家康は松前藩にアイヌ民族との交易を 「独占する権利」 を与えました。



 このため、アイヌの人々は東北地方に出向いても、津軽氏や南部氏などの大名から交易を断られるようになってしまったのです。


 こうなると、アイヌの人々は米や鉄製品、木綿などの和人の製品が欲しくても、松前藩としか取引ができません。



 とたんに松前藩は、交易上有利になります。



 交易での交換比率は、松前藩の都合のいいように変更することができるようになったのです。



 たとえば、アイヌの乾燥した鮭100匹は、松前藩の米30キログラムと交換されていましたが、1669年ごろになると米10.5キログラムになっていました。



 実に約3分の1ですね。



 初めは友好を装っていた和人は、しだいに極端に不平等な産物交換を強要しました。


 強制された数量の物品を納入できないと、罰としてさらに不当な交換を強いました。



 それも達成できないと、アイヌの子どもを 「人質」 に取ったりしたのです。



 これはひどいですね。


 こうまでされて、アイヌの人々が黙っているはずがありません。




 シャクシャインは、こうして2,000人を率いて立ち上がったのです。


 しかし、強大な権力をもつ江戸幕府の応援を得た松前藩の鉄砲の前にはかないませんでした。



 最後はだまし打ちです。



 10月、松前藩は 「うその和睦」 をしてシャクシャインを宴会の席に招きます。


 酒に酔ったところを謀殺したのです。



 正義はどちらにあるのか、ここにあえて書くまでもありませんね。



 和人もアイヌも同じ人間です。



 僕の住む新潟県新発田市(しばたし) の隣りに、胎内市(たいないし) という市があります。

 胎内とは、アイヌ語です。



 「清らかな水が湧き出る所」 という意味です。



 この事実は、いったい何を物語っているのでしょうか。



 言葉や文化に違いはありますが、同じ所に住む対等な人間として、互いに相手の文化を尊重し、共存共栄をめざすべきだと思います。



 僕は、自然が豊かで美しい北海道が大好きです。


 アイヌの人々とシャクシャインの理解者は、これからも増え続けていくのではないでしょうか。
2 佐倉宗吾 (1605~1653)




~将軍に直訴し民衆とともに生きた千葉の義民~




 義民とは、身を捨てて多くの人々のためにつくす人のことです。


 特に江戸時代の農民の中で、百姓一揆などで民衆を救い、自分が犠牲になった人をさすときに使われることが多いですね。




 全国にはこの義民の話がたくさん伝えられており、現在でも地元の人々を中心に多くの人から尊敬されている人物がたくさんいます。



 千葉県の木内惣五郎 (きうちそうごろう) もその一人で、通称 「佐倉宗吾」 の名で広く知られています。




 政治権力は国民のためにあるべきもではないでしょうか。


 しかし、江戸時代の幕府や藩の中には、はたして誰のためにあったのか疑問に思えるような例がよくあります。




 徳川家康によってつくられた江戸幕府の力は強大です。




 大名を絶対管理下におき、頻繁に移封をかさね、後には参勤交代を強い、不備があれば直ちに改易、つまりクビにするなど、強権をほしいままに、専制的に君臨していました。




 さらに幕府は、諸国が余力を蓄えることを好まず、諸役を負わすなどして国力が余りつかないようにしました。

 各藩主も百姓に対して生かさず、殺さず、常に重い負担を強い、土地に釘づけにすることが珍しくなくなっていました。




 当時の国民人口の80%以上は百姓です。

 年貢の率も高率で、佐倉宗吾が住む佐倉藩の場合は、村によって相違があるものの、5割から8割でした。




 これでは誰のための政治なのかわかりませんね。




 1653年、千葉県の佐倉藩では数年来の凶作と、重税の取り立てに困り果てていました。

 年貢米の増税に加えて、天秤税、野菜税、味噌税、醤油税などまで設け、過酷な取り立てをされました。




 農民の中には先祖伝来の田畑山林を売り払い、あるいは一家離散、道端で餓死する者さえ出る始末でした。



 こうなると、もう我慢の限界でしょう。




 佐倉藩の代官は、農民たちの家の財産までも搾り取るように重税を課し、年貢を納められない者は滞納と称して処罰しました。




 佐倉宗吾は印旛郡公津村 (現在の成田市) の名主です。

 農民を代表する村役人の一人ですね。




 この状態を黙って見ているわけにはいきませんでした。

 他の村の領主たちとも話し合って、代官所へ処罰の中止を願い出ましたが却下されました。




 藩主堀田家の江戸の上屋敷に嘆願書を差し出しましたが、これも却下。




 さらに将軍の後見職の保科正之 (ほしなまさゆき) の耳に届くよう、久世大和の守の籠先にも訴えましたがこれも却下されました。




 最後の手段です。

 


 宗吾は4代将軍徳川家綱への単身直訴を決意します。

 同年12月20日、将軍の行列が上野の寛永寺に参拝する途中の籠先に飛び出しました。




 「お願いで御座います、お願いで御座います」




 訴状は受け取られましたが、直ちに宗吾は取り押さえられました。


 参拝後、家綱は訴状の内容を確認し、直ちに佐倉藩の状況を調査報告するよう命じました。




 そして、深刻な不作は確認され、3年間、年貢の減免が行われたのです。




 訴えは認められたのですね。




 農民たちは宗吾の命がけの勇気ある行動によって救われました。


 しかし、捕えられた宗吾は佐倉藩主堀田正信に引き渡されました。




 面目を失った正信は宗吾を磔 (はりつけ) にして処刑しました。



 享年42歳。




 江戸時代の百姓一揆は3,000件以上で、一揆とまでいかなくてもこれに近い状況がまだ多数あります。




 戦国時代のような、権力を奪い合うといった戦乱はあまりなくとも、一般庶民中心の命をかけた、 「自由のための戦い」 の数は100や200ではありません。




 けた違いの4けたです。




 日本の歴史上、義民はもっと多くの人々に注目されてもよいのではないでしょうか。