9 チャップリン (1889年~1977年)




~映画を通してファシズムと闘ったイギリスの喜劇王~




 チャップリンとヒトラーが同い年であることをご存知でしょうか。


 2人とも1889年に生まれました。



 日本では明治時代にあたり、大日本帝国憲法が発布された年でもあります。

 喜劇王と独裁者。



 2人は対称的な生き方をしていますね。

 ヒトラーは第2次世界大戦のとき、56歳で自殺しましたが、チャップリンは88歳まで生き、30年以上長生きしています。



 天寿を全うしたといえるでしょう。

 これもまた、対称的ですね。



 僕は高校生のとき、名古屋に住んでいました。

 通学の時地下鉄に乗って、華やかな繁華街の栄 (さかえ) を毎日通っていたのです。



 学校の帰りに途中下車をすれば、魅力的なものはいっぱいありました。

 その一つが映画です。



 たまたま映画好きの友人に付き合って、「モダンタイムス」 を観たのが、チャップリンとの最初の出会いでした。

 もう、おなかを抱えて爆笑の連続だったことをよく覚えています。



 ただ、当時高校生だった僕は、「おもしろい」 が優先し、チャップリンの生き方の奥深さには、あまり関心がありませんでした。


 でも、これからは視点を変えて彼の生き方を中心に考えていきたいと思います。



 1889年、チャップリンはイギリスのロンドンで生まれました。



 両親はミュージック・ホールの歌手でした。

 ところが、彼が1歳のときに両親が離婚。



 8歳のときには、父がアルコール依存症によって死んでしまいました。

 さらに母は、精神に異常をきたして施設に収容されてしまったのです。



 チャップリンは、幼くして孤児院や貧民院を転々とするどん底の生活を余儀なくされました。


 この時点で、彼は被差別の立場に立たされていたことが考えられますね。



 生きるために床屋、印刷工、ガラス職人、新聞やマーケットの売り子とあらゆる職に就きました。

 転機が訪れたのは1908年、兄の勧めでフレッド・カーノー劇団に入団し、俳優としての頭角が出てきたときです。



 その後アメリカのコメディ専門の会社に入社し、1914年には映画デビューをすることができました。

 25歳のときです。



 2年後にはロンドンの会社に 「製作の自由」 つきで迎えられ、その2年後にはハリウッドで撮影スタジオを設けたのです。

 こうして人気者になり、数々の喜劇の名作を世に送り出したことは、世界中の人々が認める通りです。



 僕がここで特に注目したい作品は 「チャップリンの独裁者 」です。

 有名なドイツの独裁者ヒトラーを風刺し、ファシズムの矛盾を世界に訴えた、自作自演の作品と言えるでしょう。



 この映画の最後の場面でのチャップリンの独裁者としての演説には、彼の信念が余すことなく表現されています。

 そのいくつかを拾ってみましょう。



 「私たちは憎み合ったり、見下し合ったりなどしたくないのだ」


 「憎しみは消え去り、独裁者たちは死に絶え、人々から奪い取られた権力は、人々のもとに返されるだろう」



 「決して人間が永遠には生きることはないように、自由も滅びることもない」


 「独裁者たちは自分たちを自由にし、人々を奴隷にする」



 「兵士たちよ、奴隷をつくるために闘うな。自由のために闘え」



 いかがでしょうか。



 彼の映画を通した世界へのメッセージは、ファシズムと闘いながら、自由のために渾身の力をふりしぼっていることは明白ですね。



 すでに近年の中学校の歴史教科書の中には、ファシズムに抵抗した人物として彼を登場させるものも出てきました。



 世界を笑いの渦でとりこにしただけでなく、自由と平等にかけたその熱き生き方にも、もっとたくさんの光があてられてもよいのではないでしょうか。



 その勇気ある生涯に共感できる貴重な人物です。



 現在、そして将来にも多大な影響を及ぼすと思います。

スポンサーサイト
8 ネルー (1889年~1964年)




~カーストの身分差別廃止と世界の平和共存をめざしたインドの初代首相~




 ガンジーとともにインド独立のために、非暴力・不服従でイギリスと闘った人物の一人です。



 ネルーはイギリスのケンブリッジ大学で学び、西欧的合理的精神を身につけたといわれています。

 ガンジーのもとで、インドの完全独立を要求する急進派である 「国民会議派」 の指導者になりました。



 ネルーもイギリスの不合理な権力によってたびたび投獄されていますが、くじけずに独立運動を続けていました。

 1929年、ネルーは国民会議派の大会で、イギリスからの完全な独立を訴えています。



 実際に独立を達成したのは1947年でした。

 言葉では表せない長くて苦しい闘いが続いていたのです。



 独立後の翌年、ガンジーは宗教差別の犠牲になり暗殺されてしまいました。



 インドの初代首相となったネルーは1950年、カーストによる差別禁止など、社会の近代化をめざす憲法を発布してインド共和国になりました。



 紀元前の時代から延々と続いている、インド独特のカースト制度とよばれる身分差別。


 これを憲法で否定したことは、世界史上の快挙といえると思います。



 しかし、長い間の慣習からか、実際には社会の隅々までカーストによる差別意識は残り、なかなかなくなっていきません。



 日本にも独特の部落差別という差別が厳然と存在します。

 就職差別や結婚差別が毎年のようにおこっています。



 僕の住む新潟県も決して例外ではありません。

 日本国憲法で否定されてもなかなかなくならないのは、インドとよく似ているのではないでしょうか。



 カーストは、僕にはとても遠い外国のこととは思えません。



 1954年、ネルーは中国の周恩来とともに平和五原則を発表しました。



 五つとは、

 1 領土・主権の尊重   2 相互不可侵   3 内政不干渉   4 平等互恵   5 平和的共存


 以上です。



 まさに人権感覚を大切にした、自由と平等をめざした画期的な発表でした。




 帝国主義政策をとっていた列強諸国に対して


 「あなたがたは、人を人とも思わない差別者だ」



  という言葉を突き付けたも同然です。



 この宣言は世界に大きく影響し、平和共存や第三世界の結集にも大きく寄与しました。



 予想以上の大きな反響に、彼は次のように提案します。



 「アジアの国だけでなく、アフリカ諸国にも呼びかけて、平和のための会議を開きましょう」




 これは、後に実現されました。


 1955年にインドネシアのバンドンで 「アジア・アフリカ会議」 が開催されたのです。



 長い間、人種差別や民族差別で苦しめられてきた発展途上国の人々が、結集して立ち上がり、人間が人間らしく生きるきっかけを作ったのです。



 また、前年の1954年、日本の第五福竜丸事件がおこりました。

 漁船の乗組員がアメリカの原水爆実験の犠牲になったのです。



 日本では、東京の杉並区の主婦たちが原水爆禁止の署名運動を始めました。



 インドのネルーはこれを他人事とは見なしませんでした。

 「わがインドはアメリカ合衆国とソビエト連邦に水爆実験の停止を提案する」




 しかしネルーの死後、現在のインドが 「核兵器保有国」 になっていることは周知の事実ですね。



 世界でたくさんの人々を苦しめてきた植民地支配や戦争。

 その背景には、明らかに人種差別や民族差別があります。



 また、インド国内でも、身分差別や宗教差別が依然として人権上の課題になっています。



 ネルーはこれら多くの差別と闘ってきた、長いインド史上の傑出した人物ではないでしょうか。


 広い視野をもった彼の人権感覚とその生き方に、僕たちを含めて世界の多くの人は大いに共感できると思います。



 世界の平和共存は人類共通の永遠の課題です。



 一人一人の幸福追求とともに、僕たちが世界にできることは何か、ということも同時に考えていきたいですね。

7 ピカソ (1881年~1973年)




~ファシズムから自由を守るために立ち上がったスペインの画家~




 僕が初めてピカソの絵を見たのは、小学生の時だったでしょうか。



 大いに戸惑った記憶があります。

 なぜこれが名画と呼ばれているのか、さっぱり理解できませんでした。



 ピカソは現在でも世界の美術史に残る大画家として、その名はあまりにも広く知られています。


 同時に、基本的人権の視点からも、世界史に残る大切な人物ではないでしょうか。



 僕が勤めた中学校で使用されていた歴史や美術の教科書では、ピカソの顔と作品が、カラーで大きく取り上げられていました。



 彼はスペイン南部のマラガに生まれました。

 20世紀美術の最も重要な革命の一つである 「キュビズム」 の創始者であるといわれています。



 キュビズムは立体主義とよばれ、色彩を重視せず、形態を強調して立体的に描写するものです。

 ピカソが絵画を通して闘ったのは 「ファシズム」 ですね。



 軍事力を用いた独裁政治です。



 ヨーロッパではドイツのヒトラーやイタリアのムッソリーニが有名ですが、ピカソの祖国スペインも、このファシズムによる人権侵害にさらされることになります。



 世界史上 「スペイン内戦」 と呼ばれる出来事がそれです。

 1937年、スペインのフランコ将軍の軍隊を支持するドイツ空軍とイタリア空軍が、スペイン北部のゲルニカの町を爆撃しました。



 罪もない人々が1600人以上も殺されたのです。

 とんでもない、大事件ですね。



 ピカソはこの事件に大きな衝撃を受けました。

 爆撃への抗議をこめ、ファシズムの暴虐さを世界に訴えるために描いた作品が有名な 「ゲルニカ」 です。



 この作品は多くの人々に衝撃を与え、人類史上、最も政治的な絵画となりました。

 スペインを引き裂いた内戦から生まれた 「ゲルニカ」 は、世界でもっとも有名な絵画の一つになりました。



 彼はフランコ将軍を生涯憎み、遺言により 「市民の諸権利が回復するまで」 作品がスペインに返還されることを拒み続けました。



 1975年のフランコ将軍の死後、1981年になって、ようやくスペインに返還されました。


 ピカソは言いました。



 「精神的な価値によって生き、かつ創造する芸術家は、人類や文明の最も本質的なものを危険にさらす戦争に無関心でいられないし、また無関心であってはならない」



 彼は 「ゲルニカ」 を描いた後も、戦争に対する強い抗議を、作品を通して行い続けました。

 絵画 「戦争」 と 「平和」 は1952年、南フランスのヴァロリストの教会に70歳の記念に描いた壁画です。



 ファシズムをやれば戦争になることは歴史が証明しています。


 僕たちの国日本も 「天皇制ファシズム」 とよばれる軍部の独裁がありました。



 日中戦争や太平洋戦争という限りなく大きな人権侵害を引き起こしていますね。


 差別により人を見下し、国の内外を問わず、罪もない人々を大量に殺害してきたのです。



 これほど人を人と見なさない行為があるでしょうか。



 スペインや日本は言うまでもなく、ドイツやイタリアも多くの犠牲者を出してしまいました。

 ピカソの絵は、今でも人間の自由と 「差別の残酷さ」 を訴え続けています。



 自らの美術作品を通して、人間の自由と平等をめざして、不合理な差別と闘った20世紀最大の芸術家の一人です。


 僕はピカソの生き方に大いに共感できるものがあり、世界史上の重要な人物の一人と考えています。



 そしてこれからも将来にわたって、長く人々の心に人権感覚の大切さを訴え続けていくのではないでしょうか。
6 魯 迅 (1881年~1936年)




~ペンで革命運動にかけた中国近代文学の父~




 魯迅 (ろじん) の本名は周樹人 (しゅうじゅじん) といいます。
 


 浙江省 (せっこうしょう) で生まれ、南京の学校で4年間学んだ後、日本に留学しました。

 医学を志して現在の東北大学医学部で学んでいたのです。



 ところが、授業で日露戦争のスライドを見て大きなショックを受けます。

 それはロシア人のスパイとしてつかまった中国人が、処刑されようとしている写真でした。



 驚いたことに、それを見物しているのが中国人で、みんな平気な顔をして見物していたのです。



 「私は医者になる勉強をしていましたが、やめました。

 今の中国人が必要なのは、体の治療じゃなく心の治療だ」



 魯迅は知人にこう述べ、さらに次にように語りました。



 「田畑を耕すように、私は人の心を耕そう。

 いつの日か、豊かな革命の実が実るのを願って」



 辛亥革命 (しんがいかくめい) にペンで参加することを決めたのです。


 口語体で文章を書こうという 「白話運動」 (はくわうんどう) に積極的に参加しました。



 まさに文学革命ですね。



 しかし革命は起こったものの、袁世凱 (えんせいがい) の独裁や軍閥の争いで、不安定な状態が延々と続いていました。

 1909年に帰国した魯迅は、小説 「狂人日記」 を陳独秀の雑誌 「新青年」 に発表しました。



 儒教の教えにしばられた、それまでの中国の家族制度を批判したものです。


 話し言葉で書かれてわかりやすく、当時の青年たちに競って読まれました。



 また1912年には、貧しい農民を主人公にして、そのころの中国の社会を風刺した 「阿Q正伝」 を発表しました。

 これらの作品は、革命を志す人々に大きな影響を与えています。



 古い支配や差別との魯迅の闘いは、こうして小説という形で始まりました。



 彼は中学校や師範学校の教師をしながら、文学に取り組んでいたのです。

 1920年から26年まで北京大学と北京女子師範大学の講師を務めています。



 この26年には 「3・18事件」 というショッキングな事件が起きています。

 北京女子師範大学の教え子を含む47人が政府の軍隊に射殺されたのです。



 その後北京を離れ、厦門 (あもい) 大学の教授になりましたが半年後に辞職。

 広東に移って、ある女性と一緒に暮らし始めました。



 名を許広平 (きょこうへい) といいます。

 北京からずっと追い続けてきた教え子だそうです。



 中山大学の教授になりましたが、蒋介石 (しょうかいせき) の反共クーデターをきっかけにした反共主義の高まりに抗議して辞職し、今度は上海 (シャンハイ) に移りました。



 その後は教職に就かず、左翼作家連盟を結成して、文学者として政府を痛烈に批判するようになりました。



 1929年には、愛する許広平との間に子どもが誕生しました。

 波乱の人生の中での束の間の安らぎでしたが、その7年後、魯迅は56歳で病没しました。



 教え子とのロマンスは、2人の往復書簡をまとめた 「両地書」 (りょうちしょ) に記録され、長い間、中国の人々に語り継がれています。



 魯迅といえば中国を代表する文学者。

 文学的にも世界史的にも、これはまちがいのない事実でしょう。




 同時に僕は、中国史を代表する人権感覚の持ち主だと考えています。


 人間としての自由な生き方をこよなく愛し、文学を通したペンによる中国革命にかけた人物が魯迅だと思います。



 古い中国の身分差別や、日本の軍部をはじめとする外国からの民族差別と闘った魯迅の生き方には、学ぶところが多いと思います。



 彼の考え方の影響は、時代も国境も越えて大きく広がり、現在でも世界中のたくさんの人々の共感を得ているのではないでしょうか。