5 アインシュタイン (1879年~1955年)




~民族差別を乗り越えて平和のために闘ったドイツの物理学者~


 

 アインシュタインといえば20世紀最大の物理学者として、ご存知の方も多いと思います。

 ノーベル物理学賞の受賞者で、「相対性理論」 を唱えた理論物理学は世界中に知れわたっています。



 科学者としての彼の功績は誰もが認めるところですが、僕はこのことと同じくらいに注目していることがあります。


 それは、彼は差別を乗り越えて世界平和のために闘った、人権感覚にすぐれた人物でもあるということです。



 まず、彼はユダヤ人です。



 大学卒業後の就職のとき、研究室の助手も、ギムナジウム (中学校と高校を合わせた中等教育機関) の教員の口もだめでした。


 やむをえず、理科のギムナジウムの臨時教員になりました。


 アインシュタインはこの就職がうまくいかなかった背景には、ユダヤ民族差別があったと悟っています。



 次にナチスの迫害があります。

 ユダヤ人であるということだけの理由で、命をねらわれたのです。



 しかし、彼は国外への移住を決断して実行したので、これらの差別に身を滅ぼされることはありませんでした。



 1879年、彼はドイツのウルムで生まれています。

 父親は電気工事店を営むユダヤ人でした。



 3歳になっても言葉がうまく話せない子でした。

 特に不得意だったのは歴史と語学です。



 ともにたくさん覚えるということが不可欠な教科ですね。

 さらにスポーツや音楽も苦手でした。



 1895年、スイス連邦工科大学の入学試験に不合格になってしまいました。

 歴史と生物、語学ができなかったためです。



 しかし、数学と物理は最高点で、翌年合格することができたのです。


 1年浪人したんですね。



 僕も浪人体験があります。

 だから当時のアインシュタインの不安な気持ちが少しわかるような気がします。



 高校生でもない、大学生でもない、社会人でもないという不安定な体験は、今となってはむしろあってよかったとさえ思います。

 今でもその境遇で努力している人の立場に立って考えることができるからです。



 1914年、第一次世界大戦が始まります。


 「科学は平和のためにこそ戦うべきです」



 アインシュタインはヨーロッパの平和と統一を呼びかける 「ヨーロッパ人への宣言」 に署名し戦争反対を訴えました。



 戦争は最大の人権侵害ですね。

 なぜなら、罪もない人々の命を一方的に奪っていくのですから。



 1915年にはフランスの作家ロマン・ロランと会い、命がけで平和運動をしている人たちを助ける方法について話し合いました。



 1921年、ノーベル物理学賞を受賞します。

 賞金は日本円にして約2000万円です。



 しかし、このお金は全額、離婚した元妻のミレーバという女性に渡されました。



 名声が高まるにつれ家庭を顧みなくなったアインシュタインの、元妻と2人の子供たちに対するせめてもの罪滅ぼしだったのでしょうか。



 その潔さには脱帽ですね。


 しかし、ナチスが台頭してくると、ユダヤ人であるというだけの理由で身が危険になってきました。



 彼は

 「ナチスに味方するプロシア科学アカデミーにとどまることは、科学者としての良心が許しません」

 と言って辞めてしまいます。



 ついに1933年、アメリカへ旅立ちます。



 その後、生涯ヨーロッパの土を踏むことはありませんでした。


 アインシュタインは、第二次世界大戦で原爆が使用されたことに大きなショックを受けています。



 この根本になる物理学の公式を彼自身が発見したことや、ナチスから世界を守るために、原爆開発をアメリカ大統領に勧めてしまったことを悔やんだのです。



 彼は残された生涯を原爆が二度と使われない世界をつくるためにささげたのでした。

 1949年、イスラエルの大統領になってほしいという要請がありましたが、これを断りました。



 1955年には入院中のベッドで 「ラッセル=アインシュタイン宣言」 に署名し、核兵器廃絶を世界に訴えています。



 差別に負けず、差別を乗り越えて懸命に生きたアインシュタインの生涯。



 科学だけでなく、基本的人権の視点から見た世界史上の重要人物としても、学ぶことが特に多いと思います。

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4 陳独秀 (1879年~1942年)




~民主主義を広め古い制度と闘った中国の思想家~




 陳独秀 (ちんどくしゅう) は、孫文が作った 「中国同盟会 」の会員で思想家です。



 辛亥革命にも参加し、日本の早稲田大学に留学していたこともあります。

 1915年に創刊された雑誌 「新青年」は話し言葉 (白話) でわかりやすく書かれた論文や小説を載せました。



 一般民衆の立場に立っているからこそできることですね。



 後に有名になった胡適 (こてき) や魯迅 (ろじん) などもこの新青年で作品を発表しています。

 欧米の思想も紹介されたりして 「文学革命」 ともいえる画期的な出来事でした。



 陳独秀はこう発言しました。



 「中国は今やその古い歴史におしつぶされて、身動きできなくなっているのです。

 私はこの古い中国と闘いますよ。



 新しい思想を若者に伝えるための雑誌をつくりましょう。

 新青年の読者から新しい中国を築く人が育ってほしい。



 今の中国では軍人や金持ちだけがいばっている。

 大多数の農民や労働者はまるで奴隷だ」



 このころの中国は、辛亥革命で清王朝を滅ぼしはしたものの、まだ安定した共和国になったとはいえず、軍閥をはじめとする軍事勢力が権力を得ようと、互いに争っていました。



 中でも袁世凱は最大の軍事力をもつ実力者で、中華民国の大総統の地位を事実上奪い、独裁者としての皇帝をめざしていました。



 第一次世界大戦がはじまると日本が中国侵略を図り、北京の袁世凱政権に 「21カ条の要求」 を突き付けてきました。

 袁世凱は一時的ではありますが、この21カ条の要求を認めています。




 中国国民のためではなく、自分の権力を日本につぶされないようにするためです。

 陳独秀はこのとき学者でもあった柏文蔚 (はくぶんうつ) という人とともに上海で活動していました。




 「北京の袁世凱は何を考えているんだ。

 日本のこんなむちゃな要求を認めるなんて。



 われわれ中国人はこのことを決して忘れることはないでしょう」



 事実、袁世凱がこの21カ条の要求を認めた日は 「国恥記念日」 として現在でも語り継がれているそうです。



 民族差別と植民地への第一歩を、国の権力者が認めたことになりますね。

 しかし、この袁世凱も帝政復活が失敗すると絶望し、心労と失意の中であっけなく病死してしまいました。



 これも、差別は 「する側」 が不幸になる典型的な例ですね。



 1921年、上海で中国共産党が結成されます。

 このとき若き日の毛沢東も参加していました。



 毛沢東は次のように提言しました。



 「中国共産党の党首には、ここにはいらっしゃらないが、陳独秀さんになってもらおう」



 こうして陳独秀はその人徳を認められて、中国の自由と平等のために共産党の党首に推薦されました。

 1924年、「第一次国共合作」 で孫文の中国国民党と手を組みます。



 孫文の考え方を尊重し、国民党大会に参加した以上、国民党の規則に従って安定した中華民国をめざしました。



 1925年に孫文が病死すると蒋介石 (しょうかいせき) と毛沢東が台頭してきます。



 中国国民党を継いだ蒋介石は、大金持ちや資本家と手を結び、共産党を排除して、孫文と陳独秀が成し遂げた第一次国共合作を破壊したのです。



 その後、満州事変や日中戦争という大事件に直面して第二次国共合作がなされますが、陳独秀は政治の表舞台とは距離を置いています。



 毛沢東の共産党にも批判的だったといわれています。



 彼は権力を握ることはしませんでしたが、著作などを通して思想家としての人権感覚がすぐれている人物だと思います。


 国民の立場に立ち、たくさんの人々に大きな影響を与えました。




 孫文の考えに最も近い共産党員の一人だったのではないでしょうか。




 国内や国外からの支配や差別と闘い、民主主義の大切さを訴え続けた、中国史上なくてはならない人物の一人だと僕は考えています。

3 安重根 (1879年~1910年)




~日本の侵略から祖国を守ることに命をかけた韓国の義兵~




 まず最初に、はっきりと言っておかなければならないことがあります。



 日本では安重根 (あんじゅうこん) は、明治の元勲 (げんくん )である伊藤博文の 「暗殺者」 です。

 しかし、韓国では祖国を守ろうとして命をかけた 「英雄」 なのです。



 日本では罪人というイメージが強く、韓国では英雄。

 この違いはいったいどこからくるのでしょうか。



 一言でいえば、「差別者の立場」 からの見方と、「被差別者の立場」 からの見方の違いが出たまでです。



 差別者とは、当時の伊藤博文をはじめとする明治政府の役人たちです。

 江華島事件や日清戦争、日露戦争など、典型的な帝国主義政策を推し進め、着々と朝鮮半島を侵略しようとしていました。



 おそらく、当時の一般の日本国民の多くも差別者の立場にあったと考えられます。

 韓国・朝鮮民族を見下し、植民地支配を良しとする考え方が多くありました。



 その影響は、韓国や北朝鮮が日本の植民地支配から独立した現在でも、未だに「在日韓国・朝鮮人差別」という形で根強く残っています。



 一方、被差別の立場にあったのは朝鮮民族の人々です。



 自分たちの祖国が一方的に植民地にされようとしていたのです。

 民族差別の意識がその根底にあるのは明白ですね。



 朝鮮半島の人々が、この事実を黙って見ているわけがありません。



 このことは、相手の立場に立てば容易に理解できることだと思います。

 実際に多くの抵抗運動がおこりました。



 その数ある抵抗の中の一つとして、歴史の表面に強烈に現れたのが安重根の活動です。



 1907年、伊藤博文は韓国の皇帝の地位を皇太子に譲らせ、第三次日韓協約によって、韓国の内政を統監である伊藤のもとにおかせたのです。



 これは韓国が事実上日本の支配下に置かれたことを意味しています。



 安重根は、文武特権官僚階級の出でカトリック教徒です。

 反日武力抗争 (義兵闘争) に加わり、彼の部隊は300人ほどだったそうです。



 しかし部隊は壊滅。

 ロシアに亡命しました。



 ロシアのノボキエフスクという町で、12名の同志とともに 「断指同盟」 を結成しました。

 これは左手薬指を詰め、その血で国旗に 「大韓独立」 と書き、国のために身をささげることを誓った団体です。



 だから、安重根の左手薬指はありません。

 しかし、この同盟の詳細についてはあまりよくわかっていません。



 その後ウラジオストクへ移っています。

 そこで伊藤博文が満州に来るという情報を得て、素早くハルビンに向かったのでした。



 1909年、ついにハルビン駅で、安重根は伊藤を射殺しました。



 その場で逮捕されましたが、日本の警察の尋問を受ける中で、自らの考えを堂々と主張したため、取り調べ官や弁護士は、彼に敬意をいだいたのです。



 伊藤の罪状は閔妃 (びんひ) 殺害、皇帝廃位、軍隊解散など、合わせて15になり、自分は「東洋の平和」と「大韓独立」を願って行動したと主張しました。



 これは、安重根個人の考えというより、当時の朝鮮半島の人々の大多数の考えを代表しているものなのです。


 その証拠に、韓国では今も彼は英雄なのです。



 僕は殺人を肯定しているわけではありません。



 当然のことながら、これをやれば何らかの重い責任を負うことになります。

 ちなみに安重根は処刑されました。



 しかし、当時の明治政府の行動にも大きな問題があり、その後第二次世界大戦での壊滅的な敗戦という、もっと大変なことにつながったことは歴史が証明しています。



 結局、不幸になるのは差別を 「する側」 であることを再確認できる歴史的な事実の一つだと思います。



 殺人ではなく、もう少し安重根に何か他に打つ手があったら、と惜しまれてなりません。



 僕たち日本国民だって、もし植民地にされそうになったら、何らかの形で抵抗するのは当然のことだと思います。



 自由と平等を求めて 「解放運動」 を起こすことは必然でしょう。



 差別をされても、仲間とともに差別を乗り越える方法があるのではないでしょうか。

2 ガンジー (1869年~1948年)




~人種差別に対して非暴力と不服従で闘い続けたインド独立の父~




 暴力は振るわなくても、不合理な支配と差別には断固として服従しない。



 粘り強い抵抗で、ついに差別者たちは支配をあきらめて、被差別の立場にあるたくさんの人々の人権を認める。

 まさに正義の勝利を絵にかいたようなできごとですね。



 世界史の中でも、その人柄と生き方を大いに学びたい人物です。



 ガンジーは、インド西部の藩王国の宰相の子として生まれましたが、幼いころはシャイで目立たない子どもでした。



 勉強も好きではなく、特に算数の九九が暗記できなくて困っていました。

 その上怖がりで、真っ暗な夜の闇を特に怖がりました。



 弁護士になっても客がつかず、南アフリカへ行ったのも、インドでは食べられなかったから、というのが理由だといわれています。


 南アフリカでガンジーは人種差別を受けます。



 後に 「ターバン事件」 といわれるものです。

 裁判所を見学に行ったとき、裁判長にターバン (インドの人々が頭に巻いている白い布) を取れと強要されました。



 インド人にとってターバンを取るということは、人前で下着を取れと言われたことに等しいのです。



 ガンジーがこのことを新聞に投書すると、新聞はこのニュースをいっせいに報道し、思わぬところからガンジーの名は広く知られるようになりました。



 白人が支配していた南アフリカでは、黒人やインド人が激しい人種差別を受けていました。

 歩道を歩くことさえ許されず、列車は一等車には乗れず、貨物列車のような三等車に乗せられました。


 

 「戦いは、武器や銃を使うだけとは限りません。

 もちろん暴力でもありません。



 非暴力・不服従で闘うのです」



 ガンジーはこう主張してインド人協会をつくり、南アフリカ政府と交渉を行い、インド人だけにかけられていた税金を8分の1に減らしました。



 1913年、南アフリカ政府はついにインド人に対する差別をすべてやめました。



 帰国後も、ガンジーの自由のための闘いは続きます。


 1918年、第一次世界大戦が終わりますが、イギリスはインドとの約束を破ります。



 戦後の独立を約束しながら、独立どころか植民地支配をよいことに、ますます一方的な支配と差別を強めてきたのです。

 ガンジーを中心に、インドでは全国民がいっせいに仕事を休んだり、すわり込みをしたり、抗議の行進をしたりして抵抗しました。



 何度逮捕されても、決して暴力を使いませんでした。



 監獄では、あまりにも多数のインド人逮捕者が出たので食事も間に合わず、人数も収容しきれなくなり、かえってイギリスのほうが困ってしまいました。



 1935年、根負けしたイギリスはついにインドの自治を認め、47年には正式に独立を認めます。


 ガンジーは、1937年から48年にかけて5回もノーベル平和賞の候補になりましたが、これをすべて固辞しました。



 名誉や形にこだわらず、本当の解放を求めた彼らしい態度ですね。



 独立を達成したインドには、まだ強烈な人権上の課題がインド人同士で存在します。

 宗教差別をはじめ、古代から続くカースト制度という頑強な身分差別です。



 憲法では否定されていますが、インド社会の隅々まで厳然として残り、身分制度の外に置かれている不可触民も存在し、いまだに解放されていません。



 残念なことに、ガンジーは、意外にもインド人の宗教差別者の一方的な凶弾に突然倒れます。


 現在でも多くの国民からその死を惜しまれています。



 僕は人種差別と闘ったガンジーの信念に深く共感しています。


 そしてその不服従という闘い方も、現在および将来のさまざまな差別との闘いに、世界中で生かすことができると思います。



 ガンジーこそ、世界史上傑出した人権感覚の持ち主ではないでしょうか。

1 孫 文 (1866年~1925年)




~民衆のための新しい国づくりに命をかけた中国革命の父~




  「中国の自由と平等」

  「民衆のための民主主義国家づくり」



  中国史上初めて基本的人権を前面に打ち出した人物が孫文です。


 「中国革命の父」 として、現在も多くの中国の人々から尊敬されています。



 皇帝や王の専制政治による支配が長く続いた中国において、世界的にも傑出した人権感覚の持ち主だと僕は考えています。



 異民族の支配と、さまざまな差別を乗り越えて生きた、歴史上なくてはならない人物の一人だと思います。

 日本の中学校や高校の教科書でも大きく取り上げられていますね。



 約300年続いた清朝末期、広東省に生まれた孫文は、12歳で兄を頼ってハワイのホノルルに渡りました。

 カトリックの学校で英語を学んでから、ハワイ大学に入学したのです。



 ここでアメリカのデモクラシーを学び、

 「異民族の清に支配されている中国に漢民族の政権を、西洋のような民主主義国家を」


 と考えるようになりました。



 3年後に帰国して1883年、香港に出てクイーンズカレッジで、イギリス流の教育を受けました。

 その後医学学校で学んで、1892年ごろから香港やマカオで医者として開業しています。



 つまり、孫文の職業は町の開業医だったのですね。


 1895年、広州で孫文はこう言っています。



 「私は子どものころ、よく太平天国の話を聞いて胸をおどらせたものです。

 今こそ清王朝を倒し、民主主義による共和政国家をつくるのだ」



 1905年、日本の東京で中国国民党の前身である 「中国同盟会」 を結成します。

 彼の活動開始の拠点は、僕たちの日本だったのですね。



 ここで彼の三民主義 (民族の独立、民権の伸長、民生の安定) が発表されて、多くの人々から支持を受けます。



 いよいよ革命運動開始です。



 1911年、第一革命がおこりました。

 いわゆる辛亥革命 (しんがいかくめい )です。



 軍隊が反旗をひるがえしたことをきっかけに、革命の炎はまたたく間に広がりました。

 わずか1か月の間に全国のほとんどの省が清から独立し、孫文が臨時大総統に選ばれたのです。。



 しかし、ここでじゃまが入りました。



 袁世凱 (えんせいがい) という男ですね。



 強大な軍事力をもつ彼は孫文とかけひきをし、臨時大総統の地位をゆずり受けさせたのです。

 袁世凱が目ざしたのは帝政であり、自分が皇帝になって独裁をねらいました。



 典型的な野心家であり、差別者ですね。

 当然、孫文とは敵対します。



 1913年、第二革命と呼ばれるできごとがおこりますが、孫文は失敗して日本へ亡命しました。



 1915年には第三革命がおこります。

 帝政反対で再び戦い、翌年袁世凱の帝政復活を取り消すことができました。




 「中華民国」 という名のアジアで初の共和政国家ができましたが、まだ軍閥の勢力が強く、中華民国政府はなかなか安定しませんでした。



 自由のための戦いはその後も延々と続いたのです。


 そんな中で1925年、孫文はがんに侵されます。




 「現在、革命いまだ成功せず」

 最後の言葉を残して、北京の病院で永眠しました。




 清という王朝からの民族差別。

 軍事力を背景にした袁世凱からの身分差別。




 列強諸国の帝国主義を背景にした軍閥たちからの差別。


 孫文はあまりにも多くの敵対勢力と、自由のために命をかけて戦い続けました。




 理想の実現半ばで病に倒れましたが、その人柄、人間を大切にする自由と平等のための思想と勇気ある行動は、世界の多くの人々の心に刻まれています。




 今後も中国だけでなく、世界中の人々の共感を得て語り継がれていくのではないでしょうか。