13 マンデラ (1918年~2013)




~人種差別の獄中生活に耐えぬいた南アフリカ初の黒人大統領~




 アパルトヘイトという人種隔離政策をご存じでしょうか。


 1913年から1991年まで約80年にわたって南アフリカ共和国で行われていた、世界史上有名な人種差別です。



 少数の白人が権力を握り、大多数の黒人たちを露骨に差別したのです。

 だから、南アフリカは「白いアフリカ」とよばれていました。



 世界中からその人権侵害を非難され、国際連合でも問題になりました。

 このアパルトヘイトに立ち向かった黒人たちのリーダーがマンデラです。



 マンデラは複数の大学で法学を学び、ヨハネスバーグで黒人初の弁護士事務所を開設していました。

 1944年にアフリカ人民族会議 (ANC) に参加し、反アパルトヘイトの指導者になりました。



 差別と正面から闘いましたが、政府からの弾圧は厳しいものでした。

 1962年に禁固刑、64年には終身刑に処せられ、実に27年以上の獄中生活に耐えなければならなかったのです。




 では、このアパルトヘイトとはいったいどんな差別だったのでしょうか。




 まず、黒人たちは住む場所を 「黒人居住区」 に限定されました。



 原住民土地法という法律により、国土のわずか13%の不毛の土地が、全人口の4分の3以上を占める黒人たちに強制的に割り当てられました。



 この居住区からの外出も時間で制限されており、居住区外のレストランからホテル、電車、公園、公衆トイレに至るまで、すべて白人用と非白人用に区別されたのです。



 また、白人と黒人との結婚を禁止する背徳禁止法、黒人の職業差別を定めた産業調整法、異なった人種が政党を結成し、政治集会を開き、相互に交流することを禁じた人種交流禁止法など、数々の差別立法がなされていました。




 さらに違反した者に対しては、死刑を含む厳しい罰則が加えられたのです。




 まさに法律で人種差別を定め、差別をしないものは処罰されるという、世界史上にも稀 (まれ) と思われる非人間的な抑圧体制でした。



 黒人たちは黙っていません。



 当然のことながら、1975年と86年に反アパルトヘイトの大運動がおこっています。


 世界の国々も、あまりに露骨なこの制度に黙ってはいませんでした。




 1960年、国際連合の安全保障理事会は、人種差別廃止要求決議をしています。

 国際社会も、南アフリカに対して経済制裁を行って貿易をしないようにしたのです。




 1988年、国連総会は日本の対南ア貿易を非難する決議を採択しました。




 日本は延々と貿易を続けていて、南アフリカ政府から特別な扱いを受けていたのですね。

 僕たち日本人は白人ではありませんが 「名誉白人」 と呼ばれていたそうです。



 この事実を訪問者の皆さんはどのように考えるでしょうか。



 国の内外からの強い非難に耐えかねたのでしょうか、1991年、政府の白人大統領デクラークと釈放されたマンデラが協力して、ようやくアパルトヘイト撤廃を実現させました。



 これにともない、孤立していた南アフリカの国際社会への仲間入りが認められ、93年に2人はノーベル平和賞を受賞しました。


 そして翌94年の全人種参加の総選挙で、マンデラが黒人初の大統領に当選したのです。



 マンデラのもとで基本的人権を保障した新憲法が制定されました。



 ちなみに、これ以前の日本の中学校の社会科地理の教科書では、アパルトヘイトが2ページにわたって取り上げられており、世界中から南アフリカが非難されていると書いてありました。



 まるで他人事のようなこの記述に疑問を感じていたのは僕だけだったのしょうか。


 また、あの 「インド独立の父」 ガンジーも、南アフリカで差別と闘っていたことは僕のブログの記事で前述したとおりです。




 それにしても苦節27年。



 耐えに耐えぬいたマンデラの不屈の精神に共感する人は、世界中に大勢いるのではないでしょうか。


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12 ジャヤワルダナ (1906年~1996年)




~外国人差別を乗り越えて生きた日本独立回復の父~




 第二次世界大戦に敗れた日本は、戦勝国から賠償金を取られてもおかしくなく、ドイツや朝鮮半島のように分割されてもおかしくない、極めて厳しい状況の下にありました。




 そうならなかったのはなぜでしょうか。




 この疑問を解く鍵を握る人物が、インドの南東にある小さな島国スリランカにいました。

 彼の名はジャヤワルダナといいます。




 彼と日本の間にはいったい何があったのでしょうか。



 1906年、ジャヤワルダナはスリランカのコロンボで生まれました。



 当時のスリランカはイギリス領セイロンと言って、自治があったとはいえイギリスの植民地でした。

 外国から国民全体が被差別の立場にあったのです。




 僕が小中学校のころは、セイロンという国名で習った記憶があります。 

 紅茶をたくさん輸出する仏教徒が多い国というぐらいの知識だったので、特にこれといって注目したことはありませんでした。




 ジャヤワルダナは、コロンボ法科大学で法律を学び、法律家になったこともありますが、どちらかといえば活動家でした。




 セイロン国家機構 (CNC) や国民連帯同盟などで活躍し、国際連合には蔵相として参加しています。

 後には首相やスリランカの初代大統領にもなりました。




 日本へも何回か来ており、政界引退後も訪日しています。

 両国の交流に尽力した人物だったのですね。




 僕が注目したい出来事は1951年の 「サンフランシスコ講和会議」 です。




 敗戦後6年、日本はGHQ (連合国軍総司令部) 占領の下、やっと国際社会へ復帰できるチャンスがめぐって来たのです。


 しかし、予想通り戦勝国の態度は上から目線で冷たいものでした。




「日本に今、この段階で平和を与えるのは、もってのほか」


「日本は南北に分割して統治すべき」




「日本を独立させるのは時期尚早」


などの意見が相次ぎました。




 これに真っ向から反対したのが、スリランカ代表のジャヤワルダナです。




 「憎しみを憎しみで返しても解決にはなりません。

 愛で解決することが必要です」




 と演説して、日本の独立回復と賠償金を取らないことを主張しました。


 戦争中に日本空軍は、スリランカをイギリス領として空爆し、多大な被害を与えているのです。




 それにもかかわらずこの発言です。

 彼のこの解放された演説の背景にはいったい何があるのでしょうか。




 僕は仏教の開祖、シャカの考えに基づく、差別から解放された生き方、考え方があるのではないかと思います。

 多くの戦勝国の代表たちは、彼のこの演説に動かされることになります。




 その延長線上に現在の日本の姿があることは容易に想像できますね。



 戦争という最大の人権侵害を乗り越えて、豊かな人権感覚をもち、日本の歴史上の大きなピンチを救ったジャヤワルダナ。





 彼は世界でもっとたくさんの人々に知られてもよい人物なのではないでしょうか。




 僕たち日本人なら、なおさらだと思いますが、いかがでしょうか。


11 周恩来 (1896年~1976年)




~侵略からの自由と平和をめざして戦った中国の首相~




 中国の首相まで務めた周恩来が、少年時代、自分の家で育ててもらえなかったことをご存知でしょうか。



 実は、幼いころから伯父の家に預けられて育ったのです。

 12歳のときには寒い東北地方に住む別の叔父の家に移りました。



 こうして親戚の家で育てられるうちに、幼い彼は、知らず知らずのうちに、周囲の人々にかわいがられる方法が身についていったのでしょうか。



 伯母に大変気に入られて、外国人の家庭教師を雇ってもらい、ヨーロッパの学問を学ぶことができました。

 日本やヨーロッパで留学生活を送り、1924年の第一次国共合作の年、フランスから帰ってきたばかりでした。



 中国国民党の士官学校では、校長の蒋介石のもとで政治部副主任として勤めています。

 1934年、国民党からの攻撃をかわすため、共産党の2年間にわたる 「長征」 が行われました。



 この途中、四川省の小都市で 「八・一宣言」 の原稿をつくりました。



 「日本と戦うため、中国の全国民に告げる。

 日本の中国侵略はますます激しくなってきた。



 このままでは国が滅びてしまう。

 今すぐ中国人どうしの戦いをやめ、すべての力を集め、日本から国を守る戦いに立ち上がろうではないか」



 日本からの民族差別に負けないように、中国人の自由と平和のために、力を合わせるように呼びかけています。


 明らかに差別者は日本の帝国主義者たちですね。



 1936年、張学良 (ちょうがくりょう) が蒋介石を監禁する西安事件がおこりました。

 数日後、張学良に招かれて、周恩来が蒋介石を説得するために西安へやってきました。



 「再び力を合わせて日本軍と戦いましょう」

 この説得により 「抗日民族統一戦線」 が組まれ、第二次国共合作が実現したのです。



 中国共産党は中国国民党に大きくゆずり、中華ソビエト共和国臨時政府を解消し、共産党の軍隊である紅軍 (こうぐん) を、国民党軍の指揮下におきました。
 


 1937年、日中戦争が始まりました。

 日本の侵略に抵抗できたのは、周恩来の説得が大きな役目を果たしているのではないでしょうか。



 戦後、周恩来は首相になり、インドのネルー首相と会談して 「平和五原則」 を発表しました。


 「インドと中国はどんな同盟にも加わらず、平和五原則を守って友好関係を続けていくことを約束しました」



 この会談は世界中に大きな影響を与え、後の諸条約、諸宣言にも反映されることになります。

 また、1955年の 「アジア・アフリカ会議」 で参加諸国の意見が対立したとき



 「中国には昔から求同存異 (きゅうどうぞんい) という言葉があります。

 一致点を求めて異なる意見はしまっておくという意味です。



 どうか求同存異でアジア・アフリカ人による初めてのこの会議を成功させようではありませんか」

 と発言しています。



 反帝国主義、反植民地主義、平和共存をめざすこと、アジアとアフリカの連帯などを中心とする 「バンドン10原則」 を採択しました。



 僕はこれこそ、「アジアとアフリカの人権宣言」 だと考えています。

 この大事な会議に、なぜ日本が参加していないのでしょうか。



 理由はここに書くまでもありませんね。



 1976年、周恩来が亡くなると、死を悼むたくさんの人々が、天安門広場の記念碑に花輪や詩を捧げました。



 しかし、いわゆる四人組といわれた張春橋、姚(よう)文元、王洪文、江青ら文革路線の権力者の人々は、これは自分たちへの批判だと解釈して、すべてを撤去させてしまいました。



 そのため、民衆の怒りが爆発しておこったのが 「天安門事件」 です。


 周恩来は国民から好かれていたのですね。




 人種や民族を越えた、広い視野をもったすぐれた人権感覚の持ち主だったのではないでしょうか。


 外国からの差別に負けなかった彼の生き方には学ぶところがたくさんあると思います。




 資本主義とか社会主義とかの主義・主張の問題ではなく、その生き方に中国史上指折りの共感できる人物だと僕は考えています。
10 エドワード8世 (1894年~1972年)




~身分差別を乗り越えて結婚の自由のために王位を捨てたイギリス国王~




 歴代のイギリス国王の中で、その生き方に共感できる人物を一人だけあげるならば、僕は迷わずエドワード8世をあげます。



 なぜでしょうか。



 彼は国中から差別を浴びせられてもそれに屈せず、自由のために闘いぬいた人物だと思うからです。


 中学校や高校の歴史の教科書にはほとんど登場しません。



 いったい彼はどんな差別を受けたのでしょうか。

 そして、彼が求めた自由とは何だったのでしょうか。



 彼がエドワード8世として即位したのは、父ジョージ5世の死を受けた1936年1月21日のことです。

 皇太子時代から気さくな人柄で、国民の人気も抜群でした。



 独身時代が長く、結婚相手と出会ったときは36歳になっていました。

 相手は2歳年下の34歳でした。



 ところが、突然 「王冠をかけた恋」

 という名のスキャンダルが世界を駆けめぐり、イギリス王室はもとより、内閣、マスコミに至るまで騒然となりました。



 たくさんの人々がこの結婚を妨害したのです。

 結婚相手の女性の名は、ウォリス・シンプソンといいます。



 エドワード8世はこのウォリスとの結婚をあきらめるように、事実上強制されたのでした。

 では、なぜ彼が彼女との結婚をあきらめなければならないのでしょうか。



 それはウォリスは離婚経験者だったからです。

 イギリス王室の規則では、国王は離婚経験者とは結婚できないことになっていました。



 王室関係者全員が、エドワードの結婚に反対しました。



 でも、この規則自体が差別的だと感じるのは僕だけでしょうか。



 ウォリスは2度の離婚歴があります。



 離婚がなぜいけないのでしょうか。

 再婚をして人生をやり直そうとすることが、なぜいけないのでしょうか。



 王室だけでなく、当時の内閣まで結婚しないように迫ります。



 首相ボールドウィンは

 「2度の離婚歴をもつ女性に王妃の称号を認めるわけにはいかない」

 とつきつけ、議会までもが圧倒的多数で首相の意向を支持したのです。



 国王の結婚をなぜ祝福できないのでしょうか。

 あげくの果てに、イギリスのマスコミはウォリスについて



 「アメリカの売春婦をやっつけろ」

 とバッシングしました。



 これは、公然と人権侵害が行われたということではないでしょうか。

 それでもエドワードは引き下がりません。



 人間であるならば、結婚は自由でしょう。

 彼は国王をやめてウォリスとの結婚に踏み切ったのです。



 愛のために王位を捨て、 「人間として」 生きることを選んだのです。

 それにしても、エドワードにとってウォリスにはどんな魅力があったのでしょうか。



 この答えは初対面のときの二人の会話に凝縮されていると思います。



 「お国にあるようなセントラルヒーティングが、イギリスにはないので、さぞご不自由でしょうね」

 『ちょっとがっかりしましたわ』



 「それはなぜです?」

 『イギリスの方は決まって同じことをおっしゃいますのよ。



 殿下はもっとユニークなことをおっしゃる方だと思っておりましたのに』



 エドワードはお世辞に慣れていてうんざりしていました。

 でも、ウォリスにはそれがないのです。



 何とリラックスしているのでしょうか。

 気取らず、飾り気のない物言い、暖かみのある態度。



 彼は初めて自分を 「人間扱い」 してくれる女性に出会ったのです。

 それまでに多くの女性とのつき合いはありましたが、社会的地位が優先し、むなしさを感じていたのです。



 エドワードは、生涯で唯一 「本気」 で愛する女性に出会いました。

 特に社会的地位もなく、美人ともいわれないアメリカの平民で、離婚経験もある女性を最後まで愛し続けました。



 結婚の自由を勝ち取った彼の生き方と人間味豊かな行動。

 彼の理解者はイギリスだけでなく、世界中でふえ続けているのではないでしょうか。