1 前田慶次 ( ? ~1612)




~家柄にとらわれず自由に生きた文武両道の浪人~




 江戸時代や戦国時代の武将の中で、その生き方に最も共感できる人物を一人あげるとするならば、僕は迷わず前田慶次をあげます。



 なぜでしょうか。



 それは、武家社会の上下関係、しきたり、礼節などで身分差別が当たり前の時代の中で、自分に正直に生き、権力や家柄にとらわれず、自由な人生を全うできた人だと思うからです。



 文武ともに実力をもちながら、これほど解放された人は他にあまりいないのではないでしょうか。

 慶次はもともと織田信長の家臣である滝川一益 (たきがわかずます) の一族で、尾張(愛知県)の出身です。



 しかし養子に出され、前田利家の義理の甥という立場に置かれていました。



 武芸にすぐれていましたが、世を軽んじ、人を小馬鹿にする癖があったので、信長の重臣であるまじめな叔父・前田利家にはよく説教をされました。



 慶次にとっては、これがわずらわしかったのでしょう。




 名門・前田家との決別の行動に出ます。


 慶次は利家を屋敷に丁寧に招待して、お茶とお風呂を勧めました。



 ところがこれが水風呂だったのですね。


 利家は激怒します。



 「馬鹿者に欺かれたわ、引き連れて来い」

 と怒鳴りましたが後の祭り。

 

 慶次は利家の愛馬に乗ってそのまま蒸発しました。

 叔父に一泡ふかせた上での、彼独特の 「決別宣言」 ですね。

 

 この後、二度と前田家には仕えませんでした。



 自ら進んで浪人になったのです。


 天下統一よりも自由に生きることを選んだのですね。



 蒸発した慶次の行先は京の都でした。

 そこでは穀蔵院飄戸斎 (こくぞういんひょっとこさい) という奇妙な名前を名のっています。



 身分や貴賤貧富を問わず、さまざまな人々と自由に交流しました。



 古典文学や茶、謡曲、舞もたしなむ浪人ですが、風流人になりました。

 彼の武芸の腕は広く知られていたので、仕官の声がいくつもかかりました。



 現在でいう 「スカウト」 ですね。

 

 しかし、慶次はこれらをことごとく断りました。




 ただ一人、直江兼続 (なおえかねつぐ) だけは別でした。



 有名な上杉謙信の甥・景勝 (かげかつ) の右腕として活躍していた武将です。




 兼続は慶次の才能を見抜いていました。

 仕官の条件は、 




 「禄高はいくらでもいいから自由に勤める」 


 これはびっくりですね。
 



 これを要求した慶次もすごいですが、これを認めてスカウトした兼続も大人物だと思います。



 当時は権力者・豊臣秀吉により、上杉家は越後から会津100万石の大大名になっていました。




 関ヶ原の戦いのときに、上杉家は徳川家康に敵対します。

 いわゆる 「東北の関ヶ原」 という戦いで、家康を待ち伏せて叩こうとします。




 しかし、石田三成の挙兵で西へ引き返されたので、最上義光や伊達政宗との半月ほどの戦闘になりました。

 その激戦が長谷堂の戦いです。




 ところが石田三成の西軍が敗れたため、上杉軍も撤退を余儀なくされました。

 東軍の猛攻の中、殿 (しんがり) を勤めたのが前田慶次です。




 攻め込んでは退く見事な戦いぶりで、敵に追撃をあきらめさせ、味方の将兵を誰一人傷つけなかったといわれています。




 徳川家康は敵対した上杉家を山形県米沢に減俸はしたものの、滅ぼしませんでした。




 僕はこの理由の一つに、直江兼続の人徳があるのではないかと考えています。

 その兼続のもとで自由に暮しながら、源氏物語の講義など、花鳥風月を詠む生活を楽しみながら人生を全うしました。




 自分の本心を大切にし、付き合いたい人とだけ付き合いました。

 


 痛快な生き方をした江戸初期の快男児として、学べるところが多いと思うのは僕だけでしょうか。
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7 出雲阿国 (1572~ ? )

 


~形にこだわらず愛と芸能で自由に生きた出雲の巫女~




 歌舞伎の創始者として知られ、人気者になった安土桃山時代の女性ですね。 
 
 歌舞伎という言葉は 「傾く」(かぶく) ことからきています。



 抑えつけてくる力に逆らって、斜めに身を傾けて 「強い力に肩すかしを食らわせる」 のがもともとの意味です。




 当時は奇抜な服装や歩き方などで人目を引き、おしゃれを気取る人間を 「傾き者」(かぶきもの) と呼んでいました。

 阿国(おくに)はそういった芸能で、自由な生き方をした魅力的な人だと思います。




 現在の島根県、出雲大社の巫女(みこ)でした。

 一説によると、河原者(かわらもの) とよばれた差別をされた身分だったともいわれますが、正確なことは分かっていません。




 阿国は7歳のときから神楽舞をやっていました。

 父は中村三右衛門といって、出雲大社の鍛治氏(かじし) でした。
 



 彼女が京の都に出るきっかけは、出雲大社修繕の勧進(かんじん) つまり寄付集めで、5人の巫女が猿楽の前座として神楽舞を踊ることになったのです。



 そのころはちょうど豊臣秀吉が全国を統一し、強権を発していた時代にあたります。



 太閤(たいこう) となった秀吉の抑圧と朝鮮侵略にうつつをぬかしているといった迷惑からでしょうか、京の都にもやりきれない不満が充満していました。




 巫女という立場も謹厳で、重い殻に包まれるようなところがあります。

 神鈴(しんれい) をもって神前で踊る神楽舞は単調で、阿国も不自由な物足りなさを感じていたのでしょう。




 この重苦しい空気の中で、阿国は 「遊女踊り」 に注目します。


 仲間から止められましたが



 「斜めに構えて結構だわ。

 わたし、ここで踊りたい」



 と言って遊女踊りの座に飛び込みました。



 肌をあらわにして男客の中に出るのは抵抗がありましたが、熱い視線の中で恥ずかしいという意識がいつのまにか消えていきました。



 阿国にとっては 「自由な踊り」、 観客にとっては 「自由な空気」 だったのでしょうか。


 まさに世に傾く(かぶく) 場所になっていったのです。




 重苦しい空気からの解放感を味わうことができたのです。

 阿国は何人かの恋人との恋愛にも熱中しています。




 その中の一人が名古屋山三郎(なごやさんさぶろう) です。

 評判の美男子で、京の町でも有名な「傾き者」(かぶきもの) でした。




 不運なことに阿国はこの恋人に早々と先立たれてしまいます。

 ところが阿国はこの恋人の死をも 「舞台の題材」 にしたのです。




 これまでにない斬新な展開に会場は沸き返りました。




 まさに 「愛と芸の鬼」 とでも呼べばよいのでしょうか。

 たいていの人ならすぐには立ち直れず、なかなかこのような芸はできないことだと思います。




 歌舞伎踊り完成のきっかけは、禅昌(ぜんしょう) という神官が、阿国に遊女街を離れるように勧めたことにありました。




 「お前が挑んでいるのは太閤様の強権だろう。

 それがいい。



 もっと世に傾け。

 そうだ、いつまでも遊女踊りに埋もれていてはならぬ。




 みんな男の格好をして踊れ」




 この言葉が阿国を動かしました。


 女が男になる 「逆さま踊り」 が大人気になったのです。




 町人だけでなく、武将らもひそかに見物に来るようになりました。




 晩年の阿国の様子はよくわかっていません。

 しかし、さまざまな紆余曲折はありましたが、自由な発想で自分がやりたいことを真剣に勇気をもってやってみる。




 その延長線上に、今日見られる 「歌舞伎」 という芸能があるのです。




 21世紀に生きる僕たちも、自らの 「創意工夫」 で結果が変わる仕事は面白いし、気合が入りますよね。




 阿国はそんな創意が徹底した、勇気ある女性です。




 その自由自在な人間としての生き方に共感できる人は、男女を問わずきっと僕だけではないと思いますがいかがでしょうか。
6 高山右近 (1552~1615) 




~信仰の自由のために領地と財産を捨てた戦国時代の武士~




 高山右近(うこん)は戦国時代を代表するキリシタン大名です。

 フランシスコ・ザビエルで有名なイエズス会に入会して洗礼を受けたのは、彼が12歳のときでした。



 武士としては歴戦の名手で、数々の合戦で活躍し、茶道の名手という文化人でもありました。



 さらに僕が注目したいことは、 「信仰の自由」 のために身の危険を乗り越えて闘ったという事実です。

基本的人権の視点から見れば、彼こそ長い日本の歴史上、指折りの傑出した人物でもあるのではないでしょうか。
 



 織田信長に仕えていたころは4万石を与えられ、信長軍に高山右近ありと指揮官としての名声を得ていました。



 本能寺の変の後、羽柴秀吉 (後の豊臣秀吉) の有名な 「中国大返し」 に同行し、天王山の戦いとしても知られる山崎の戦いでは、明智光秀を破りました。



 秀吉軍の一番手に任じられ、誰もが認める戦上手でした。

 さらに秀吉に従って紀州征伐、四国征伐にも参加し、その武勲によって明石6万石の城主にまでなりました。



 信長はキリスト教には寛大だったので、右近は布教活動も積極的にできました。

 その人徳の影響もあって次々に入信者も増えました。



 小西行長、蒲生氏郷(がもううじさと)、黒田官兵衛などは特によく知られています。



 洗礼まではしませんでしたが、加賀100万石で有名な前田利家も右近のよき理解者でした。

 また、千利休のすぐれた弟子の一人として茶道も広めています。




 文武両道の人格者だったのですね。




 ところが1587年、秀吉は 「バテレン追放令」 を出します。

 バテレンとは宣教師のことですね。




 つまり、キリスト教禁止令です。




 天下を統一して全国を支配しようとする秀吉にとって、キリスト教は邪魔と判断したのです。




 これに対して右近は


 「棄教するくらいなら大名の地位を捨てたほうがいい」



 と宣言しました。




 秀吉は激怒したことでしょう。

 領地没収の上、追放という処分になりました。




 やむをえず淡路島や小豆島に身を潜めていましたが、前田利家が救いの手を差しのべます。



 利家のもとで小田原の北条攻め、関ヶ原の戦いで武士としての手腕を発揮することができました。

 その後、前田家の金沢では 「南蛮寺」 を建てることができました。




 南蛮寺とはつまり 「教会」 のことですね。




 黒田官兵衛はすぐ棄教しましたが、高山右近はあくまで信仰を貫こうとしたのです。


 命がけの勇気ある行動で、なかなかできることではないと思います。




 迫害はこれだけでは終わりません。


 1614年、江戸幕府の将軍として権力を握った徳川家康は、国外追放を命じてきたのです。




 右近はついに日本にいられなくなりました。




 信仰の自由を求めて、フィリピンのマニラに移住することを決意します。


 同年10月、妻のジュリアをはじめ、100名を超える家臣たちが同行しました。




 このときの右近の年齢はすでに60歳を過ぎていましたが、純粋な信仰心はどんな権力にも負けないことを物語っているできごとですね。




 長崎から43日の苦難の船旅を経てマニラについた一行は、礼砲で迎えられ、市民から大歓迎を受けて賓客としてもてなされました。



 長い航海と南国の酷暑で熱病にかかり、長生きはできませんでしたが、右近はそこであくまでキリスト教徒として一生を終えることができました。




 人間なら本来、信仰は個人の自由でしょう。




 その自由のために闘った高山右近は、苦労はしたけれど納得のいく人生を全うすることができたのではないでしょうか。




 現代に生きる僕たちも、さまざまな集団に自分の自由意思で所属しています。


 しかし、その所属がかえって本来の人間としての自由を束縛し、生きづらいものになっていることはありませんか。




 「常識」 という名の 「半強制」 や、「協調性」 という名の 「隷属」 を要求してくる集団があります。




 場合によっては勇気を出して、その集団と縁を切ることによって、本当の自分になれる例もあるのではないかと僕は考えています。
 
5 道 元 (1200~1253)

 


~名誉や利益を考えずに修行に打ち込んだ鎌倉時代の貴族~




 道元は 「貴族」 じゃなくて 「僧」 だろう、という声が聞こえてきそうです。



 確かに13歳で出家してからは生涯 「僧」 として生き、後に曹洞宗(そうとうしゅう)の開祖として有名になりましたが、実はそれまでは貴族だったのです。




 一説によると父親は内大臣・久我通親(こがみちちか)、母親は藤原基房(ふじわらもとふさ)の娘伊子(いし)です。


 朝廷で大きな力をふるう貴族であり、幼少の道元は何不自由のない恵まれた生活をすることができたのではないでしょうか。




 ところがこれは長続きしませんでした。


 3歳のときに父を、8歳のときに母を亡くしたのです。




 このとき道元は世の無常を感じたといわれます。




 貴族社会にもきびしい身分の格式があります。

 権力を背景にした優雅な生活から一転して、みじめな状況におかれることになりました。




 権力では人の幸せはいつまでも続かない、そのむなしさを身をもって体験したのです。


 本当の幸せとは何かを求めて仏教の門をたたいたのではないでしょうか。




 僕が道元の生き方に注目している理由は、世俗的な権力とそれにともなう差別意識から解放されているからです。


 仏教やキリスト教などもそうですが、宗教的な権力をふるいたがる人は歴史上たくさんいます。




 でも道元は名誉や利益などは一切考えませんでした。




 鎌倉幕府から寄進の申し出があった寺院建立を固辞しています。

 権力との結びつきを避け、純粋にシャカの修行にならい、ひたすら座禅に徹することを重視しました。




 同時に、男女の差別や身分の差別などを否定しました。


 このことから、道元は女性解放の先達ともいわれています。




 多少の知識、学歴、社会的地位があるからといって、それを鼻にかけることなく、謙虚に日々学ぶ心は大切ですね。


 彼は



 「人の価値は地位、財産、職業に関係ありません。

 知識や能力を生かす心と行いこそが大切です」



 と言っています。



 「からの容器ほど大きな音をたてる」

 という道元の言葉は、このことを凝縮していますね。




 また、食事に関しては


 「米、野菜、肉、魚など、命のおかげで私たちの命も生かされています。




 いただきます、ごちそうさま、尊い命に感謝して食事をいただきましょう」


 とも言っています。




 感謝の気持ちを忘れずにいれば、どんな食事でもおいしくいただくことができると思います。


 大切なことは、 「おいしい」 食事をいただくことではなく、 「おいしく」 食事をいただくことではないでしょうか。




 僕は高校生の時に、このことを徹底的にたたき込まれたことを今でもよく覚えています。

 たまたま偶然でしたが、僕が生徒として通っていた高校は、設立の母体が曹洞宗でした。




 道元の教えですね。




 仏教精神が教育の基本にあったのです。

 毎日 「食事訓」 と称して、昼食をとるときに5つの短い訓示を唱えていました。




 その中の一つがこの 「感謝の心」 です。




 また、学校行事の一つとして、福井県の永平寺まで行って宿泊してきました。

 午前3時にたたき起され、即座禅を組んだのです。




 とにかく理屈抜きで足が痛い。

 「なんでこんな目にあわんきゃならんのだ」




当時16歳だった僕は反感をいだきました。

ところが、成人した今となっては、むしろその貴重な体験に感謝の気持ちのほうが強くなっているのが不思議です。




 道元の考え方は当時の比叡山をはじめとする旧仏教各派から受け入れられず、さんざん迫害されました。

 最初に立てたお寺である興聖寺(こうしょうじ)などは破壊されています。




 その宗教的差別を乗り越えて、自分の信念に沿ってまっすぐに修行した道元の理解者は、今も増え続けているのではないでしょうか。
4 和泉式部 (976?~1030?) 





~和歌と恋愛にかけ身分をこえて自由に生きた歌人~





 和泉式部が1,000年の年月を超えて人気があるのはなぜでしょうか。


 それは、男女を問わず多くの人々にとって魅力のある人だったからだと思います。




 平安時代の貴族としては決して高い身分ではなく、差別的な攻撃を受けますが、それを乗り越えて自由に生きています。




 和歌も恋愛も真剣であり、その文学的才能と人柄が、今でも多くの人々の共感を呼んでいるのではないでしょうか。




 和泉式部の生没年は不詳です。

 ただ、有名な藤原道長や紫式部と同時代を生きたことは確かです。




 当時の越前守・大江雅致 (まさむね) の娘として生まれました。


 平安の貴族どうしの宮中でも厳然とした身分差別が存在しました。




 娘たちは父親の身分をそのまま引きずっていかざるをえなかったのです。

 父はいちおう地方の受領階級ではありましたが、京都では社会的地位が高いとはいえませんでした。




 では、彼女はどんな差別を受けたのでしょうか。




 まず、宮仕えしたときの同僚からこんな陰口を叩かれています。




 「たかが大進(三等官)でしょうに」


 明らかな身分差別ですね。




 さらに藤原道長からは 「浮かれた女」、紫式部からは 「けしからぬ」 と評されています。



 また、冷泉天皇の第三皇子・為尊親王 (ためたかしんのう) との恋愛に際しては、夫から離縁され、父親からは身分違いの恋であるとして勘当されています。




 和泉式部は恋多き女性といわれています。

 結婚も2度しました。




 彼女の作品はほとんどが恋愛をテーマにしたものです。

 歌集や日記に実名で登場する男性だけでも9人。




 2人の夫はもちろんのこと、天皇の皇子も2人います。

 そのほかにももっと多くの男性との恋愛があったのではないかと思います。




 でも、本当に浮かれたけしからぬ女だと言いきることができるでしょうか。




 平安時代の結婚制度では、女性に拒否権はあっても最初の選択権は保障されていませんでした。


 自由恋愛といえるほど男女平等に恋を楽しんだわけではありません。




 和泉式部には自分の意に添わない男をきっぱりと断る強さがあり、自分の恋愛には自立とプライドがありました。

 その人間性と豊かな文学的才能に魅了された人も多かったのではないでしょうか。




 宮仕え当時の有名な藤原道長の娘、中宮・彰子 (しょうし) はすぐに和泉式部を気に入っています。




 実体験をもとにした数々の歌は、スキャンダラスではあってもいやらしさは感じられません。

 官能的ではあっても下品ではありません。




 むしろ身からにじみ出た痛みが、読む人を突き刺すほどの共感をよんでいるのではないでしょうか。

 たとえば、おなじみの百人一首の五十六番には、彼女の代表作の一つが載っています。




 「あらざらむ  この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの 遭ふこともなが」




 意味: (わたしはもうすぐこの世からいなくなるかもしれない。

           せめてこの世の思い出として、もう一度あなたにお逢いしたい)




 こんな歌を贈られれば、たいていの男性はまいってしまいますね。




 この時代は、女性が複数の男性と付き合うことは別段とがめられることではなかったし、夫以外の男性を通わせることも自由だったのです。




 確かに批判はありましたが、魅力があるからこそ多くの男性が通ったのです。




彼女は身分差別を乗り越えて、自分らしく自由に生き抜いた人ではないかと僕は考えています。